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第二章 月ニ鳴ク獣
幕間 狂いの芽生える音(2)
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龍玉との面会を諦めて執務室に戻った龍王を、部屋の中で待っている者がいた。
頭から足先まで黒い布で肌を覆っている。龍族ではない。立っても、大柄な龍王の腰のあたりまでしか背丈がなかった。二十年ほど前、龍宮内に迷い込んできた雑魔だった。悪さをする様子もないので放っておいたところ、姿を消しては隠密の真似事をするようになった。
「夢王と真血公が接触をしています」
「真血公、そうか」
男の声だ。龍王はちらりと過去のことを思い出し、うなずいて執務用の机に向かう。銅色の尾を左右に振り、龍の鱗を模した冠を指で押さえる。複雑な模様が彫られた角の先に夕日が灯る。
「お元気であれば何より」
同じ人を糧とする夢魔と吸血鬼は古くからの同盟関係だ。夢王と血王の組み合わせに異常は感じない。
吸血族が真血を殺したのではないかという話が龍宮にまで聞こえていたが、詳しい調査は必要なさそうだなと、ほっとする。他族に関わっている余裕がない。秘蹟に問題なければ基本龍族が動く必要はないのだ。
雑魔はまだ立ち去る気配がない。書類を見られたくないなと龍王は持ちかけた筆を置く。カラ、という音に続いて黒づくめの男が口を開いた。
「――真血公が、死んだはずのしもべを探していらっしゃるそうです」
龍王が訝しげに瞬いた。先ほど一瞬思い出した光景が色濃くなる。なぜ朱昂のしもべが死んだと知っている。
「大法廷のおりに亡くしたしもべは生きている、とお考えのようで」
「……そう。生きておるのか」
「はっきりと見てはおりませぬが、幻市にいる様子。ですが、真血公は幻市に近づけなかったようです。龍玉公のお力に阻まれたようで」
「罰がまだ解けていないだけだ」
龍王の声がいらだった。まるで寧龍自身が阻んでいるような言い草が気に障る。
罪も罰も永遠ではないというのが龍族の法の基本概念だ。時が贖罪をもたらす。故にいつか龍玉の下した罰は解ける。
そもそも大法廷には龍王の中にも苦い思い出が残っている。あまりにも若かった。罰の内容に後悔はないが、真血の主にもう少し礼を厚くして遇するべきであったと思う。
昏倒したまま床に引きずられるようにして同胞に引き取られた朱昂のことは折々に思い出す。記憶の中の朱昂は、最後に寧龍の姿に変わる。
苦い思いを忘れぬよう肝に銘じて、龍王は雑魔に言った。
「例え主従が再会しても何も問題はない。死亡確認をし、礼を尽くして水葬したのだ。もし仮死状態であったのを見過ごしてしまったとすれば龍宮の手落ちなのは認めよう。ただし真血公には罪に相当する罰を下している。その後しもべが主の元に戻るというのであれば、それは贖罪が成ったということだ。法は理のみで用いるに非ず。罪が時の河に流されれば、罰は消える」
厳しい口調の龍王に、雑魔は項垂れた。道理の分からぬものをいじめたような気持ちが龍王の中に芽生える。
「お怒りにならないでください。お役に立ちたかったのです」
「それは……」
「龍玉公が真血に負けたと言われれば、陛下のご心痛が増えるのではないかと恐ろしいのです。ただでさえ普段降らぬところに長雨が降っています。今年も堤が破れれば皆が死にます。責められるのは龍玉公です。これで真血の主従が再会すれば、龍玉公は魔境中で噂されるでしょう。罰すら掻いくぐられる最弱の秘蹟だと。――また民と龍が荒れます」
耳に何かが壊れた音がした。はっとして辺りを見るが何も変化はない。
雑魔は消えていた。
しばらく動かなかった龍王は咳払いした。仕事を再開させようとして、手を止める。筆を置き、頭を抱えた。
目の裏では龍玉廟が燃えている。呪う声とともに民が抵抗できぬ寧龍を引きずっていく。龍玉は祈りの手を組んでいる。
次々と壊れる音が聞こえる。だが、何が壊れたかを確認する気力すら、龍王に残されていなかった。
陛下のご気性が変わったと側近が語りだすのはそれより後のことである。
頭から足先まで黒い布で肌を覆っている。龍族ではない。立っても、大柄な龍王の腰のあたりまでしか背丈がなかった。二十年ほど前、龍宮内に迷い込んできた雑魔だった。悪さをする様子もないので放っておいたところ、姿を消しては隠密の真似事をするようになった。
「夢王と真血公が接触をしています」
「真血公、そうか」
男の声だ。龍王はちらりと過去のことを思い出し、うなずいて執務用の机に向かう。銅色の尾を左右に振り、龍の鱗を模した冠を指で押さえる。複雑な模様が彫られた角の先に夕日が灯る。
「お元気であれば何より」
同じ人を糧とする夢魔と吸血鬼は古くからの同盟関係だ。夢王と血王の組み合わせに異常は感じない。
吸血族が真血を殺したのではないかという話が龍宮にまで聞こえていたが、詳しい調査は必要なさそうだなと、ほっとする。他族に関わっている余裕がない。秘蹟に問題なければ基本龍族が動く必要はないのだ。
雑魔はまだ立ち去る気配がない。書類を見られたくないなと龍王は持ちかけた筆を置く。カラ、という音に続いて黒づくめの男が口を開いた。
「――真血公が、死んだはずのしもべを探していらっしゃるそうです」
龍王が訝しげに瞬いた。先ほど一瞬思い出した光景が色濃くなる。なぜ朱昂のしもべが死んだと知っている。
「大法廷のおりに亡くしたしもべは生きている、とお考えのようで」
「……そう。生きておるのか」
「はっきりと見てはおりませぬが、幻市にいる様子。ですが、真血公は幻市に近づけなかったようです。龍玉公のお力に阻まれたようで」
「罰がまだ解けていないだけだ」
龍王の声がいらだった。まるで寧龍自身が阻んでいるような言い草が気に障る。
罪も罰も永遠ではないというのが龍族の法の基本概念だ。時が贖罪をもたらす。故にいつか龍玉の下した罰は解ける。
そもそも大法廷には龍王の中にも苦い思い出が残っている。あまりにも若かった。罰の内容に後悔はないが、真血の主にもう少し礼を厚くして遇するべきであったと思う。
昏倒したまま床に引きずられるようにして同胞に引き取られた朱昂のことは折々に思い出す。記憶の中の朱昂は、最後に寧龍の姿に変わる。
苦い思いを忘れぬよう肝に銘じて、龍王は雑魔に言った。
「例え主従が再会しても何も問題はない。死亡確認をし、礼を尽くして水葬したのだ。もし仮死状態であったのを見過ごしてしまったとすれば龍宮の手落ちなのは認めよう。ただし真血公には罪に相当する罰を下している。その後しもべが主の元に戻るというのであれば、それは贖罪が成ったということだ。法は理のみで用いるに非ず。罪が時の河に流されれば、罰は消える」
厳しい口調の龍王に、雑魔は項垂れた。道理の分からぬものをいじめたような気持ちが龍王の中に芽生える。
「お怒りにならないでください。お役に立ちたかったのです」
「それは……」
「龍玉公が真血に負けたと言われれば、陛下のご心痛が増えるのではないかと恐ろしいのです。ただでさえ普段降らぬところに長雨が降っています。今年も堤が破れれば皆が死にます。責められるのは龍玉公です。これで真血の主従が再会すれば、龍玉公は魔境中で噂されるでしょう。罰すら掻いくぐられる最弱の秘蹟だと。――また民と龍が荒れます」
耳に何かが壊れた音がした。はっとして辺りを見るが何も変化はない。
雑魔は消えていた。
しばらく動かなかった龍王は咳払いした。仕事を再開させようとして、手を止める。筆を置き、頭を抱えた。
目の裏では龍玉廟が燃えている。呪う声とともに民が抵抗できぬ寧龍を引きずっていく。龍玉は祈りの手を組んでいる。
次々と壊れる音が聞こえる。だが、何が壊れたかを確認する気力すら、龍王に残されていなかった。
陛下のご気性が変わったと側近が語りだすのはそれより後のことである。
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