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第二章 月ニ鳴ク獣
第十九話 幻市城外にて(2)
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河の水は砂を含んで黄色く濁っているが、陽光を照り返してきらきらと光っている。河をなでる風がさっと横顔に吹きつけて、青年はようやく息を吐いた。河は広く、向こう岸がかすんで見える。流れは穏やかだった。
生き返った心地で汗を拭いつつ杖を置き、べたりと地面に尻をつける。振り返ると、見張りがふたり少し離れたところでぶらついている。目が合って、慌てて正面に顔を戻した。
――俺が流れていて引き上げられた河ってのは、ここだよな。
眺めても何も思い出せない。引き返すのも気乗りせず青年は膝を崩して微風に目を細める。
気温は低いが、空はよく晴れている。河の流れも穏やかだ。舟の二、三隻浮いていてもおかしくないが、辺りはしんと静まり返っていた。
すぐ近くで砂利を踏む音がした。ふとそちらを見ると、青白い肌の女が立っている。ぎょっとする青年に構わず、女は体を左右に揺らしながら一歩足を踏み出した。よたり、よたりと緩慢な歩みだが、行先には河しかない。河の流れは穏やかだ。しかし幅のある大河だからそう見えるのであって、実際の流れは速いに違いない。
ぎくりと、腹の底が冷えた。散歩か、何か用があるのかもしれない。強いて楽観視しようとする青年をあざ笑うように、女は危うい足取りは逸れずに河に向かっている。女の足が水の中に入った。
「あぶねえ!」
ジャブジャブという音に青年は呪縛から解かれたように立ち上がった。透けそうなほど頼りない背を追いかける。
「あんた危ないよ! 危ねえって!」
何歩か河に入った。足が重く、前のめりになって青白い腕を掴もうとするも、すり抜けて女は先に行く。ザアザアと流れる音が耳に迫る。
「河に入るな!!」
叫んだのは見張りだった。声に驚いて振り向いた瞬間、青年は体勢を崩して河底へ尻もちをつく。尾てい骨を打ってうめく青年の耳に短い悲鳴が聞こえた。はっとして女へ目を戻すも、姿がない。
「え……?」
突然、ボコボコッと大きな泡が浮き、少し流れたところで弾けた。同時に白いものが浮かぶ。若い女の腕。それも、肘の部分が引きちぎられたように赤く染まった腕だった。つーっと赤い筋が水面に線を引いたかと思うと、染料の桶を返したように河が紅に染まった。
カハっと喉から妙な音が出た。
――食われた。……逃げないと。何かいる。河に何かいる。俺も食われる。逃げないと!
分かっているのに、紅の水から目が逸らせない。喉が渇く。渇いて渇いてたまらない。
「血だ……」
欲しい、と思った。水でも蜂蜜でも癒せない渇きを満たしてくれるアレが、欲しい。
バシャリと大きな音がして、両手がキンと冷える。
青年は四つん這いになり、河の水を飲んでいた。正確に言えば、河に広がった女の血を。飲んで飲んで飲んで。足りないからもっと欲しい、もっとおいしいこれを飲みたいとがむしゃらに喉を鳴らす。
「てめえ何してやがる!」
肩を掴まれ、岸まで投げ飛ばされた。痛みに咳き込みながら、立ち上がった。
「血、血を飲むんだよ。血、くれ……血を」
「お前、吸血鬼か!?」
問われた青年は目を丸くし、顔を歪めた。何を言っているんだと笑う。自分はそんな化け物ではない。自分は、と両手を見た。薄赤い液体がしたたり落ちるのを慌てて舐めとりながら、俺は、とつぶやく。舌がべろりと手首をなめる。
――俺って、何だったっけ。
吸血鬼とやらを化け物だと思う自分は一体何者なんだ? 女がナニカに襲われたのを見たのに逃げ出さず、河の水を腹いっぱい飲んだ自分は化け物ではないと言うのか。
ガタガタと足が震えだす。体が軽いことに気づいて、ぞっとした。血を飲んで、体調が良くなっている。
「おれ、俺は、違う。俺は違う、俺は。た、タスケテ! 助けて、助けてくれよぉ!!」
叫びながら、青年は踵を返して走り始めた。見張りが追いかけるが、距離が縮まらない。ハアハアと荒く息をしながら、「助けて」と青年は請うた。他でもない誰かに。忘れてしまった、誰かに。
生き返った心地で汗を拭いつつ杖を置き、べたりと地面に尻をつける。振り返ると、見張りがふたり少し離れたところでぶらついている。目が合って、慌てて正面に顔を戻した。
――俺が流れていて引き上げられた河ってのは、ここだよな。
眺めても何も思い出せない。引き返すのも気乗りせず青年は膝を崩して微風に目を細める。
気温は低いが、空はよく晴れている。河の流れも穏やかだ。舟の二、三隻浮いていてもおかしくないが、辺りはしんと静まり返っていた。
すぐ近くで砂利を踏む音がした。ふとそちらを見ると、青白い肌の女が立っている。ぎょっとする青年に構わず、女は体を左右に揺らしながら一歩足を踏み出した。よたり、よたりと緩慢な歩みだが、行先には河しかない。河の流れは穏やかだ。しかし幅のある大河だからそう見えるのであって、実際の流れは速いに違いない。
ぎくりと、腹の底が冷えた。散歩か、何か用があるのかもしれない。強いて楽観視しようとする青年をあざ笑うように、女は危うい足取りは逸れずに河に向かっている。女の足が水の中に入った。
「あぶねえ!」
ジャブジャブという音に青年は呪縛から解かれたように立ち上がった。透けそうなほど頼りない背を追いかける。
「あんた危ないよ! 危ねえって!」
何歩か河に入った。足が重く、前のめりになって青白い腕を掴もうとするも、すり抜けて女は先に行く。ザアザアと流れる音が耳に迫る。
「河に入るな!!」
叫んだのは見張りだった。声に驚いて振り向いた瞬間、青年は体勢を崩して河底へ尻もちをつく。尾てい骨を打ってうめく青年の耳に短い悲鳴が聞こえた。はっとして女へ目を戻すも、姿がない。
「え……?」
突然、ボコボコッと大きな泡が浮き、少し流れたところで弾けた。同時に白いものが浮かぶ。若い女の腕。それも、肘の部分が引きちぎられたように赤く染まった腕だった。つーっと赤い筋が水面に線を引いたかと思うと、染料の桶を返したように河が紅に染まった。
カハっと喉から妙な音が出た。
――食われた。……逃げないと。何かいる。河に何かいる。俺も食われる。逃げないと!
分かっているのに、紅の水から目が逸らせない。喉が渇く。渇いて渇いてたまらない。
「血だ……」
欲しい、と思った。水でも蜂蜜でも癒せない渇きを満たしてくれるアレが、欲しい。
バシャリと大きな音がして、両手がキンと冷える。
青年は四つん這いになり、河の水を飲んでいた。正確に言えば、河に広がった女の血を。飲んで飲んで飲んで。足りないからもっと欲しい、もっとおいしいこれを飲みたいとがむしゃらに喉を鳴らす。
「てめえ何してやがる!」
肩を掴まれ、岸まで投げ飛ばされた。痛みに咳き込みながら、立ち上がった。
「血、血を飲むんだよ。血、くれ……血を」
「お前、吸血鬼か!?」
問われた青年は目を丸くし、顔を歪めた。何を言っているんだと笑う。自分はそんな化け物ではない。自分は、と両手を見た。薄赤い液体がしたたり落ちるのを慌てて舐めとりながら、俺は、とつぶやく。舌がべろりと手首をなめる。
――俺って、何だったっけ。
吸血鬼とやらを化け物だと思う自分は一体何者なんだ? 女がナニカに襲われたのを見たのに逃げ出さず、河の水を腹いっぱい飲んだ自分は化け物ではないと言うのか。
ガタガタと足が震えだす。体が軽いことに気づいて、ぞっとした。血を飲んで、体調が良くなっている。
「おれ、俺は、違う。俺は違う、俺は。た、タスケテ! 助けて、助けてくれよぉ!!」
叫びながら、青年は踵を返して走り始めた。見張りが追いかけるが、距離が縮まらない。ハアハアと荒く息をしながら、「助けて」と青年は請うた。他でもない誰かに。忘れてしまった、誰かに。
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