上 下
60 / 106
第二章 月ニ鳴ク獣

第三十二話 罪の形(1)

しおりを挟む
 みし、みし、と風が建物を押す音が続いている。人界にある隠れ処で考えごとに耽っていた朱昂しゅこうは、違和感を覚えてふと顔を上げた。音が消えた。家鳴りも、外からの風も聞こえない。
 辺りに目を配るも、夜目がきく紅眼に映る風景に異変はない。

 朱昂は猫のように足を忍ばせて寝台を降りた。相変わらず音はしない。窓の外を見ると、風に流された雲が忙しなく月の前を横切る様子が見える。柳が一方向に腕を伸ばしている。強風はまだ吹いているのに、音はない。長椅子の背に指を置いた瞬間、視界の端で古い燭台に火が灯った。

「誰だ?」

 もうひとつ、壁際に置かれた燭台に一斉に火が点る。鼓動が早くなる。燭台がひとりでに宙に浮き、誰かの手にあるように揺れながら朱昂に近づいてきた。
 次の瞬間、朱昂の目が訪問者を捉えた。褐色の肌に金茶の髪を持つ偉丈夫が煙から生じたように現れ、朱昂と向かい合う形で椅子に座る。男は卓に燭台を置くと、懐手して吸血鬼の王を見た。名乗るように鳶色の目が金に変わる。

 甘く垂れた目尻を見て、朱昂は己が夢王の術中にはまったことを知った。音はまだ、戻らない。

「いくら人界とはいえ、戸締まりはきちんとした方が良いぞ、真血公」

 淫欲の権化めと、朱昂は男の声を聞いて思った。容姿も眼差しも声も匂いも、全てが欲をそそるようにできているらしい。うなじの辺りがぞくぞくする。

 人界にある時、吸血鬼の気配ばかりを気にしていた自分に、胸中で舌打ちする。人界は、人間の精をすする淫魔にとっても慣れ親しんだ狩場だ。
 淫魔の秘蹟『慈母』は数代に一度男が産まれる。男ながらに子を成す子宮を有する当代慈母は、歴代の中でも霊力と知性に恵まれ、狡猾だというのが世の評判だ。夢魔に対する警戒心ががら空きな朱昂の気配を探り当てるなど、朝飯前だったろう。

 初めて他族の秘蹟と対面した朱昂の背中に汗が流れる。険しい表情のまま一言も発さない朱昂に、淘乱とうらんが愉快そうに眉を上げる。

「真血公には初めて会うが、すこぶる美男だな。そうして睨む顔も美しい。吸血鬼には美男が多いが、王は別格か。噂以上だ。むさぼりつきたくなる」

 朱昂はなおも黙る。淘乱の笑みがいよいよ濃くなる。いらっと短気の虫が頭を起こすのをじっと耐える。

「気位が高く、美しくて、賢さにも自信がある。うーん、もっと早く会いに来れば良かったかな。朱昂殿、そう警戒せずに椅子に座ってくれ。俺は親殺しだからといって虐めに来たのではない、おっと」

 親殺しという単語に朱昂の瞳孔が縦に伸びるのを淘乱が楽しそうに眺める。くつくつと喉まで鳴らしだした。
 朱昂は長椅子に座ると、微笑した。淘乱が今にも舌なめずりしそうな顔つきで眼を細める。

「若輩であり大罪を得た身ゆえ、慈母の君にご足労いただけるとは思わず、失礼しました。――気位が高いのではなく単に短気なのです。淘乱殿のように、親が死ぬのを待つことができませんで」

 よく辱しめを耐えられましたな。

 朱昂が言った瞬間、笑顔を吹き消した淘乱が立ち上がる。部屋は無明に包まれ、座っていたはずの椅子が消失し、朱昂は尻餅をついた。
 体勢を立て直す間もなくガシャンという音ともに上から降ってきた鉄格子に閉じ込められ、両脇から伸びてきた鎖にがんじがらめにされる。うつ伏せに倒れた口元には枷が嵌められ、気づけば白い衣服を纏わされている。

 夢王の夢の強力さに慌てた朱昂は顔を上げて絶句した。そこには龍王がいた。緑がかった黒髪、乳白色の角、薄墨色の瞳。

「淫魔が! 全身の血を抜いてくれる!」

 頭を覗かれたことに激怒した朱昂が叫ぶと、龍王の形をした淘乱が笑った。頬にくっきりとえくぼが刻まれる。

「元気なことよな、朱昂。自分の罪も知らぬ愚か者」
「よう知っておるわ」
「いいや、お前は気づいていないよ。見なさい」

 龍王の眉が憐れむように下がる。その左手が後方の闇を探り、暗闇から何かを引きずり出した。それは大柄な人だった。黒い髪は腰まで伸びて、艶やかに光っている。龍王の腕に引かれた人影がたたらを踏んだ瞬間、甘い芳香が振り撒かれる。女物の裾から覗くくるぶしが、それが男であることを知らせていた。

 龍王に化けた淘乱は男の顎をつかむと、床に転がる朱昂に見せつけるように上体を折らせた。耐えきれず、男が派手な音をたてて床に膝を打ち付けた。至近距離で目が合う。美しく化粧した顔を見た朱昂は、息を忘れた。

「伯陽……」

 男の顔は追い求める者の面影が、ありありと表れていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

総受けルート確定のBLゲーの主人公に転生してしまったんだけど、ここからソロエンドを迎えるにはどうすればいい?

寺一(テライチ)
BL
──妹よ。にいちゃんは、これから五人の男に抱かれるかもしれません。 ユズイはシスコン気味なことを除けばごくふつうの男子高校生。 ある日、熱をだした妹にかわって彼女が予約したゲームを店まで取りにいくことに。 その帰り道、ユズイは階段から足を踏みはずして命を落としてしまう。 そこに現れた女神さまは「あなたはこんなにはやく死ぬはずではなかった、お詫びに好きな条件で転生させてあげます」と言う。 それに「チート転生がしてみたい」と答えるユズイ。 女神さまは喜んで願いを叶えてくれた……ただしBLゲーの世界で。 BLゲーでのチート。それはとにかく攻略対象の好感度がバグレベルで上がっていくということ。 このままではなにもしなくても総受けルートが確定してしまう! 男にモテても仕方ないとユズイはソロエンドを目指すが、チートを望んだ代償は大きくて……!? 溺愛&執着されまくりの学園ラブコメです。

君のことなんてもう知らない

ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。 告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。 だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。 今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが… 「お前なんて知らないから」

早く惚れてよ、怖がりナツ

ぱんなこった。
BL
幼少期のトラウマのせいで男性が怖くて苦手な男子高校生1年の那月(なつ)16歳。女友達はいるものの、男子と上手く話す事すらできず、ずっと周りに煙たがられていた。 このままではダメだと、高校でこそ克服しようと思いつつも何度も玉砕してしまう。 そしてある日、そんな那月をからかってきた同級生達に襲われそうになった時、偶然3年生の彩世(いろせ)がやってくる。 一見、真面目で大人しそうな彩世は、那月を助けてくれて… 那月は初めて、男子…それも先輩とまともに言葉を交わす。 ツンデレ溺愛先輩×男が怖い年下後輩 《表紙はフリーイラスト@oekakimikasuke様のものをお借りしました》

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!

めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。 ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。 兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。 義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!? このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。 ※タイトル変更(2024/11/27)

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

処理中です...