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第二章 月ニ鳴ク獣

第四十四話 帰る場所を守るために

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 双子が開けた窓から入る風が、室内の澱んだ空気を動かしている。
 湛礼台たんれいだいの十五楼。最高の娼妓として讃えられるはずの男は、寝台からもはや身を起こすこともできなかった。

 血液が供給されず、月鳴は次第に動けなくなった。歩けず、食事もとれず、やがては寝返りさえ打てなくなった。
 花主が妓楼にどれだけ金を渡しているのか分からないが、月鳴の部屋に客がやってくることはなかった。犯しに来る連中はいる。しかし、交接中に月鳴が吐くようになってからは、その訪れさえ絶えた。

 いつしか目を開けることすらなくなった月鳴の意識であるが、実は全く途絶えたわけではない。
 月鳴の意識は、常に闇にあった。鉄格子のない檻の中に彼は閉じ込められていた。

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 檻の中で、月鳴はただ闇を見つめているしかなかった。
 檻はひどく小さい。どんどん小さくなっていくことに、月鳴は気づいていた。今は足を抱え、首をすくめてようやく入っていられるだけ。足の裏を見えない壁にあてて蹴破ろうとするけれども、すぐに足の力は萎えてしまう。

 ――絶対に、迎えに行く。

 朱昂しゅこうの言葉をなぞる。己の力で彼のところまで走っていけたら。だが、身を縮めて待っていることしかできない。足を当てる。ぐっと膝に力をこめる。試みは徒労に終わる。
 檻に詰め込まれているせいで、肺が圧迫されて呼吸が苦しい。息を吸う度肩が上下する。徐々に空気が薄くなっているようだ。

 ――朱昂。

 口を動かしても、声は出なかった。泥のような諦めの境地から抜け出すために、朱昂が残してくれた言葉を月鳴は何度もなぞった。

 ――何とかする。

 さらに檻が小さくなった。鉄格子は見えないのに、肩に痛みを感じる。
 もうだめだという諦めの声を噛み殺し、月鳴は見えない何かに足を当てた。押す。力が抜ける。でも足は動かさない。押す。押す。押す。――絶対に何とかしてみせる。

 解放は、突然だった。
 音もなく、足裏に感じていた抵抗が消え、足が飛び出した。同時に背中に感じていたものも消え、バタン、と仰向けに倒れる。驚いていると、急に視界が眩しくなった。咄嗟に目をつぶった月鳴は、まぶたの向こう側の光が和らぐのを感じ、おそるおそる目を開いた。
 辺り一面翠色の炎がちらちらと闇に輝いていた。上も下もまるで蛍が飛んでいるようだった。月鳴が嘆息すると、まるで吹き消されたように蛍の光は消えた。

 ――行こう。

 月鳴は時間をかけて体を起こし、立ち上がった。くらりとめまいを覚えるが、体は意外と軽い。
 月鳴は、萎えた足を懸命に動かし始めた。歩きは早くなり、やがて走り出す。
 その時、闇を横一文字に切り裂くように、黄金色の線が走った。線は太くなり、くらくらと生まれたての太陽が昇り始める。空が、みずみずしい青に一面染め上がった。
 朝日を背にして、誰かが立っている。おとなに囲まれるようにして少年がひとり。逆光の中で、細い腕をあげて手を振っていた。

 ――暁ちゃん!

 懐かしい声に招かれて、足に力が漲る。少年が腕を広げて走ってくる。月鳴は渾身の力で彼の名を呼んだ。

「しゅ、こ……」
「月鳴様!!」

 狭い視界に、不安げな子どもの顔がふたつ並んでいた。首に違和感がある。長い間血を絶たれ、寝台から頭も上げられない月鳴が亀のような動きで首の裏を触った。ジャリと乾いたものが指に触れる。何かが剥落している。

「しせ、い、首……おかしくない、か」
「首ですか?」

 寝台にあがって月鳴の汗を拭いていた子静が首の後ろを見る。床ずれのために荒れた皮膚の中に、あるはずの痣がなかった。白く乾いた皮膚のようなものがこびりついているだけ。小さな指でこすれば、剥がれた皮がハラハラと落ちた。

「子静……」
「痣がないです。なんだか剥がれ落ちたみたいになってる」
「な、い……はがれ、落ちた。あ、あぁ……」

 数か月前から部屋の扉は開かない。水だけで生き延びていた月鳴の瞳は乾ききって、涙なく月鳴は嗚咽した。

「……くれ」
「月鳴様、なんて?」

 耳を口元に近づける子躍に月鳴が、必死で訴える。

「しゅこ、しらせて……しゅこう、に」
「痣がなくなったことを?」

 答えを聞く前に、月鳴の全身の力が抜けた。
 主の意識が戻ったのが何日ぶりか、ふたりとも分からなかった。昏倒した月鳴の胸に手をあてて、鼓動を確認する。か細い音、妙に間隔の遠い呼吸。子静と子躍は顔を見合わせた。

「どうしよう、月鳴様死んじゃう」
「知らせに行かなきゃ」
「外は見張りがいるかも」

 ふたりは扉とは反対側の窓を見た。部屋の窓は、双子が通り抜けられるほどには開けることができた。
 幽鬼特有の、極端に軽い体で窓の隙間をくぐった。窓枠にしがみついて下を見ようとしてやめた。

「俺たちは幽鬼、俺たちは幽鬼、俺たちは幽鬼」

 恐怖で震えながら、落ちても平気だと言い聞かせるように子躍がつぶやく。ビュウと風が吹いて、わあっと叫ぶ。膝ががくがく震える。窓枠を握りしめる子躍の手の上に子静が手を重ねた。頬にはもう幾筋も涙のあとができている。だが、子静は部屋の中に戻ろうとはしなかった。

「行こう。月鳴様がいなくなったら、ぼくらまた迷子だ」
「うん」

 ふらつきながら、屋根の上で手をつなぐ。

「外の誰かに知らせるんだ」

 子躍の言葉にうんと兄弟でうなずくと、窓枠を蹴り、ふたりは湛礼台の屋根から飛び降りた。
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