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第二章 月ニ鳴ク獣
第二十五話 痴(おろ)かなる血、麗しき血(1)
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――あの男なら、死にましたよ。
――牙が生えたとのこと、お喜び申し上げます陛下。子を成すための準備をせねば。それが王の務めですから。
――龍族により罰を受けた者が死んだ場合、龍宮の裏水門にて水葬されます。我が君が昏睡していらっしゃったので、代わりに我々が見届けました。
――あの男がしもべだなどと、とんでもない。幼い王子をたらしこみ、人界に留めた悪党です。
――我らは待っておりました。卑しき血吸い鬼に血の癒やしを与えてくださるお方、いとしき真血の君。
『あなたのお帰りを、心待ちにしておりました。朱昂様』
-----
時が、止まっている。
生まれてから、しもべを喪うその瞬間まで、たしかにひとつの道となっていた時間は、あれからずたずたに引き裂かれて、まとまりなく浮遊している。
まるで地に落ちる雨の、どの粒が先で、後かを論じるがごとく曖昧で、朱昂の前にはただ桶に溜まった水のような時間のかたまりだけがあった。
光というものに見捨てられた暗い小部屋から、溜まった時が抜け出ていく気配もない。この時間という形なきかたまりが部屋に満ちる時、自分は溺れ死ぬのだろうと思った。
「、くよ」
いつからか、父親になれと精を搾られることもなくなった。食事を与えられることもなく、思い出したように突然、顔に赤い水をかけられる。
「しゅこ、ぉ」
もしかすると、朱昂と呼ばれていた肉体はもうとうに溶けてしまって、ただ床に残った真血の一滴が、干からびる前の最後の夢を見ているのかもしれない。
「ぁく、よう」
血液摂取の機会を絶たれ、夜目が利かなくなったために、辺りは闇しかない。
闇を見つめ続ける夢の中で、朱昂は己としもべの名を交互に繰り返した。
まるで来世での再会を祈願するように。
もしくは、真血の主従を引き離した全てのものを、呪殺せんがために。
声は、昼もなく夜もなく続いている。
朱昂、伯陽、朱昂、伯陽、朱昂、伯陽――。
そして、しもべの喪失から数十年が経ったある日、ある時間、変化の時が来た。牢獄に光が差したのである。
「ギャアッ!」
目の裏まで焼けそうな閃光に、朱昂の喉がひしゃげた音を出した。
ドォオオオオオン。
光に次いで、朱昂の鼓膜を爆音が襲う。
頭が割れそうな音の後、破壊された牢の壁が無数の石片となって、朱昂の体を襲う。貴重な真血をボタボタと流して呻く朱昂は、埃を大量に含んだ風にまかれた。鼻腔いっぱいに血の香りがする。生命の糧の香り。めまいがするほど濃厚な血臭は朱昂の思考をただ一つに塗りつぶした。
――血、欲シイ。
四肢の存在を思い出す間もなく、朱昂の手足はがれきの積もった牢の床を蹴っていた。飛び上がり、匂いの元に飛び込む。噛みついて、あふれ出る血をすする。
悦を極めた絶叫に朱昂は鼻を鳴らした。気に食わぬが血を吸うことが優先だ。
真血の主の牙は、絶大な快楽を獲物に与える。噛みつけば抵抗はない。弱い。簡単すぎる。朱昂は声もなく笑っていた。反対に、胸の内は怒りに支配される。
噛みつけば歓喜をもって獲物は朱昂へ血を捧げる。これは吸血鬼も例外ではない。真血の主だけは吸血鬼の血をすすることができるのだ。
圧倒的な上位者であるはずの己が、口枷を噛まされ、監禁され、身体を弄ばれた。牙を潤しながら朱昂が覚えた屈辱は、筆舌に尽くしがたかった。
次々に吸い散らかし、最後に飛びつこうとした獲物は初めて朱昂に抵抗した。剣を向けられ、刀身を噛み砕いてやろうとしたところ、腹に鋭い拳を叩き込まれた。
「ぐうっ!」
胃から血がせり上がり、口から漏れでる。もったいないと思いながら、朱昂の思考は闇に包まれた。
――牙が生えたとのこと、お喜び申し上げます陛下。子を成すための準備をせねば。それが王の務めですから。
――龍族により罰を受けた者が死んだ場合、龍宮の裏水門にて水葬されます。我が君が昏睡していらっしゃったので、代わりに我々が見届けました。
――あの男がしもべだなどと、とんでもない。幼い王子をたらしこみ、人界に留めた悪党です。
――我らは待っておりました。卑しき血吸い鬼に血の癒やしを与えてくださるお方、いとしき真血の君。
『あなたのお帰りを、心待ちにしておりました。朱昂様』
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時が、止まっている。
生まれてから、しもべを喪うその瞬間まで、たしかにひとつの道となっていた時間は、あれからずたずたに引き裂かれて、まとまりなく浮遊している。
まるで地に落ちる雨の、どの粒が先で、後かを論じるがごとく曖昧で、朱昂の前にはただ桶に溜まった水のような時間のかたまりだけがあった。
光というものに見捨てられた暗い小部屋から、溜まった時が抜け出ていく気配もない。この時間という形なきかたまりが部屋に満ちる時、自分は溺れ死ぬのだろうと思った。
「、くよ」
いつからか、父親になれと精を搾られることもなくなった。食事を与えられることもなく、思い出したように突然、顔に赤い水をかけられる。
「しゅこ、ぉ」
もしかすると、朱昂と呼ばれていた肉体はもうとうに溶けてしまって、ただ床に残った真血の一滴が、干からびる前の最後の夢を見ているのかもしれない。
「ぁく、よう」
血液摂取の機会を絶たれ、夜目が利かなくなったために、辺りは闇しかない。
闇を見つめ続ける夢の中で、朱昂は己としもべの名を交互に繰り返した。
まるで来世での再会を祈願するように。
もしくは、真血の主従を引き離した全てのものを、呪殺せんがために。
声は、昼もなく夜もなく続いている。
朱昂、伯陽、朱昂、伯陽、朱昂、伯陽――。
そして、しもべの喪失から数十年が経ったある日、ある時間、変化の時が来た。牢獄に光が差したのである。
「ギャアッ!」
目の裏まで焼けそうな閃光に、朱昂の喉がひしゃげた音を出した。
ドォオオオオオン。
光に次いで、朱昂の鼓膜を爆音が襲う。
頭が割れそうな音の後、破壊された牢の壁が無数の石片となって、朱昂の体を襲う。貴重な真血をボタボタと流して呻く朱昂は、埃を大量に含んだ風にまかれた。鼻腔いっぱいに血の香りがする。生命の糧の香り。めまいがするほど濃厚な血臭は朱昂の思考をただ一つに塗りつぶした。
――血、欲シイ。
四肢の存在を思い出す間もなく、朱昂の手足はがれきの積もった牢の床を蹴っていた。飛び上がり、匂いの元に飛び込む。噛みついて、あふれ出る血をすする。
悦を極めた絶叫に朱昂は鼻を鳴らした。気に食わぬが血を吸うことが優先だ。
真血の主の牙は、絶大な快楽を獲物に与える。噛みつけば抵抗はない。弱い。簡単すぎる。朱昂は声もなく笑っていた。反対に、胸の内は怒りに支配される。
噛みつけば歓喜をもって獲物は朱昂へ血を捧げる。これは吸血鬼も例外ではない。真血の主だけは吸血鬼の血をすすることができるのだ。
圧倒的な上位者であるはずの己が、口枷を噛まされ、監禁され、身体を弄ばれた。牙を潤しながら朱昂が覚えた屈辱は、筆舌に尽くしがたかった。
次々に吸い散らかし、最後に飛びつこうとした獲物は初めて朱昂に抵抗した。剣を向けられ、刀身を噛み砕いてやろうとしたところ、腹に鋭い拳を叩き込まれた。
「ぐうっ!」
胃から血がせり上がり、口から漏れでる。もったいないと思いながら、朱昂の思考は闇に包まれた。
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