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第二章 月ニ鳴ク獣

第三十一話 奇貨を愛でる(2)

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 じゃっと水が落ちる音に、月鳴の遠のいていた意識が浮上した。自分を抱いていたはずの腕がない。眠ってしまっていたかと首を巡らすと、淘乱とうらんが盥の上で布巾を固く絞っていた。

「寝てました……」

 喉の奥がひっついたようなかすれ声しか出ない。自分自身の声に月鳴が目を丸くすると、淘乱が近寄りながらからからと笑う。

「鳴かせすぎたかな」

 渡された水を少しずつ飲む間に、淘乱が月鳴の肌を拭いていく。何度も布を替えながら背中、胸、腕、足と丁寧に清められる。萎えた陰茎をつつかれて、悪戯する手を払った。ぬるま湯で濡らした布で局部を覆われる。深くため息を吐く。

「お風呂、どうしました?」
「入ったよ。月鳴ちゃんも担いでいれようかと思ったけど、死なれたら困るし。眠らせておこうと思って」
「どれくらい寝ておりましたか」

 外を見ても、まだ宵は深い。一刻寝ていたということはないだろうと思いつつ、客をほったらかしにしていたのは確かだ。あまりないことなので、気まずい。

「四半刻くらいかな」
「そう……」

 淘乱が足首をぬぐった。右、そして左。足環の上を通り過ぎる。

「どうして急にいらっしゃったの」

 丹念に足の指の間まで布が通るのを感じながら、月鳴がつぶやいた。声に、客を詰る気配はなかった。淘乱は好きなようにすることを月鳴は知っている。答えなど期待していなかった。ただ、ことさら丁寧に抱かれた後、夢王自身に手当てをされて心が緩んだのだ。疑問を、静まり返った夜の空気に溶かしたかっただけなのかもしれない。

「――『沈みかけの月の美しさを一目見て頂きたい』なんて手紙に書かれたら、見てみたくもなるじゃない。もう少し遅く来れば、もっといいものが見れただろうにね」

 淘乱の到着が遅ければ自分は間違いなく左足を失っていただろう、と月鳴は眉を寄せる。鮮血を垂らしながら、店先の馬を奪って逃げようともがいていたに違いない。
 淘乱が盥に布巾を投げ入れると、体を横にして囁いてきた。

「血を流してのたうち回りながら朱昂しゅこうを呼んでいれば、感動して身請けしたかもしれない。惜しかったよ」
「身請け」

 月鳴は思わず鼻で笑っていた。一番あり得ぬ話だ。淘乱が自分を芯から欲しがっているとは、とても思えなかった。何か裏がある。分かっていて体を開いた。月鳴も夢王を後ろ盾として利用したかった。お互い様だと思う。

「いっ!」

 淘乱に耳を噛まれた。唐突に乱暴され月鳴は耳を押さえて逃げようとする。だが、逞しい腕にすぐに閉じ込められた。

「だめだよ、月鳴ちゃん。今からでも身請けしてって必死でおねだりしないと」
「身請けなんてねだったら、見捨てるくせに!」

 腕を振りほどき怒鳴った月鳴は、すぐに突き放したはずの淘乱の胸にすがりついて泣き始めた。淘乱の手が一瞬遅れて裸の背中をなでる。

「どうしちゃったの。こんなにかわいくなって」
「死ぬならっ、どうせ死ぬなら朱昂に会える方に賭けたんだ。死にたくなかった、会いたかった……」
「君、時々ほんとどうしようもなくなるね」

 参るよ、と淘乱がぼやく。深く抱きしめられ、額にくちびるの熱を感じた。
 とん、とん、と背を叩かれる。あごにくちづける。ふたつの唇が結ばれる。普段饒舌な淘乱は、しばらく無言で月鳴の体をなだめていたが、ようやく口を開いた。

奇貨きかかまがいか、答え合わせしてもいい頃かな」
「なに?」

 月鳴が首を傾げると、淘乱に熱く接吻を施された。「機嫌直るの早すぎない?」と笑いながら淘乱がわずかに体を起こして肘枕をした。

「白火が治れば、問題解決ってことでいいよね?」

 月鳴が目を丸くする。

「どの医者も手の施しようがないって」
「はい、さようでございますかで片足失くすなんて、馬鹿馬鹿しいと思うけどね」
「んぅ」

 お前が通っていればすぐに新しい花主はなぬしは見つかったよ、という一言を月鳴は必死に呑み込んだ。さすがに捨てられるだろう。

「心当たりが、あるんですか……?」
「うーん。ま、一旦任せて。だめだったら連絡する。夢王のご寵愛健在ってことで当面苦しいことはなくなるでしょう?」
「ご寵愛を頂き続けたいところですが」
「それは月鳴ちゃん次第」

 淘乱が起き上がり、帰るというので身支度を手伝う。仕上げに両頬に吸いつくと、大きな体に抱きしめられて「愛してるよぉ」と言われる。軽すぎると思いつつも、ご寵愛云々は根っから冗談でもなさそうなのでひとまず胸をなでおろした。

「叶うなら白火の回復を待ちたいです。どうぞよろしくお願いいたします」
「それはこちらも同感だから、できるところまではやるよ。……月鳴ちゃん、白火のお供の若い子と話せるかな」
「まだいるでしょう。翼和の初夜が終わるまではいるはず」

 月鳴の脳裏に、ようやく翼和のことが蘇った。「大丈夫、大丈夫」と据わった目でつぶやいていた少女に、明日くらいは朝食を運んでやりたいと思う。

 戸を開くと、廊下の角に立っていた男衆を手招く。青年を連れてくるように言伝するとうなずいた。
 男衆は立ち去ったと思ったら意外な速さで若い狐を連れて戻ってきた。息せき切ってやってきた青年の頭を淘乱がぐりぐりとなでる。

「帰る道々話がしたい。付き合ってくれるか」
「もちろんでございます」
「じゃ、月鳴ちゃん、また」
「はい」

 腰を抱いていた淘乱の腕が離れる。指先だけ、月鳴は掴んだ。淘乱が金茶の髪を揺らして振り返った。

「淘乱。来てくれて嬉しかった。ありがとうございます」

 何の変哲もない感謝の言葉に、淘乱だけが目を丸くした。月鳴が上目で睨むとにやにや笑い始める。

「本当にどうしちゃったの」
「お礼を言っただけです」
「ふーん」

 淘乱は月鳴の手を掴み直すと、指先にくちづけた。

「またね」

 月鳴は、淘乱の接吻を受けた手を、夢王の気配が感じなくなるまで振りつづけていた。
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