王の愛は血より濃し 吸血鬼のしもべ第2部

時生

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第二章 月ニ鳴ク獣

第二十六話 逃避行の始まり(2)

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 空が明るければ見えていただろう血柱は見えず、背後から吹いた風が濃厚な鉄錆の匂いを運ぶ。

 朱昂しゅこうは、辺りの混乱など気にも留めず、手綱を操って仁波と葵穣きじょうのいる馬に寄った。仁波は手綱を放してはいなかった。力が失せた右腕を膝の上に置き、前傾姿勢ながらも何とか馬を操ろうとしている。

「何とかこらえろ、もう建物は見えている」

 今走っている道からそれて少し山を登ったところに、荘厳な建物が見えた。遠目にも壮麗なあの建物こそが目的地に違いない。励ます朱昂に、しかし、仁波の表情はさらに曇った。

「見えている……? まだ、あと四半刻は走らねば、目的地には着きません」
「あれが目的地ではないのか? だが、もうだいぶ周りも死んでしまった。これ以上走るのは無理であろう。俺がいれば門前払いはされまい、あそこに行って」
「あそことは、どこです」
「何を言っている。そこの上よ」
「うえ……?」

 朱昂が指さすも、仁波の視線がうろうろしている。よもや目か頭がいかれたかと思ったが、ますますはっきりと姿を現した御殿に、後ろに続く誰も言及しない。王子もまた、きょとんとした顔をしている。朱昂は、建物を指す指をそのままに、声を震わせた。

「あるだろうが、瑠璃瓦の建物が!」

 雲の切れ間から差しこんだ月光が、崖を背におおとりが翼を開くが如き屋根の形を浮き上がらせていた。翼の先は少し上向き、瓦ひとつひとつが月光を弾いて輝いている。うろついていた仁波の視線が、朱昂に戻ってきた。男の表情が、困惑から不審へと明らかに変化していた。

 冷たい雷が、朱昂の目を打った。乗り手の衝撃を察知したかのように、馬の足が緩やかになる。仁波と離れていく。皆が仁波の後を追う。仁波に呼ばれた朱昂はただ首を横に振った。建物は、依然として朱昂の右手の高台にある。たとえ自分以外には見えていなかったとしても。

 ――もしも伯陽だったら。

 朱昂はそう思わずにはいられない。
 伯陽であれば、見えないどこかへ行こうとする主に、困惑しながらもついてきただろう。「朱昂が言うなら、そうしよう。俺は朱昂を信じる」と、簡単に言ってのけて。だが、伯陽はいない。

 一旦は崩れた王軍の気配が近づいてくるのが分かる。鼓動の波が押し寄せてくる。手負いの吸血鬼たちが、四半刻走ることは不可能だと朱昂は分かっていた。

「父上!」

 葵穣の叫ぶ声が遠くなる。朱昂は唇を噛んだ。生きるためにはあそこに向かうしかない。
 朱昂は駒の鼻先を、豪邸に向けた。道をそれて馬を走らせながら、大音声だいおんじょうで我が子を呼んだ。今、自分を信じてくれる可能性があるのは、ただひとりしかいないと、朱昂は分かっていた。

「ついておいで! 俺を信じろ、葵穣!!」

 葵穣と何度も呼びながら、朱昂は走った。
 枝が、鋭い葉が、朱昂の頬を傷つける。自らの鼓動とは別に、近づいてくる蹄の音が大きくなる。視界が二重にぶれる。太い枝が前方から朱昂に迫るが対応できなかった。落馬する、と身構えた朱昂の横合いから伸びた剣が、枝を切り落とした。

 ――前見ろ、朱昂。

 聞きなれた声に、注意された気がした。
 はっと横を見た朱昂の横で、剣を構えていたのは幼い王子だった。

「葵穣様、お見事」

 少年らしからぬ厳しい表情で、王子は仁波の称賛にうなずく。
 やがて、朱昂は葵穣を従えて森を抜け、大邸宅の前に躍り出た。

「これは……」

 葵穣に寄りかかりながら荒い息を吐いていた仁波のつぶやきが、背後から聞こえた。少し遅れて驚嘆の声が次々と朱昂の耳に届く。

 眼前には黒を基調とした壁や柱が月光に清められて光っていた。崖の真ん前に忽然と現われ、悠々と腕を開く宮殿。明かりがないのを不審に思い、門前のきざはしまで朱昂が近寄ると、まるで息を吹き返したように、明かりが一斉についた。

 下馬して色々探索したいが、今にも鬣に顔を伏せて気絶しそうだ。誰か来い、と後ろを振り返った朱昂は、目を見開いた。
 一面、額づく吸血鬼しかいない。みな頭を朱昂に向けて地面にひれ伏していた。幼い王子までもが、朱昂の傍まで行くと小さな体を折ってひざまずく。

 追撃から生き残った六十三名が、若き王に終生の臣従を誓った瞬間であった。
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