王の愛は血より濃し 吸血鬼のしもべ第2部

時生

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第二章 月ニ鳴ク獣

第二十九話 沈みゆく月(2)

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 風呂を浴び、布を替えては黒髪を押さえながら、月鳴は応接間の椅子に腰かけた。耳の裏をぬぐった布が膝に落ちた。

 月鳴の胸に、老爺の問いが刺さっていた。夢王の入店と被らないためなどというのは嘘だ。むしろ、男は夢王に近づくために月鳴を抱いている。先ほどの豪商に限らず、月鳴を買う者はみな夢王の影を追っているのだ。美しい、愛していると囁く言葉は、そのまま淘乱に向けられている。月鳴自身そのことに異論はない。問題があるとすれば、前回の夢王の来訪が五年前だということだ。

 しんと静まり返った室内に、戸の開く音が響いた。少女が、盆を持って入ってきた。背中に朱雀を思わせる橙色だいだいの羽を背負っている。少女は月鳴をちらりと見ると、卓の上に持参した朝食を置き、窓を細く開けた。

「兄様、歯でも痛むの?」
「憂い顔の練習をしてるんだよ」

 羽があるために、背中が広く開いた衣を着ている少女が乳房の下で締めた細い帯を指で直す。卓の横まで来ると朝食を広げ始める。食器がたてるかすかな音を聞きながら、表情を動かさない月鳴に、少女はぽつりとこぼした。

「わたしも練習しようかな」
翼和よくわは、憂い顔はばっちりだから笑顔だな」
「こう?」

 陶器のような肌を持つ少女が微笑んだ。白い前歯を覗かせて、やや太い眉を下げる。目を細めると白いまぶたが広くなって色っぽい。

「綺麗だこと」

 手短な誉め言葉に、翼和が真顔に戻った。すんとしたとらえどころのない表情。感情の浮き沈みがあまりない翼和は笑顔が似合わない。最近成魔になり、飾りだったような羽が大きくなった少女は、乳房が膨らむ前から大人びた表情をする子どもだった。しかし、精神的にはまだ幼いところもある。破瓜の痛みやそれに対してどう我慢するかを周りから吹き込まれて、おろおろしているのを最近見た。処女を高く売るために、白火はくびは彼女に性的な手ほどきを部分的にしかしていないのだ。

 翼和が手を止め、ふたりの朝食が始まる。月鳴の妹分として翼和がやってきたのはほんの幼いころだ。箸の上げ下げから教えた月鳴にとって、翼和は妹というより娘に近かった。

「今日、お昼過ぎに白火様がいらっしゃるって」
「聞いた。妙な時期に来る。初夜の日取り、決まったのかもね」

 翼和の眉にむっと緊張が宿るのを、月鳴は匙を置くふりをしながら盗み見る。

 裏通りの妓楼時代から続く、毎月の売り上げ計算は今でも続いている。湛礼台たんれいだいの中でも指折りの高級娼妓となり、扱う数字は膨大になったが、行うことは同じだ。ただ、十日ほど前に売り上げの締め日が過ぎたばかり。月鳴の花主として一躍幻市の名士に名乗りを上げた白火は忙しい。こまめに湛礼台に来たいのだろうが、最近は売り上げ計算の日に用事をすべて済ませるようになっていた。

 朝食の器を下げると、翼和が月鳴の髪を梳かし始める。目の粗い櫛を全体にかけ、徐々に細かい櫛を使う。弱く髪を引かれる心地よさに目を閉じる。
 長く見積もっても一年以内に、翼和は客の髪を梳かすようになるだろう。ひとりで食べる朝食はどんなものだろうか。月鳴は目を下げて、翼和の鼻歌を聞く。翼和は歌の名手だった。

「兄様、眠いなら寝てください」
「お嬢様の言う通りにしようかな」
「終わったら起こします」

 翼和の歌がか細く途切れた時、鋭い悲鳴が聞こえた。体を強張らせた月鳴が急いで窓辺に向かう。

 追いかけてくる翼和とほぼ同時に階下を見た。十五階建ての湛礼台の、十二階部分に月鳴の居室がある。その真下で女が金切り声を上げていた。窓から、白い女の腕が伸びている。

 ――あたしの命は、あたしのものだ!

 意味が通って聞こえてきたのはそれだけ。気が触れたように騒ぎ立てる叫びが大きくなる。窓枠から真っ白な夜着を着た女が身をくねらせながら出てくる。

「やめてぇーーー!!!」

 月鳴の腕を絞るように握りしめた翼和が叫んだ。呆然としていた月鳴がはっと現実感を取り戻す。女ももう右足を屋根にかけている。左足が出てしまう。額に汗を浮かべて、月鳴も口を開いた。

「足を出すな! 戻れ、戻れぇ!!」

 顔を上げた女と、目が合った。かつて同じ階で働いていたこともある女。胡弓の音を褒めてくれたこともあった。
 女は目を見開き、一声叫ぶと、左足を窓から出した。

「次はお前だ!」

 左足首に嵌められた金の輪が、朝日にキラリと光った。

「見るんじゃない!」

 月鳴がぐいと翼和を抱きしめる。女の左足が窓枠を出た瞬間、金の輪の先から鮮血が噴きだした。湛礼台に張られた結界を断りなく出た娼妓に下される制裁。不安定な屋根の上で左足首から下を失った女はふらふらと体を揺らし、悲鳴ひとつあげずに落下した。

 月鳴は翼和を抱え、耳を塞ぐように窓辺を離れた。悲鳴や喧騒が細く開いた窓から聞こえてくるが、月鳴は翼和を抱いたまま床に座り込み動くことはなかった。耳に、女の最期の声がべったりと張りついたようだった。
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