38 / 106
第二章 月ニ鳴ク獣
第二十三話 手がかりを求めて(1)
しおりを挟む
香炉に燃え残りが燻っていた。ふっと息を吹きかけると、ちりちりと小さな炎が木片を舐めるのが見えた。見入っていた月鳴は、ちろり、ちろりと橙色が触角を伸ばすように燃え上がる様子を見て、唇の力を緩める。笑み交じりのため息を吐くと、椅子を離れて露台に出た。
うんと腕を伸ばす。勤めの後に体を拭いているのに、じとっと脂じみている気がする。河から来る風が肌を洗う気がする。
「あらゆる欲望を叶える街」と呼ばれる幻市は、猥雑な二つ名にそぐわぬ清潔さを漂わせていた。大路は白い石畳で舗装され、等間隔に磨き上げられた灯籠が並ぶ。道端は掃き清められ、大きな車が通っても砂埃で視界を塞がれたりはしない。月鳴のいる店は大路から少し離れているが、露台から通りを見ても目立ったごみはない。
昼は静かで、深呼吸をしても、咳が出たり、胸がむかむかすることはなかった。脂や血や排泄物の混じったような匂いがする場所から来た月鳴は、当初鼻が効かなくなったと錯覚したほどだった。
通りを白い狐が歩いてくるのが見えた。すぐに部屋に戻り、背中まで伸びた髪を結ったり卓の上を片づけていると、戸が開いた。
「まあまあの売上だね」
挨拶代わりのそれに「ありがとうございます」と答えながら、白火に椅子を勧める。部屋を見回す気配を見せた白火は、結局何も言わずに椅子に座った。お付きのふたりが糸で綴じた紙束と墨と筆を用意する。
白火は台帳の白い頁を開くと、筆を走らせ始めた。
「売上……場所代、食事代、洗濯代と、衣装と化粧代がこれ。あとは散髪代、と」
言いながら領収書等をもとにするすると数字が書き込まれている。娼妓が商売をするために「花主」という存在が必要不可欠だ。花主は娼妓の持ち主で、売上の管理を行う。白火は月鳴を妓楼で働かせ、売上で娼妓の必要経費を払い、残りを懐に入れる。
白火は毎月こうして月鳴とともに帳簿をつけ、小遣いを渡すのだ。
小遣いといっても、おやつを買ったり、花主にねだるまでもないもの、例えば痛み止めや針や糸、そんなものを買う程度しか月鳴には残らないのだ。
「散髪、三月に一度で良くないかな。整える程度しか切ってないよ」
「いいところになると週に一度は呼ぶんだ。どんなに格の高い娼妓でも、売上に占める散髪や髪結い代の割合は変わらない。手入れをけちるようなら、その娼妓は長くない。月鳴――」
「上がり続けなければ死ぬ、だろ。分かってるよ……」
「分かってるなら香木の無駄遣いをせずに火を消せ」
少しでも手を抜いたり、現状維持で生きてさえいればいいんだという考えは、娼妓にとって命取りだと白火は繰り返す。
なぜなら娼妓は老いるから。若さ以上の何かを身につけるために精進せねば、売上は落ち、花主に捨てられる。オンナを捨てる前に、花主は大概娼妓を細かく捌き、売り払うのだ。生きて金にならなきゃ殺して金にする。それが幻市の商売だった。
中身は燃えかすだと言い訳しても始まらない。月鳴は香炉の中の小さな炎を吹き消した。
渡された小遣いは、自分を一刻買う値段と同じものだった。
清算と胡弓の稽古を終え、月鳴は白火を見送ると息を吐いた。引き出しから折り畳まれた紙片を取り出して開く。そこには、朱昂の特徴や得られた情報が書いてあった。
黒髪、大きな紅い瞳、種族はおそらく――。
月鳴は白火が置いていった小振りの壺に直接口をつけて中のものを飲む。入っているのは血液だ。
――種族はおそらく、吸血鬼。
客の短い寝物語に、月鳴は朱昂の情報がないか注意深く耳を澄ませていた。
欠けている魔境の常識であれば白火から教わることができる。風土、様々な種族の特徴、それぞれの文化。魔族は種族によって平均寿命が異なること。吸血鬼は人間のおよそ五倍から六倍だから、同じくらいかそれより少し短い寿命の客が通うように仕向ければいいと、白火は言う。年の取り方が同じくらいだから、長い付き合いになりやすいというのが理由だ。
逆に、朱昂のことは白火に打ち明けていなかった。白火の「授業」で秘蹟のことを聞いてから、打ち明けるきっかけを逸した。
――もし吸血鬼であれば、朱昂は秘蹟かもしれない。真血の主の記憶があるなどと言っても、笑われて終わりだ。
魔境の頂点に君臨する奇跡の力を有する者たち、それを〝秘蹟〟と呼ぶ。吸血族の秘蹟は、真血だ。病をいやす万能の血液が流れる吸血鬼・真血の主を吸血族は王として戴くという。
書付を見ていた月鳴はある文字を見て嘆息した。行方不明、死亡。客の話を総合するに、吸血族には現状王がいないということはたしかだった。吸血族を、真血の主以外の者が統べているらしい。それ以外、はっきりとした情報がなかった。
首筋がちりちりと痛む。首の裏にある鱗のような痣を押さえた指は、続いて左足首に触れる。そこには金色の足環があった。
男娼となる契約と同時にはめられた優美な装飾品は、娼妓の脱走を防ぐ鎖だった。花主だけでなく妓楼にも居所を伝える呪具で、幻市を出ようとすると足が飛ぶらしい。おどろおどろしい噂話をすべて信じているわけではないが、幻市に最も多い店は肉屋だということは事実だった。
脱走を図ったもの、病気で売り物にならなくなったものは、すべて肉屋の手にかかる。幻市を出る方法はほぼないのだと、足環は常に現実を突きつける。朱昂を自らの足で探しに行くことは叶わない。だが、男娼にならなければ生きることさえ許されなかった。
紙片を畳み、引き出しにしまう。それでも、月鳴は朱昂を求め、紙片に情報をまとめる。細い糸を手繰っていればいつか彼にたどり着くと信じて。糸が切れないことを祈りながら。
うんと腕を伸ばす。勤めの後に体を拭いているのに、じとっと脂じみている気がする。河から来る風が肌を洗う気がする。
「あらゆる欲望を叶える街」と呼ばれる幻市は、猥雑な二つ名にそぐわぬ清潔さを漂わせていた。大路は白い石畳で舗装され、等間隔に磨き上げられた灯籠が並ぶ。道端は掃き清められ、大きな車が通っても砂埃で視界を塞がれたりはしない。月鳴のいる店は大路から少し離れているが、露台から通りを見ても目立ったごみはない。
昼は静かで、深呼吸をしても、咳が出たり、胸がむかむかすることはなかった。脂や血や排泄物の混じったような匂いがする場所から来た月鳴は、当初鼻が効かなくなったと錯覚したほどだった。
通りを白い狐が歩いてくるのが見えた。すぐに部屋に戻り、背中まで伸びた髪を結ったり卓の上を片づけていると、戸が開いた。
「まあまあの売上だね」
挨拶代わりのそれに「ありがとうございます」と答えながら、白火に椅子を勧める。部屋を見回す気配を見せた白火は、結局何も言わずに椅子に座った。お付きのふたりが糸で綴じた紙束と墨と筆を用意する。
白火は台帳の白い頁を開くと、筆を走らせ始めた。
「売上……場所代、食事代、洗濯代と、衣装と化粧代がこれ。あとは散髪代、と」
言いながら領収書等をもとにするすると数字が書き込まれている。娼妓が商売をするために「花主」という存在が必要不可欠だ。花主は娼妓の持ち主で、売上の管理を行う。白火は月鳴を妓楼で働かせ、売上で娼妓の必要経費を払い、残りを懐に入れる。
白火は毎月こうして月鳴とともに帳簿をつけ、小遣いを渡すのだ。
小遣いといっても、おやつを買ったり、花主にねだるまでもないもの、例えば痛み止めや針や糸、そんなものを買う程度しか月鳴には残らないのだ。
「散髪、三月に一度で良くないかな。整える程度しか切ってないよ」
「いいところになると週に一度は呼ぶんだ。どんなに格の高い娼妓でも、売上に占める散髪や髪結い代の割合は変わらない。手入れをけちるようなら、その娼妓は長くない。月鳴――」
「上がり続けなければ死ぬ、だろ。分かってるよ……」
「分かってるなら香木の無駄遣いをせずに火を消せ」
少しでも手を抜いたり、現状維持で生きてさえいればいいんだという考えは、娼妓にとって命取りだと白火は繰り返す。
なぜなら娼妓は老いるから。若さ以上の何かを身につけるために精進せねば、売上は落ち、花主に捨てられる。オンナを捨てる前に、花主は大概娼妓を細かく捌き、売り払うのだ。生きて金にならなきゃ殺して金にする。それが幻市の商売だった。
中身は燃えかすだと言い訳しても始まらない。月鳴は香炉の中の小さな炎を吹き消した。
渡された小遣いは、自分を一刻買う値段と同じものだった。
清算と胡弓の稽古を終え、月鳴は白火を見送ると息を吐いた。引き出しから折り畳まれた紙片を取り出して開く。そこには、朱昂の特徴や得られた情報が書いてあった。
黒髪、大きな紅い瞳、種族はおそらく――。
月鳴は白火が置いていった小振りの壺に直接口をつけて中のものを飲む。入っているのは血液だ。
――種族はおそらく、吸血鬼。
客の短い寝物語に、月鳴は朱昂の情報がないか注意深く耳を澄ませていた。
欠けている魔境の常識であれば白火から教わることができる。風土、様々な種族の特徴、それぞれの文化。魔族は種族によって平均寿命が異なること。吸血鬼は人間のおよそ五倍から六倍だから、同じくらいかそれより少し短い寿命の客が通うように仕向ければいいと、白火は言う。年の取り方が同じくらいだから、長い付き合いになりやすいというのが理由だ。
逆に、朱昂のことは白火に打ち明けていなかった。白火の「授業」で秘蹟のことを聞いてから、打ち明けるきっかけを逸した。
――もし吸血鬼であれば、朱昂は秘蹟かもしれない。真血の主の記憶があるなどと言っても、笑われて終わりだ。
魔境の頂点に君臨する奇跡の力を有する者たち、それを〝秘蹟〟と呼ぶ。吸血族の秘蹟は、真血だ。病をいやす万能の血液が流れる吸血鬼・真血の主を吸血族は王として戴くという。
書付を見ていた月鳴はある文字を見て嘆息した。行方不明、死亡。客の話を総合するに、吸血族には現状王がいないということはたしかだった。吸血族を、真血の主以外の者が統べているらしい。それ以外、はっきりとした情報がなかった。
首筋がちりちりと痛む。首の裏にある鱗のような痣を押さえた指は、続いて左足首に触れる。そこには金色の足環があった。
男娼となる契約と同時にはめられた優美な装飾品は、娼妓の脱走を防ぐ鎖だった。花主だけでなく妓楼にも居所を伝える呪具で、幻市を出ようとすると足が飛ぶらしい。おどろおどろしい噂話をすべて信じているわけではないが、幻市に最も多い店は肉屋だということは事実だった。
脱走を図ったもの、病気で売り物にならなくなったものは、すべて肉屋の手にかかる。幻市を出る方法はほぼないのだと、足環は常に現実を突きつける。朱昂を自らの足で探しに行くことは叶わない。だが、男娼にならなければ生きることさえ許されなかった。
紙片を畳み、引き出しにしまう。それでも、月鳴は朱昂を求め、紙片に情報をまとめる。細い糸を手繰っていればいつか彼にたどり着くと信じて。糸が切れないことを祈りながら。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

[完結]堕とされた亡国の皇子は剣を抱く
小葉石
BL
今は亡きガザインバーグの名を継ぐ最後の亡国の皇子スロウルは実の父に幼き頃より冷遇されて育つ。
10歳を過ぎた辺りからは荒くれた男達が集まる討伐部隊に強引に入れられてしまう。
妖精姫との名高い母親の美貌を受け継ぎ、幼い頃は美少女と言われても遜色ないスロウルに容赦ない手が伸びて行く…
アクサードと出会い、思いが通じるまでを書いていきます。
※亡国の皇子は華と剣を愛でる、
のサイドストーリーになりますが、この話だけでも楽しめるようにしますので良かったらお読みください。
際どいシーンは*をつけてます。

偏食の吸血鬼は人狼の血を好む
琥狗ハヤテ
BL
人類が未曽有の大災害により絶滅に瀕したとき救済の手を差し伸べたのは、不老不死として人間の文明の影で生きていた吸血鬼の一族だった。その現筆頭である吸血鬼の真祖・レオニス。彼は生き残った人類と協力し、長い時間をかけて文明の再建を果たした。
そして新たな世界を築き上げた頃、レオニスにはひとつ大きな悩みが生まれていた。
【吸血鬼であるのに、人の血にアレルギー反応を引き起こすということ】
そんな彼の前に、とても「美味しそうな」男が現れて―――…?!
【孤独でニヒルな(絶滅一歩手前)の人狼×紳士でちょっと天然(?)な吸血鬼】
◆閲覧ありがとうございます。小説投稿は初めてですがのんびりと完結まで書いてゆけたらと思います。「pixiv」にも同時連載中。
◆ダブル主人公・人狼と吸血鬼の一人称視点で交互に物語が進んでゆきます。
◆現在・毎日17時頃更新。
◆年齢制限の話数には(R)がつきます。ご注意ください。
◆未来、部分的に挿絵や漫画で描けたらなと考えています☺

お人好しは無愛想ポメガを拾う
蔵持ひろ
BL
弟である夏樹の営むトリミングサロンを手伝う斎藤雪隆は、体格が人より大きい以外は平凡なサラリーマンだった。
ある日、黒毛のポメラニアンを拾って自宅に迎え入れた雪隆。そのポメラニアンはなんとポメガバース(疲労が限界に達すると人型からポメラニアンになってしまう)だったのだ。
拾われた彼は少しふてくされて、人間に戻った後もたびたび雪隆のもとを訪れる。不遜で遠慮の無いようにみえる態度に振り回される雪隆。
だけど、その生活も心地よく感じ始めて……
(無愛想なポメガ×体格大きめリーマンのお話です)
后狩り
音羽夏生
BL
ただ一人と望む后は、自らの手で狩る――。
皇帝の策に嵌り、後宮に入れられた元侍従の運命は……。
母の故国での留学を半ばで切り上げ、シェルは帝都の大公邸に戻っていた。
若き皇帝エーヴェルトが、数代ぶりに皇后を自らの手で得る『后狩り』を行うと宣言し、その標的となる娘の家――大公家の門に目印の白羽の矢を立てたからだ。
古の掠奪婚に起源を持つ『后狩り』は、建前上、娘を奪われる家では不名誉なこととされるため、一族の若者が形式的に娘を護衛し、一応は抵抗する慣わしとなっている。
一族の面子を保つために、シェルは妹クリスティーナの護衛として父に呼び戻されたのだ。
嵐の夜、雷光を背に単身大公邸を襲い、クリスティーナの居室の扉を易々と破ったエーヴェルトは、皇后に望む者を悠々と連れ去った。
恐ろしさに震えるクリスティーナには目もくれず、当身を食らい呆気なく意識を失ったシェルを――。
◇◇◇
■他サイトにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる