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第二章 月ニ鳴ク獣
第二十五話 痴かなる血、麗しき血(2)
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(陛下が)
闇の中で、ひそひそと話し声が聞こえる。
(生きていらっしゃった)
(なんと惨いお姿であろう)
時々、ちゅるりと血が口の中に流れ込んでくる。
飲み込むと、手足の力が少しずつ戻る気がした。噛みついてもっと血をすすりたかったが、体が動かない。
抜け出せたと思ったのは、虜囚の見た悲しい夢かと朱昂は納得する。牢獄の暗闇の中で、あれほど鮮明な夢を見たのははじめてだ。
おそらく、死が近い。
(殿下)
ちゅるりと、流し込まれる血。
朱昂は暗闇の中で目を見開いた気になった。
甘くて、生命力に溢れた濃厚な血液。
――真血。
吸血族の秘蹟の証たる血液を舌に感じて、あぁ、と朱昂は歓喜に震えた。体が動いたならば喉に手をやり、それから腕を伸ばして、「あの方」を探しただろう。
与えられた真血は、自分のものではない。朱昂に真血を与えられるのは、ひとりしかいない。
許してくださったのだ。弑することが救いだと信じていた罪深い子どもを。
死を憐れんで、迎えに来てくださった。
貴方を裏切り、殺害した罰で全てを失った朱昂を、迎えに。
「父上様……」
まぶたを開いた瞬間、涙が溢れた。腫れた下まぶたが動くたびに、透明な滴が大粒となって押し出される。
体を清められ、床に寝かされた朱昂の視界の中心にいたのは、紅い瞳を持つ幼子だった。
年の頃は人であれば六つか七つ頃。白い瓜実顔にキラキラ光る二つの紅玉は、長いまつげに飾られていよいよ美しく思慮深く見える。整った形の眉だが目尻に近いところだけ毛が少々散って幼げなのがかわいらしい。鼻は子どもながらに高く、ぷくりとした唇は桃色だった。湯上がりなのか背中まである黒髪はしっとりと濡れている。
幼いというのに、胸を衝く美しさだった。女であれば大層な美姫になることは間違いない。
周りからもれ聞こえるすすり泣きに構わず、朱昂は子どもを見つめた。
紅い瞳の子ども。いつからか精を絞られなくなった自分。導きだされる答えは、ひとつだった。
幼子の唇の間から、真珠のような円い歯が覗いた。
「おとうさま……」
少々かすれた、愛くるしい声がもらした一言に、予想ができていたにも関わらず朱昂は衝撃を受けた。
――生まれていたのか。
朱昂は、女を妊娠させた覚えはない。
朱昂の閨という名の牢獄に、女が訪れること自体がなかったのだ。朱昂は口を含む全身を拘束された上で薬を盛られ、武骨な手に陰茎を刺激されるだけだった。
吐き出した精液の行方は想像できても、実際どのように使われているか、朱昂は知らなかった。
「……おとうさま」
様々な思いが去来し、言葉が出てこない朱昂の視界の中で、父との初対面を果たした美童の肩をなでる手が現われた。
「殿下、お父上と語りたいことがおありでしょうが、少しお休みください」
「仁波。……わかった」
幼子が退室するのを待って、朱昂は口を開いた。
「――……姫か?」
「いえ、葵穣様は王子殿下です。陛下……」
仁波が喉を詰まらせながら口を開くのと、扉が開く音がしたのはほぼ同時だった。
「失礼致します! 仁波様、王軍が迫って来ております」
少年かと思われる高めの声に仁波が身構える。朱昂はようやく動いた体を起こそうとした。
「案外かかったな。数は」仁波が少年に応える。
「ええっと……」
「少なくとも三千! 装備も万全のようです」
言いよどんだ少年の後ろから、もうひとりがやってきて叫んだ。場に動揺が走る。
「皆殺しにする気か……。ここは捨てる! 西へ逃げよう。同胞の拠点がある。――陛下、ご同行頂きます」
「その呼び方はよせ。ろくに動けぬ男は捨て置いたらどうだ。そなたらには王子がある」
「恐れながら私の部下がふたり、朱昂様に血を捧げました。今、あなたを捨ててしまえば彼らの命は無駄になる」
朱昂は言葉を発しなかった。小さく息を吐く。
朱昂が床に手をついて起き上がる素振りをすると、両脇から支えられた。ようやく立ち上がる。
「行こう」
従う以外の道が、朱昂にはなかった。連れて行かれた先にいたのは、一頭の栗毛。隣には王子と仁波が跨がる馬があった。
朱昂は少し目を上げただけで、栗毛に跨がった。もうひとりが朱昂の後ろに騎乗し、朱昂を支える。その間、朱昂は無言。汗が白い額を流れ落ちるだけだ。
「出発」
王の騎乗を確認した仁波の静かな一言で、およそ百三十の吸血鬼が、移動を開始した。
闇の中で、ひそひそと話し声が聞こえる。
(生きていらっしゃった)
(なんと惨いお姿であろう)
時々、ちゅるりと血が口の中に流れ込んでくる。
飲み込むと、手足の力が少しずつ戻る気がした。噛みついてもっと血をすすりたかったが、体が動かない。
抜け出せたと思ったのは、虜囚の見た悲しい夢かと朱昂は納得する。牢獄の暗闇の中で、あれほど鮮明な夢を見たのははじめてだ。
おそらく、死が近い。
(殿下)
ちゅるりと、流し込まれる血。
朱昂は暗闇の中で目を見開いた気になった。
甘くて、生命力に溢れた濃厚な血液。
――真血。
吸血族の秘蹟の証たる血液を舌に感じて、あぁ、と朱昂は歓喜に震えた。体が動いたならば喉に手をやり、それから腕を伸ばして、「あの方」を探しただろう。
与えられた真血は、自分のものではない。朱昂に真血を与えられるのは、ひとりしかいない。
許してくださったのだ。弑することが救いだと信じていた罪深い子どもを。
死を憐れんで、迎えに来てくださった。
貴方を裏切り、殺害した罰で全てを失った朱昂を、迎えに。
「父上様……」
まぶたを開いた瞬間、涙が溢れた。腫れた下まぶたが動くたびに、透明な滴が大粒となって押し出される。
体を清められ、床に寝かされた朱昂の視界の中心にいたのは、紅い瞳を持つ幼子だった。
年の頃は人であれば六つか七つ頃。白い瓜実顔にキラキラ光る二つの紅玉は、長いまつげに飾られていよいよ美しく思慮深く見える。整った形の眉だが目尻に近いところだけ毛が少々散って幼げなのがかわいらしい。鼻は子どもながらに高く、ぷくりとした唇は桃色だった。湯上がりなのか背中まである黒髪はしっとりと濡れている。
幼いというのに、胸を衝く美しさだった。女であれば大層な美姫になることは間違いない。
周りからもれ聞こえるすすり泣きに構わず、朱昂は子どもを見つめた。
紅い瞳の子ども。いつからか精を絞られなくなった自分。導きだされる答えは、ひとつだった。
幼子の唇の間から、真珠のような円い歯が覗いた。
「おとうさま……」
少々かすれた、愛くるしい声がもらした一言に、予想ができていたにも関わらず朱昂は衝撃を受けた。
――生まれていたのか。
朱昂は、女を妊娠させた覚えはない。
朱昂の閨という名の牢獄に、女が訪れること自体がなかったのだ。朱昂は口を含む全身を拘束された上で薬を盛られ、武骨な手に陰茎を刺激されるだけだった。
吐き出した精液の行方は想像できても、実際どのように使われているか、朱昂は知らなかった。
「……おとうさま」
様々な思いが去来し、言葉が出てこない朱昂の視界の中で、父との初対面を果たした美童の肩をなでる手が現われた。
「殿下、お父上と語りたいことがおありでしょうが、少しお休みください」
「仁波。……わかった」
幼子が退室するのを待って、朱昂は口を開いた。
「――……姫か?」
「いえ、葵穣様は王子殿下です。陛下……」
仁波が喉を詰まらせながら口を開くのと、扉が開く音がしたのはほぼ同時だった。
「失礼致します! 仁波様、王軍が迫って来ております」
少年かと思われる高めの声に仁波が身構える。朱昂はようやく動いた体を起こそうとした。
「案外かかったな。数は」仁波が少年に応える。
「ええっと……」
「少なくとも三千! 装備も万全のようです」
言いよどんだ少年の後ろから、もうひとりがやってきて叫んだ。場に動揺が走る。
「皆殺しにする気か……。ここは捨てる! 西へ逃げよう。同胞の拠点がある。――陛下、ご同行頂きます」
「その呼び方はよせ。ろくに動けぬ男は捨て置いたらどうだ。そなたらには王子がある」
「恐れながら私の部下がふたり、朱昂様に血を捧げました。今、あなたを捨ててしまえば彼らの命は無駄になる」
朱昂は言葉を発しなかった。小さく息を吐く。
朱昂が床に手をついて起き上がる素振りをすると、両脇から支えられた。ようやく立ち上がる。
「行こう」
従う以外の道が、朱昂にはなかった。連れて行かれた先にいたのは、一頭の栗毛。隣には王子と仁波が跨がる馬があった。
朱昂は少し目を上げただけで、栗毛に跨がった。もうひとりが朱昂の後ろに騎乗し、朱昂を支える。その間、朱昂は無言。汗が白い額を流れ落ちるだけだ。
「出発」
王の騎乗を確認した仁波の静かな一言で、およそ百三十の吸血鬼が、移動を開始した。
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