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第二章 月ニ鳴ク獣

第二十四話 慈母の奇貨(1)

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 先ほどまで入れ替わり立ち代わり誰かが室に入ってきていたのに、「それでは」との一言で、一人にされた。髪を結い、湛礼台たんれいだいのならいらしく床に膝をついた姿で袖や裾の具合までを微調整されたため、動くに動けない。

 袖は広く、上等な絹を惜しげもなく使った衣、しゃらりとか細く鳴る金の髪飾り。焚きしめられた香り。すべてが目もくらみそうなほど高値だと分かる。風呂の後に後孔に仕込まれた油までもがとろりとして肌触りが全く違った。
 整えられた濃いまつげを瞬かせながら、月鳴は苦しい息を吐いていた。緊張で身がすくむ。

 やがて、廊下の方からリン、と清しい音が聞こえた。どっと鼓動の打ち方が強くなる。湛礼台では娼妓ごとに形の異なる鈴が与えられ、客が相手を決めると鈴を持って部屋を訪ねることになっている。さすがに一度聞かされただけの音を聞き分けるのは不可能だが、夢王むおうが近づいているような気がした。

 ――汗が……。

 化粧をされたのに、落ちてしまう。汗の筋ができたらどうしよう。衣を濡らしてしまったら。どうしようどうしようと騒ぐ身を懸命にこらえて、月鳴は指一つ動かさぬよう努力した。

 扉が動いた。廊下から男、夢王は男だと聞いていた、が入ってくる。側仕えの者か、湛礼台の男衆だろうか、扉から離れていく複数の足音。底の厚い沓が近づいてくる。

 朱昂の顔を思い浮かべ、腹にぐっと力をこめて頭を下げた。

「月鳴で、ございます」

 声が震える。親しく体を交える場であるから、挨拶は簡素にと教えられた。

「お会いする日を、心待ちにしておりました……」
「顔上げていいよ」

 淫魔の長らしく妖艶な声音だが、声に似合わずさっぱりとした物言いだった。意外に思いながらも顔を上げる。

 夢魔の王は、人に例えれば三十五、六ほどだろうか。白火よりもやや若い。身の丈の大きな男だった。夢魔を客にしたことはあるが、女も男も大体人間と同じくらいの体格である。月鳴は吸血鬼の中では長身の方だ。その月鳴よりも背丈は優れ、肩幅も広い。胸板は厚く、腰は男にしては広かった。夢王すなわち慈母の君は男であろうと子宮を持つ。あらゆる者の子を孕む夢魔の秘蹟ひせき慈母じぼだ。

 褐色の肌に金茶の髪を持つ異相の王は、前歯を覗かせて「あは」と笑った。目じりが少し下がった目が色っぽい。大男なのに、天真爛漫で愛らしいという形容がぴったりの笑顔だった。

「緊張してるねぇ。あ、まだ立ち上がらないで、そのまま床に。体だけこっち向いて」

 夢王が長躯を屈めて椅子に座り、足を投げ出す。ころん、と鈴を卓の上に置くと、頬杖をついた。

「急に呼び立てて悪かったね。うちの息子がごちそうになったって聞いて」

 うふ、と含み笑いをする仕草に覚えがある。「お腹ぺこぺこ」の少年の親だと気づき、ぞっとした。湛礼台に移されたとはいえ、やはりこれは懲罰かなにかなのではと一瞬で不安が増幅する。

「ま、まさかご子息だと、王子様だとは知らず……何かご無礼をしてしまったかと。まことに申し訳ございません」
「んーん? 謝ることなんかひとつもないよぉ。話が面白くて朝方まで長居しちゃったなんて言うから、きっと素敵な子なのだろうと思って。月鳴ちゃん、もうちょっと近づいてくれる?」

 夢王に手招きされ、膝を使って少しだけ近寄る。もうちょっと、とこまねかれて、腕を伸ばせば届く距離まで近づいた。頬杖をやめて夢王が座ったまま姿勢を正す。

「誰か、探しているんだってね」

 ひゅっと喉が鳴った。まさか相手から話題にされるとは思っていなかった月鳴が、身を固くする。

 ガチリと音がするほど頬を強張らせた男娼に、夢王が優しく眉を下げた。厚めの唇が、美しく微笑する。

「気持ちは分かるよ。でも警戒しないで。詳しく聞きたいと思ったんだ」
「あ……」

 じんわりと明るいとび色が輝き、ちらちらと金の光が走っている。不思議な瞳の色と甘い囁き声に肩の力が抜ける。

 本当は、誰かに頼りたくてしょうがなかった。体を売り続けて十年以上になる。真血の主は死んだと聞かされても、その死を見たという者に行き着くまでは諦めまいと思った。手に収まるほどの紙片にしか情報はなくても、痛くても悔しくても蔑まれても、死の恐怖を足元に感じた時も、朱昂しゅこうに会うまではと懸命に生きてきた。

 ようやく前に進むと思った。目の前にいるのは慈母の主。真血の主と並ぶ秘蹟なのだから、何かが変わるに違いない。
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