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第二章 月ニ鳴ク獣
第三十六話 覚醒(1)
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少し眠っていた、と月鳴は薄暗い寝台の中で目を開けた。今夜の客はとりわけ月鳴に入れあげている若い男だった。くたくたになるまで付き合って、涙なみだの別れを演じた月鳴は、朝食に見向きもせずに眠り込んでいた。少し考えて、二度寝を決めようとした月鳴は、戸を叩く音に気がついた。
起き上がる前に戸が開く。コツコツと複数の沓音が近づいてきたかと思うと、寝台の帳がいきなり上がった。
「ちょっと待って――」
覗いた顔を見て、慌てて夜着の前をあわせるのを月鳴はやめた。口をあんぐりと開ける
「白火……」
「いきなり入ってすまんな。お客様はお帰りのようだったから」
「帰りましたよ……。来るなら連絡くらいくれよ、淘乱は一緒か!? もう動いていいのか」
驚きで固まっていた口が徐々に動き始める。
一月前、奇跡的に病が癒えたとは聞いていた。白火からの手紙も届き、仰天しながらも安堵の息を吐いていたところだ。そこを急にけろっとした顔で現れて、質問をすれば「淘乱様はいない。いいから」などとなだめようとする。
「どれだけ心配したと思ってんだ!!」
月鳴は叫んでから、思わず振り上げた拳をゆっくりと下ろした。頭では「どれだけ苦労したと思う」と言おうとしていたのに、実際に口から出た言葉に怒りがしぼむ。心配していたのか、と自分の気持ちが腑に落ちて、月鳴は落ち着いた様子で夜着を整えた。
「心配かけてすまん」
「肝が冷えっぱなしだったよ。翼和まで手放すことになって、まったく。朝飯これから食おうと思うが、一緒に食べるか」
わざとぶっきらぼうな言葉を吐いて、応接間に向かおうとする月鳴を白火が引き留めた。
「真血公から渡されているものがある」
白火の一言に、月鳴は頭が真っ白になった。
――白火、今なんて言った?
顔だけ振り向いた状態で動かない月鳴の前で、白火は懐から黒い紙片のようなものを取り出した。何度か振ると、それは舞い上がる。黒い蝶が、月鳴の肩に止まった。
「私の脳に腫瘍ができて、それが全身に広がっていたらしい。あと少しで呼吸を司る部分というのが死んでしまうところだったと、真血公から説明を受けた。ここまでお連れするつもりだったが、道中不具合があってな、鳴蝶を預かってきたというわけだ。お前に並々ならぬ関心がおありの様子だった。――月鳴、しっかりしなさい」
白火に腕を引かれて寝台に座らされる。蝶が指の先に止まる。ただの蝶ではない。鳴蝶と呼ばれるこれは、二匹で一対となっており、遠く離れた相手の言葉を音ではなく羽の動きで伝え合う虫だ。
音を聞き取る触角が、月鳴の手に乗せられてぴくりと震えた。黒い羽の上に一本、違う色の筋が走っている。その色が、音もない記憶の中の青年の瞳を想起させ、月鳴は蝶を止まらせた右手を挙げたまま、深くうつむいて顔を覆った。
「鳴蝶の使い方は知っているな。私は席を外すよ。真血公がお待ちだろう」
「待ってくれ! ほんと、本当に朱昂だったのか? 紅い目だったのか!? お、俺に関心ってどういうことだ。俺のことを買いたいって、言ったのか。寝たいって……そ、それなら会えない!」
会いたいと、叫びたかった。それでも口は正反対のことを言う。願う想いが強いほど、耐えた年月が長いほど、実現を前に恐怖を抱いてしまう。本当は恐ろしい。自分は「彼」の何者でもないかもしれない、と。彼が自分の帰るべき場所ではなかったら。
鳴蝶を乗った手を白火へ突き出すと、白火が屈んで「目を見ろ」と言う。琥珀色の瞳は、どちらも同じ色だった。以前は片方だけ色が沈んでいた。焦点が合ってないのは明白だった目が、いきいきとしている。
「視力が戻った。もう百五十年近く前に失われた視力がだよ。こんな奇跡が起こせるのは真血の主だけだ。もちろん紅い目だったとも。名乗られなかったが、周りは『朱昂』と呼んでいたように思うよ。なぜお前が知っているのか、聞きたいところだね」
思わず背を震わせると、白火が月鳴の両手をひとまとめに包んだ。驚いた蝶が飛び上がる。
「今は聞かないよ。いいからこれ以上お待たせするな。慈母の愛娼が秘蹟を前に尻尾をまいて逃げるなんて許されると思うか。情けない顔をするな。生き返った甲斐もない」
パン、と手の甲を軽く叩かれる。
白火が寝室を去る。戸を閉める音が聞こえた。月鳴は再び手の上に戻ってきた蝶を見る。
奇妙な記憶に何の意味もないかもしれないと、自問を繰り返してきた。こうして鳴蝶を差し出されても、まだ迷う。自分と朱昂は、無関係なのではないかと。それでも、これまで歯を食い縛って耐えてきたのは、自分の中に強く存在する「会いたい」という一念を信じてきたからだ。
息を吐くと、月鳴は声を届ける蝶の触角へ唇を寄せた。
起き上がる前に戸が開く。コツコツと複数の沓音が近づいてきたかと思うと、寝台の帳がいきなり上がった。
「ちょっと待って――」
覗いた顔を見て、慌てて夜着の前をあわせるのを月鳴はやめた。口をあんぐりと開ける
「白火……」
「いきなり入ってすまんな。お客様はお帰りのようだったから」
「帰りましたよ……。来るなら連絡くらいくれよ、淘乱は一緒か!? もう動いていいのか」
驚きで固まっていた口が徐々に動き始める。
一月前、奇跡的に病が癒えたとは聞いていた。白火からの手紙も届き、仰天しながらも安堵の息を吐いていたところだ。そこを急にけろっとした顔で現れて、質問をすれば「淘乱様はいない。いいから」などとなだめようとする。
「どれだけ心配したと思ってんだ!!」
月鳴は叫んでから、思わず振り上げた拳をゆっくりと下ろした。頭では「どれだけ苦労したと思う」と言おうとしていたのに、実際に口から出た言葉に怒りがしぼむ。心配していたのか、と自分の気持ちが腑に落ちて、月鳴は落ち着いた様子で夜着を整えた。
「心配かけてすまん」
「肝が冷えっぱなしだったよ。翼和まで手放すことになって、まったく。朝飯これから食おうと思うが、一緒に食べるか」
わざとぶっきらぼうな言葉を吐いて、応接間に向かおうとする月鳴を白火が引き留めた。
「真血公から渡されているものがある」
白火の一言に、月鳴は頭が真っ白になった。
――白火、今なんて言った?
顔だけ振り向いた状態で動かない月鳴の前で、白火は懐から黒い紙片のようなものを取り出した。何度か振ると、それは舞い上がる。黒い蝶が、月鳴の肩に止まった。
「私の脳に腫瘍ができて、それが全身に広がっていたらしい。あと少しで呼吸を司る部分というのが死んでしまうところだったと、真血公から説明を受けた。ここまでお連れするつもりだったが、道中不具合があってな、鳴蝶を預かってきたというわけだ。お前に並々ならぬ関心がおありの様子だった。――月鳴、しっかりしなさい」
白火に腕を引かれて寝台に座らされる。蝶が指の先に止まる。ただの蝶ではない。鳴蝶と呼ばれるこれは、二匹で一対となっており、遠く離れた相手の言葉を音ではなく羽の動きで伝え合う虫だ。
音を聞き取る触角が、月鳴の手に乗せられてぴくりと震えた。黒い羽の上に一本、違う色の筋が走っている。その色が、音もない記憶の中の青年の瞳を想起させ、月鳴は蝶を止まらせた右手を挙げたまま、深くうつむいて顔を覆った。
「鳴蝶の使い方は知っているな。私は席を外すよ。真血公がお待ちだろう」
「待ってくれ! ほんと、本当に朱昂だったのか? 紅い目だったのか!? お、俺に関心ってどういうことだ。俺のことを買いたいって、言ったのか。寝たいって……そ、それなら会えない!」
会いたいと、叫びたかった。それでも口は正反対のことを言う。願う想いが強いほど、耐えた年月が長いほど、実現を前に恐怖を抱いてしまう。本当は恐ろしい。自分は「彼」の何者でもないかもしれない、と。彼が自分の帰るべき場所ではなかったら。
鳴蝶を乗った手を白火へ突き出すと、白火が屈んで「目を見ろ」と言う。琥珀色の瞳は、どちらも同じ色だった。以前は片方だけ色が沈んでいた。焦点が合ってないのは明白だった目が、いきいきとしている。
「視力が戻った。もう百五十年近く前に失われた視力がだよ。こんな奇跡が起こせるのは真血の主だけだ。もちろん紅い目だったとも。名乗られなかったが、周りは『朱昂』と呼んでいたように思うよ。なぜお前が知っているのか、聞きたいところだね」
思わず背を震わせると、白火が月鳴の両手をひとまとめに包んだ。驚いた蝶が飛び上がる。
「今は聞かないよ。いいからこれ以上お待たせするな。慈母の愛娼が秘蹟を前に尻尾をまいて逃げるなんて許されると思うか。情けない顔をするな。生き返った甲斐もない」
パン、と手の甲を軽く叩かれる。
白火が寝室を去る。戸を閉める音が聞こえた。月鳴は再び手の上に戻ってきた蝶を見る。
奇妙な記憶に何の意味もないかもしれないと、自問を繰り返してきた。こうして鳴蝶を差し出されても、まだ迷う。自分と朱昂は、無関係なのではないかと。それでも、これまで歯を食い縛って耐えてきたのは、自分の中に強く存在する「会いたい」という一念を信じてきたからだ。
息を吐くと、月鳴は声を届ける蝶の触角へ唇を寄せた。
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