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第二章 月ニ鳴ク獣

第二十九話 沈みゆく月(3)

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 出迎えた月鳴と翼和よくわに、白火は「大変だったな」とだけ告げた。月鳴の隣で青い顔をしている翼和に茶を淹れるように言って、白火が月鳴の袖を引く。

「よくあることだ」

 気にするなと言外に囁かれ、月鳴はうなずく。今朝の騒動の事情を聞いたのだろう。もしかすると女の最期の言葉まで知っているのかもしれない、と思う。

 月鳴の居室は、かつては先ほど死んだ女の部屋だった。湛礼台たんれいだいの娼妓は、順位が上がるほど高い階に居室を与えられる。月鳴が十二楼へと上がってきた時、女は入れ替わりに十一楼へと格下げになったのだった。階の移動は「格上げ」、「格下げ」と呼ばれている。楼ごとの定員は決まっているので、格上げがあれば同時に格下げがある。

「格下げしてしばらくで、花主が雲隠れしてしまっていたらしい」

 言いながら白火が指で目をおさえる。月鳴はため息をこらえた。

 落ち目の娼妓が辿る道だった。格下げとなり、売り上げが悪化した娼妓を他の花主へ売ろうとする花主は少なくない。しかし、稼ぎが少なくなることが分かっている娼妓を買う者などいない。赤字が出る前に花主は夜逃げする。娼妓は日々の売り上げでしばらくは耐え忍ぶが、湛礼台の客は落ち目の娼妓と関わることを嫌う。客が遠ざかり、赤字になる。借金の返済を求められる。金がないなら、骨や内臓を売ろうと刃物を持った男たちが現れる。

「あたしの命はあたしのものだ」とは、命以外を売りつくした女の、心からの叫びだったろう。
 白火が更に声を低くした。

「月鳴が飛び降りを止めたという話が広まっている」

 ぎくりと腹の底が跳ねた。動揺は面に出さずうつむいて白火の言葉を待つ。転落を止めるのは、月鳴の行動として「あり」か「なし」か、それは客が判断するのだ。

「さぞや落ち込んでいるのではと、心配のお声をいくつも頂いた。――妹と一緒だったと、言った方がいいかな」
「はい」

 何十年経とうと、心臓が痛まない日はない。毎日、作り上げられた月鳴の幻想を追いかけながら、日々を送っている。

 憂鬱そうにしつつ、「翼和の目に入れるのが辛かった」と首をかすかに振り、その後「翼和を慰めるのが大変で」と笑みを浮かべる。寝室に入り夜着を解く刹那「私が泣いたとしても、どうか見ないふりをして」と男の耳に囁く――。

 白火の手短な指示を頭の中で具体的なものへと変換しながら花主の後に続いて椅子に座る。供で来ていた若い狐が卓の上に資料を広げた。話題はやはり翼和の初夜のこと。相手となる客はすでに決まっているが、一階の舞台を借りてお披露目の宴をしたいとのことだった。

 予約が入りづらい下層の娼妓は、客寄せのために一階の「見世みせ」と呼ばれる広間に集まっている。客は、酒食や娼妓の歌舞を楽しみつつ、一夜の相手を探すのだ。見世の舞台で、月鳴の胡弓を伴奏にして翼和を歌わせるという計画だった。

 衣装や飾りつけなど細々としたことまで、白火に代わって連れの青年が語る。白火は話の間中口を挟まず、うつむき加減で時々こめかみを押さえている。

「お茶を淹れ替えよう」

 話にひと段落がついた。月鳴は翼和に言いつけると、自分は引き出しから透明な小瓶を取り出し、白火の足元に屈んだ。薄荷油の瓶を開け、白火の鼻に近づける。白火は辛そうにまばたきをしながら、小瓶を握る。額の汗を手巾で拭う。

「薬は飲んだか?」
「あぁ、ここに来る前に……」
「痛むんだろう。横になるか」

 白火は若い頃から頭痛持ちで、片目に光がないのもそれのせいらしい。酷い時は嘔吐を繰り返すこともあった。月鳴は鎮痛剤の他に痛みを和らげるための香や清涼剤などを欠かさないようにしている。

 月鳴の提案に白火はうなずいた。白火が月鳴の寝台を借りることはまずない。よほど痛むのかと不安になりながら肩を貸す。寝室は隣だ。さほど背丈は変わらないが、いつもよりずっと肩が重く感じる。白火が体重を預けてくる。

 ――足、もつれそうだな。

 体調が悪いなら話は明日だって明後日だって良かったろうにと思うが、今朝のことで来ざるを得なかったのだろうかと歯噛みする。寝室に入ろうとした時、小さく白火の背が波打った。口元を押さえている。

「翼和、桶!」

 少女が桶を片手に走ってきた。白火が辛そうな息をしながら吐いた。吐くのが終わっても、呼吸が落ち着かない。うずくまり、犬のような呼吸をしながら頭を抱えている。

「医者の手配……」
「見えない! 目が見えないぃぃ!!」

 青年に指示を出そうとした月鳴の隣で、白火が喚きだした。背をのけぞらせて叫んだかと思うと、どたりと横倒しになる。浅く呼吸はしているが、意識がないことは明白だった。ぶるり、ぶるりと小さな痙攣をしている。

「医者を呼べ!」

 青ざめる狐の若者が動くより早く、声を聞きつけて男衆が部屋に入ってくる。
 震える白火の肩をなでる月鳴の耳に、数刻前の女の声が蘇った。――次は、お前だ。
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