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第二章 月ニ鳴ク獣

第四十一話 厚い壁(1)

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 黒髪を粗い櫛で梳かす手を止めて、月鳴げつめいは鏡の中の自分を見つめた。髪をかき上げて目を細める。最近、少々細かいものを見るのに難を感じるようになってきた。鏡に顔を近づける。
 美しさを保ってきた顔は、大きな皺もない。笑う時だけ目元に浮かぶそれを、客は色っぽいと囁くことが多かった。

 手を下ろすと、額に、頬に、黒髪が下りてくる。少しばかり染髪料の匂いがして、もう一度髪だけよく洗わねばと思う。いっそ白髪はいくらか残した方がいいだろうか。鎖骨辺りまで髪を切り、常に髪を固く結って男装に近づけようか。

 年を重ねてきた月鳴にとって、どう美しく老いの波に乗るかが悩みの種だ。老いを拒むと美しさは損なわれる。あまりに枯れた風情にすると客が鼻白むだろう。どうしようか、ああしようかと頤を上げ下げしながら悩んでいると、扉の外に気配を感じた。月鳴の居室は十四楼にある。湛礼台たんれいだい最上位の男娼に、月鳴はなっていた。

 入室の声に応じると、白火はくびが辺りを憚るように入ってきた。男衆を遠ざけて、月鳴の腰を抱くようにして長椅子に座る。
 どうしたんだと問う前に、白火が懐から瓶を出した。中に、赤いまったりと重そうな液体が入っている。生臭い匂いを感じ、月鳴は袖で鼻を覆った。ただの血液ではない。

「これは……」
真血しんけつ

 白火が声を殺して耳元で囁く。叫びそうになったが、寸前でこらえた。白火の黄色の瞳にも緊張が宿っている。

「先ほど届いたのだ。公が『急いで飲ませろ』と仰せのようで」

 なぜ急に、と思いながら胸を押さえる。胃の腑からこみ上げるものがある。痣が痛いのは、目の前にあるのが朱昂しゅこうの血液だからか。

「金の用意ができたのか」
「できたのかもしれないが、聞いていない。しかし公が飲めと仰せなら従うほかあるまい。即位もされてしばらく経つし、何かお考えがあるのでは」
「しかし急すぎる……。いや、飲もう」

 むしろ月鳴は真血を飲む時を待ち望んでいたのだ。
 朱昂からまだ早いと言われ我慢していたが、ようやく朱昂が承諾してくれた。これで苦労は終わりだ。そう自分に言い聞かせる。
 背筋が震えるのは武者震いのようなものだろう。なんだかめまいがするのは、予想外の喜びで気が動転しているだけだ。ここで挫けてたまるか。

「んぐっ」

 月鳴は手の震えのためにボタボタと膝に血をこぼしながら、冷え切ったそれをぐいと傾けた。臭い油のように感じるそれを力づくで嚥下する。胃が痙攣し吐き出そうとするのを、顎を思い切り反らしてこらえた。ボロボロと涙がこぼれる。鼻から、飲みきれなかった真血があふれ、顎に伝った。

 最初に感じたのは寒気だった。全身の血液の温度がどっと下がった。次に首の痛み。全身が収縮するような感覚。バクバクと心臓が破裂してしまうという勢いで、鼓動が早くなった結果、月鳴の喉が決壊した。

 叫び声を上げ、瞳孔を極限まで開いた月鳴が前かがみになる。すると口から真血が迸った。
 内臓をまるごと吐いてしまったかのような痛みと衝撃だった。頭が割れそうだ。痛みにのたうつ月鳴が両手でガンガンと己の頭蓋を叩く。白くなった視界は急速に点となる。

 意識が途絶えるまで月鳴は泣き叫びながら頭を叩き続けた。刃物がないのが幸いだった。首と頭の痛みにこらえきれず、自ら首を落としていただろう。
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