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第二章 月ニ鳴ク獣
第三十九話 至高の階を踏む者(2)
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「父上」
すぐ隣からかけられた声に、朱昂は現実に意識を戻し傍らに立つ息子を見た。やや緊張した面持ちの葵穣に朱昂は笑う。準備で慌ただしく、朝になってから顔を合わせるのは今が初めてだった。
銅鑼がもう一打、打ち鳴らされる。場の空気がキリキリと張りつめていくのに鳥肌が立つのを感じながら、朱昂は差し出された葵穣の手を取った。
出座を促す声が聞こえる。王は麗血公とあだ名される美貌の王子の手に支えられ、立ち上がった。胸を張り、紅の毛氈に一歩足を踏み出す。
広間へと姿を現した王に万歳の唱和が止まらない。銅鑼の音とともに唱和は止み、王が玉座についた瞬間、風になびく下草のように、居並ぶ者が一斉に叩頭した。その時、震える声に名を呼ばれた気がした。何かを尋ねるように語尾だけがわずかに上がる。
――朱昂。
驚きはなかった。父の頭は、常に朱昂の足元に転がっている。苦痛と激情に満ちた紅の瞳を、朱昂が忘れた日はなかった。
朱昂は袖を振り、まぶたを上げる。自らが力で踏みつける者たちを見た。
父の声は胸深くで響き続けている。父の血をすすり、踏みつけにしてきた者たちの姿を眺めながら、朱昂は薄く微笑んだ。
真血の主が玉座をあたためるのは、実に五九三年ぶりのことであった。
-----
祝賀の宴を終えた朱昂は侍従を遠ざけ、自室でたったひとり物思いに沈んでいた。冠を外し、戒めを解かれた朱昂の黒髪が胸や背中に落ちている。うねる髪にじゃれつくようにして鳴蝶が止まっていたが、朱昂は無言で卓の木目を見ていた。
時は夜明け前。月鳴が商売をしている時間であるため話しかけないのだ。朱昂がしもべを想っている時、鳴蝶は朱昂の周りを飛びまわる。悩まし気なため息の音に驚いたように蝶は飛び上がり、左肩から右肩へと移動する。
月鳴の身請けの金額は莫大だ。しかし王位を取り戻し、内憂は取り払われた。金はいつか用意できるだろう。朱昂を悩ませるのは、身請けの可否ではない。問題は朱昂のしもべではなくなった月鳴を、どのように龍玉の下した罰から解放するかであった。
――龍玉の束縛は緩み始めている。伯陽は記憶を取り戻し、鳴蝶で会話できる時間も増えている。いつか伯陽は自由になる。だが、それまで寿命がもつだろうか。
朱昂との会話は、めまいや嘔吐という形で月鳴に苦痛を与えた。朱昂が月鳴の四方五百里に近づけないのも、何らかの接触をすると月鳴が体調を崩すのも、大法廷での刑罰の結果だというのは明らかだった。一方で、会話による苦しみの現れる時間が、段々と伸びていることに朱昂は気づいていた。
いつか罪が償われ、罰から解放される日が来るだろうという希望はある。しかし、月鳴は加齢を続けている。罰から解放されるまでに月鳴の寿命が尽きるという恐れもあった。
苦界からは救ってやれる。だが、直接会うことは二度とできないかもしれない。
――俺の与えた名前が記憶を取り戻す鍵だった。真血を与えれば呪縛を抜け出す契機になるかもしれない。だが、反対に真血への拒否反応で命を縮めることになる可能性もある。
会話するだけで苦痛を感じ、数百里近づいた程度で病知らずの真血の主が嘔吐するのだ。罰の呪縛は並大抵のものではない。真血の摂取による月鳴の絶命は、決して突飛な発想ではなかった。
「やはり現時点ではなしだな」
自分に言い聞かせるように、「なし」と何度かつぶやく。だが、いくら悩んでも他に妙案が浮かんでくるわけでもなかった。こうしている間にも月鳴に残された〝時〟は、減り続けている。
「まずは龍玉……」
何度でも調べてやろうと心に決めて、朱昂はゆっくりと硬い帯をほどく。ばたりと寝台に倒れ伏す朱昂の頭上を、蝶が飛んでいた。
すぐ隣からかけられた声に、朱昂は現実に意識を戻し傍らに立つ息子を見た。やや緊張した面持ちの葵穣に朱昂は笑う。準備で慌ただしく、朝になってから顔を合わせるのは今が初めてだった。
銅鑼がもう一打、打ち鳴らされる。場の空気がキリキリと張りつめていくのに鳥肌が立つのを感じながら、朱昂は差し出された葵穣の手を取った。
出座を促す声が聞こえる。王は麗血公とあだ名される美貌の王子の手に支えられ、立ち上がった。胸を張り、紅の毛氈に一歩足を踏み出す。
広間へと姿を現した王に万歳の唱和が止まらない。銅鑼の音とともに唱和は止み、王が玉座についた瞬間、風になびく下草のように、居並ぶ者が一斉に叩頭した。その時、震える声に名を呼ばれた気がした。何かを尋ねるように語尾だけがわずかに上がる。
――朱昂。
驚きはなかった。父の頭は、常に朱昂の足元に転がっている。苦痛と激情に満ちた紅の瞳を、朱昂が忘れた日はなかった。
朱昂は袖を振り、まぶたを上げる。自らが力で踏みつける者たちを見た。
父の声は胸深くで響き続けている。父の血をすすり、踏みつけにしてきた者たちの姿を眺めながら、朱昂は薄く微笑んだ。
真血の主が玉座をあたためるのは、実に五九三年ぶりのことであった。
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祝賀の宴を終えた朱昂は侍従を遠ざけ、自室でたったひとり物思いに沈んでいた。冠を外し、戒めを解かれた朱昂の黒髪が胸や背中に落ちている。うねる髪にじゃれつくようにして鳴蝶が止まっていたが、朱昂は無言で卓の木目を見ていた。
時は夜明け前。月鳴が商売をしている時間であるため話しかけないのだ。朱昂がしもべを想っている時、鳴蝶は朱昂の周りを飛びまわる。悩まし気なため息の音に驚いたように蝶は飛び上がり、左肩から右肩へと移動する。
月鳴の身請けの金額は莫大だ。しかし王位を取り戻し、内憂は取り払われた。金はいつか用意できるだろう。朱昂を悩ませるのは、身請けの可否ではない。問題は朱昂のしもべではなくなった月鳴を、どのように龍玉の下した罰から解放するかであった。
――龍玉の束縛は緩み始めている。伯陽は記憶を取り戻し、鳴蝶で会話できる時間も増えている。いつか伯陽は自由になる。だが、それまで寿命がもつだろうか。
朱昂との会話は、めまいや嘔吐という形で月鳴に苦痛を与えた。朱昂が月鳴の四方五百里に近づけないのも、何らかの接触をすると月鳴が体調を崩すのも、大法廷での刑罰の結果だというのは明らかだった。一方で、会話による苦しみの現れる時間が、段々と伸びていることに朱昂は気づいていた。
いつか罪が償われ、罰から解放される日が来るだろうという希望はある。しかし、月鳴は加齢を続けている。罰から解放されるまでに月鳴の寿命が尽きるという恐れもあった。
苦界からは救ってやれる。だが、直接会うことは二度とできないかもしれない。
――俺の与えた名前が記憶を取り戻す鍵だった。真血を与えれば呪縛を抜け出す契機になるかもしれない。だが、反対に真血への拒否反応で命を縮めることになる可能性もある。
会話するだけで苦痛を感じ、数百里近づいた程度で病知らずの真血の主が嘔吐するのだ。罰の呪縛は並大抵のものではない。真血の摂取による月鳴の絶命は、決して突飛な発想ではなかった。
「やはり現時点ではなしだな」
自分に言い聞かせるように、「なし」と何度かつぶやく。だが、いくら悩んでも他に妙案が浮かんでくるわけでもなかった。こうしている間にも月鳴に残された〝時〟は、減り続けている。
「まずは龍玉……」
何度でも調べてやろうと心に決めて、朱昂はゆっくりと硬い帯をほどく。ばたりと寝台に倒れ伏す朱昂の頭上を、蝶が飛んでいた。
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