王の愛は血より濃し 吸血鬼のしもべ第2部

時生

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第二章 月ニ鳴ク獣

第二十話 花茶の君(1)

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 心臓の音がうるさい。
 ほこりっぽい路地を駆けながら、青年は体全体で呼吸をしていた。

 だいぶな距離を走ったが、足は先へ先へと動き続けていた。息を吸う。舌が痙攣しそうだ。肺が広がる。広がりきった内臓からうまく息が吐けない。腹に力をこめて、咳き込む気配を耐える。視界がぶれる。胃液が、込み上げる。

「待ちやがれ!!」

 何から逃げているのか、なぜ走っているのか、それも青年には分からなかった。動きを止めた瞬間、様々なものを突きつけられる予感がした。

「うあっ」

 混乱状態のまま走る青年の右膝が、突然動きを止めた。
 カクン、と小さく体勢を崩し、それでもなお前に進もうとする上半身のせいで、前のめりになった。左足が無理に地を蹴る。均衡を保とうと、あるいは何か支えになるものを求めて、長い腕を振り回す。

 地に倒れ伏すかに見えた体を、支えるものがあった。
 横合いから伸びてきた腕が、青年の行く手のない腕を絡めとる。思わぬところからの接触に硬直した体を肩に担ぎ上げ、それは路地の奥へと走り出した。

 追っ手がわめく声が聞こえる。くねくねとした隘路を進み、やがてこんなところに空間があるのか、と思われるほど狭い隙間に、青年を抱えた巨体が入り込んだ。
 追跡者の足音は、聞こえなくなっていた。

 がっしりとした肩から下ろされて、逃げる間もなく、向かい合った状態で抱き寄せられる。腰に置かれた手のあまりの自然さにぎょっとしつつ、つま先立って頭一つ分以上高いところにある顔を見る。横顔を見せていた男が首を動かした。目が合う瞬間、

「ごめんな」

 がつっと、首の後ろを手刀が襲った。
 青年の意識はそこで、途切れた。

 -----

 足を襲うひんやりとした感覚で、暗闇に光が走った。
 まぶたを開けるよりも早く、反射的に空を蹴る。
 意外にも手応えがあり、うめく声がした。ドタンと重い音に続いて、何か水の流れるような音が聞こえる。

 目を開くと、そこは見知らぬ部屋の中だった。天蓋のない寝台の上、薄い布団に寝かされていたようだ。寝台の横で、大柄な男が腹を押さえてうずくまっている。青年に蹴られ尻もちをついた時に桶がひっくり返ったらしい。水たまりが、木の床に広がっていた。

 男は見るだけで上物だと分かる衣を着ていた。剃り上げただけの頭が動いて青年を見る。鋭い目元と色素の薄い瞳に睨まれ、青年は寝台の中で腰を浮かせた。
 青年よりも二回りも大きい手が寝台を掴んでぎょっとするも、男は視線を足元に移して立ち上がった。

「びしょびしょだ……」

 難儀そうにつぶやいて、手ぬぐいで床を拭っては桶に水を絞り落とす。
 男も、やはり異形だった。天井に頭がつきそうなほど体が大きく見えた。頭や手足の数は青年と変わらないが、腰からは黒々とした太い尾が伸びている。鱗に覆われたそれはぬめぬめと光り、ゆらりと振られるのを見て、青年は嫌悪感に吐き気を覚える。

 口元を覆って、ブルブルと背を揺らす青年の異変に気づいたらしい。男はすかさず桶を青年の枕もとに置いた。ゲホゲホっと体全体で咳をして、桶の上で口を開いた。喉の奥からたらたらと胃液交じりの苦い唾液が垂れるが、それだけだった。

「あ……」

 桶の中に落ちた唾液がうっすらと赤く染まっていた。自分の血なのか、河で死んだ女のものなのかは分からない。どちらのものにせよ「血」と認識した瞬間、自分は今、後戻りできないところにいるのだという実感が雷の如く青年の体を貫いた。

 桶を抱き込むようにして、青年は悲痛な声を出した。肩を震わせ、ただ泣くことしかできない。もう二度と帰れないと、ようやく気づいた子どものように。

 青年の肩に、大きな手が触れた。尾を持つ男の手だ。青年は反射的に肘を上げる。ガツンと腕がぶつかり合う鈍い音が耳の奥に響いた。

「触るな化け物!」

 自分の放った言葉が、胸をえぐる。身を固くしながら男を見ると、静かな表情と出会った。怒らず、目を逸らさず、男は灰色の瞳を青年に注ぎながらゆっくりと瞬きをする。拒否の言葉を受け止め腕を下ろす男の姿に、己でえぐった胸から悲しみが滴り落ちた。

「近寄らないで、くれ」
「分かったよ。だから……」

 男がようやく青年から目を逸らして、後頭部の青い剃り跡をゾリゾリと掻く。

「――涙が止まるまで泣くといい」

 くしゃりと青年の顔が歪んだ。敷布に突っ伏す青年をそのままに、男が汚れた桶を持っていく。寝台に倒れこんで涙の染みを作っていると、段々と何に対して涙が出ているのかが分からなくなる。
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