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第二章 月ニ鳴ク獣
第三十六話 覚醒(2)
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「朱昂」
初めて、彼に声を届ける。そう思うと、胸に雷が落ちた思いだった。羽は動かない。
朱昂を想うといつも首の裏の痣から火傷のような痛みが広がる。じわじわと痛みを覚えながら、蝶へもう一度声を吹きかけた。
すると、今度はすぐに蝶が閉じていた羽をハタハタと動かした。
――応えた!
朱昂、と低く囁く。「違う」と言われやしないかと、「お前は誰だ」と言われてしまいやしないかと恐れながら。再びハタハタと羽が動いた。それが示す音を、脳内で変換する。その音は――ハクヨウ、だった。
「はくよう……?」
つぶやいた瞬間、バリンと頭の中で何かが壊れた。少年の声が聞こえる。何かを言っているのだ。月鳴は両手で耳を塞いだ。記憶からもれる音に耳を澄ませる。
≪だめだよ!≫
甲高い少年の声が明瞭に耳を打った。真剣な眼差しが脳裏に浮かび上がる。夕暮れの太陽が、黒髪のふちを黄金に輝かせている。
「字だ」
月鳴はつぶやいていた。そうだ、これは朱昂に字を決めてもらった時の記憶だ。
朱昂は最初に違う名前にしようとしたけれど、似合わないと言ってやめたのだ。美しいだけの名前は似合わないと言った。
じっと考え込んでいた朱昂は、やがて吸い込まれるように太陽を見た。
≪太陽だよ≫
≪何?≫
少年はつぶやいて、友と見つめあった。朱昂は眉を下げると木の枝で地面に二文字を彫って書いた。せがんで考えてもらった、少年の新たな名前を。
――伯陽。
固い地面に朱昂が書いた文字。それを思い出した瞬間、月鳴は痛みに叫んでいた。
首の後ろが痛い。ちりちりとした痛みが、焼きごてを押されたような激しさに変わっていた。視界が白く点滅する。だが、痛みと同時に、月鳴は記憶が鮮やかな色を持ち、音を持ち、そして意味を成すものへと変化するのが分かった。
出会いと別れと、再会と。人間から吸血鬼になった自分。朱昂とともに過ごした七十年近い歳月を、一息に思い出していた。
「朱昂、元気なのか、困ってねえか! ひとりじゃないのか!?」
どうして別たれてしまったのか、それが思い出せない。離れる未来など描いたこともなかった自分たちが、こうして離れている。だが、朱昂は生きている。そして月鳴、否伯陽も、生きていた。
「朱昂、朱昂!」
たった一つ想い続けた名を呼びながら、悶え苦しむ男に、蝶はかけがえのない友の言葉を伝えた。
『絶対に迎えに行く。待っていろ、伯陽』
「分かっだ、――ぐぅ!」
視界が白くなる、羽が読めなくなる。意識が消失する前に、これだけは伝えたい。どうか正しい言葉として蝶が伝えてくれますようにと、脂汗を落としながら伯陽は叫んだ。
「必ず待っているから、ずっと待ってるよ、朱昂!」
だから無理だけはするなと、それが言葉になったかは、もう、分からなかった。
初めて、彼に声を届ける。そう思うと、胸に雷が落ちた思いだった。羽は動かない。
朱昂を想うといつも首の裏の痣から火傷のような痛みが広がる。じわじわと痛みを覚えながら、蝶へもう一度声を吹きかけた。
すると、今度はすぐに蝶が閉じていた羽をハタハタと動かした。
――応えた!
朱昂、と低く囁く。「違う」と言われやしないかと、「お前は誰だ」と言われてしまいやしないかと恐れながら。再びハタハタと羽が動いた。それが示す音を、脳内で変換する。その音は――ハクヨウ、だった。
「はくよう……?」
つぶやいた瞬間、バリンと頭の中で何かが壊れた。少年の声が聞こえる。何かを言っているのだ。月鳴は両手で耳を塞いだ。記憶からもれる音に耳を澄ませる。
≪だめだよ!≫
甲高い少年の声が明瞭に耳を打った。真剣な眼差しが脳裏に浮かび上がる。夕暮れの太陽が、黒髪のふちを黄金に輝かせている。
「字だ」
月鳴はつぶやいていた。そうだ、これは朱昂に字を決めてもらった時の記憶だ。
朱昂は最初に違う名前にしようとしたけれど、似合わないと言ってやめたのだ。美しいだけの名前は似合わないと言った。
じっと考え込んでいた朱昂は、やがて吸い込まれるように太陽を見た。
≪太陽だよ≫
≪何?≫
少年はつぶやいて、友と見つめあった。朱昂は眉を下げると木の枝で地面に二文字を彫って書いた。せがんで考えてもらった、少年の新たな名前を。
――伯陽。
固い地面に朱昂が書いた文字。それを思い出した瞬間、月鳴は痛みに叫んでいた。
首の後ろが痛い。ちりちりとした痛みが、焼きごてを押されたような激しさに変わっていた。視界が白く点滅する。だが、痛みと同時に、月鳴は記憶が鮮やかな色を持ち、音を持ち、そして意味を成すものへと変化するのが分かった。
出会いと別れと、再会と。人間から吸血鬼になった自分。朱昂とともに過ごした七十年近い歳月を、一息に思い出していた。
「朱昂、元気なのか、困ってねえか! ひとりじゃないのか!?」
どうして別たれてしまったのか、それが思い出せない。離れる未来など描いたこともなかった自分たちが、こうして離れている。だが、朱昂は生きている。そして月鳴、否伯陽も、生きていた。
「朱昂、朱昂!」
たった一つ想い続けた名を呼びながら、悶え苦しむ男に、蝶はかけがえのない友の言葉を伝えた。
『絶対に迎えに行く。待っていろ、伯陽』
「分かっだ、――ぐぅ!」
視界が白くなる、羽が読めなくなる。意識が消失する前に、これだけは伝えたい。どうか正しい言葉として蝶が伝えてくれますようにと、脂汗を落としながら伯陽は叫んだ。
「必ず待っているから、ずっと待ってるよ、朱昂!」
だから無理だけはするなと、それが言葉になったかは、もう、分からなかった。
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