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第二章 月ニ鳴ク獣

第三十四話 約定

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 中に入ると、金の細い脚が特徴的な、分厚い布張りの長椅子に淘乱とうらんが座っていた。朱昂に向かい側の椅子を勧める。朱昂が座ると、月鳴げつめいが茶器を運んできた。朱昂しゅこうのすぐ傍に膝をついて茶を淹れる。衣から芳しい香りがする。視線に気づいたのか、茶を注ぐ際に媚びるような目を一瞬だけ向けてきたことに、朱昂はうなじの毛が逆立つような怒りを覚えた。

「すばらしい幻術だ」

 朱昂が夢王を睨みつける。若造相手と思っているのか、淘乱は動じない。見た目には分からないが、ひと世代近く、淘乱と朱昂では年齢差がある。

「趣味が良すぎてめまいがする。消してくれまいか」

 淘乱は薄く笑って手を振った。月鳴が茶器を置いて遠ざかる。しかし、消えはしない。壁際まで下がってうつむくのみだ。「消せ」ともう一度迫るが、夢王は首を振る。

「月鳴に来し方を聞かないといけないだろう? 月鳴とて探しびとがいるんだ。月鳴ちゃん、真血公に教えて差し上げるといい。探しているのは、吸血鬼だったか?」

 夢王が問いかけると、びくりと月鳴が顔を上げた。朱昂はその顔を見て驚く。恰好は変わらないが、若くなっているのだ。別れた頃の伯陽とほぼ変わらない顔立ちだった。

「そ、そうではないかと。私には記憶が、ほとんどないのですが、私は彼と長年一緒にいたようで。子どもの頃から、青年の姿になるまで。私は血を求める体で、吸血族も私の血を飲めなかったので、吸血族だろうと皆が言います。そんな私と一緒にいたのならば、吸血鬼ではないかと。目が紅い者は珍しいでしょう?」

 月鳴が必死の表情で夢王に訴える。今までの作り物めいた表情とは雲泥の差だ。
 月鳴の語りは止まらなかった。

「黒い髪に、透き通るような白い肌です。体も細くて、一目見ただけでは女に見えるかも。背は、人間並みだと思います。目が大きくて……」

 月鳴は少しずつ顔に年齢を重ねながら語り続けた。語りに「朱昂」という言葉が頻繁に混じり始める。
 過去に月鳴自身が淘乱に語って聞かせたことを、再現されているのだと説明を聞かずとも想像がついた。

 記憶をなくした身でありながら、伯陽が一心に自分を探し続けていたのだと思うと、朱昂は不甲斐なさで胸が引き絞られる。伯陽が自分を探していたということに喜びを感じる己の心にすら、反吐が出そうだった。
 やがて、月鳴の顔は先ほど朱昂を案内した時と同じものになる。おそらくこれが今の伯陽の姿なのだろうと、朱昂は食い入るようにその姿を見つめた。月鳴は涙を含んだ目を足元に落とし、悔し気に吐き捨てる。

「死ぬならっ、どうせ死ぬなら朱昂に会える方に賭けたんだ。死にたくなかった、会いたかった……」
「もういい! もう、やめてくれ」

 朱昂が夢王に向かって腕を振る。月鳴はようやく口を閉ざし、するりと姿を消した。

「月鳴には牙がない……」

 肯定する淘乱に朱昂は顔を覆う。
 大法廷で罰を受けた伯陽が、牙を失いながらも生きている。真血のしもべは肉体の時が止まる。加齢しているところを見ると、伯陽が失ったのは「真血のしもべ」としての在り方だと朱昂は理解した。朱昂は「しもべ」を失った。だが、伯陽までは奪われていなかった。
 うめく朱昂に淘乱が問いかける。

「父君をしいした罪を大法廷で裁かれ、罰として奪われた真血のしもべが月鳴になった、と理解しているが、それで合っているか?」

 ふ、と顔を覆いながら笑う。朱昂は淘乱に驚いていた。知れ渡っている夢王の聡明さにではなく、月鳴を百年近く保護し続けたことに、だ。王とはいえ、決して容易ではなかっただろう。そこまでした理由は、ひとつしか思いつかない。

 淘乱は喉から手が出るほど真血の力を欲している。一介の男娼のために大金を使うほどに。

「ご明察の通り、私は父を屠った罪を問われてしもべを奪われています。おそらく、月鳴は私のなくしたしもべで間違いないでしょう。これまでの我がしもべに対するご高配、まことに痛み入る。父殺しの身とはいえ、御恩には報いたい」

 ぎしりと淘乱が長椅子を軋ませて足を組んだ。背を椅子に預けた状態で黙っているが、傲慢な目だけが「続けろ」と言っていた。

「今後夢王の求めに応じて、私の真血の力を奮いましょう。ただし、私が無償で治療するのは御身のみとしていただきたい。私と御身の間だけで成立する約定ということであれば、なんなりとお申し付けを」
「ああ、それでいい。だがもし仮に、月鳴との再会が叶わなくともこの約は破られないか?」

 是、と答えようとする舌が震えた。生存を確認できただけで、再会できぬ可能性は大いにある。朱昂は膝の上でこぶしを握り締めた。

 死の道しかないのなら少しでも朱昂に会える方に賭けたい、と言った伯陽のことを想う。別れ際、伯陽が笑って言った言葉を思い出した。
 朱昂は顔を上げ、夢王を見据えた。

「我らの血のえにしは何よりも強い故、再会が叶わぬことはあり得ません。約定は朱昂の死の時まで、反故ほごにせぬと誓いましょう」

 淘乱は珍しいものを見るような目を朱昂に向けると、長椅子を叩いて大いに笑った。眉を寄せる朱昂に淘乱は目尻に浮いた涙を指で払う。

「まるで人間のように情がこまやかなことよ。まあしかし、かわいらしい主従だ、嫌いじゃない。今後ともできる限りで力は貸そう。約定忘れるな、朱昂」

 笑いながら淘乱は月鳴が置いたままの茶を自分で注いで飲む。
 現在の魔境で確固たる地位を築く慈母の君から力を貸すと言質が取れた。ようやく膝に震えがくるのを抑えつつ、朱昂は立ち上がり、室を辞した。

 翌日。朱昂は白火はくびの元を訪れ、幻市に同行し月鳴を紹介するよう伝えたのだった。
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