王の愛は血より濃し 吸血鬼のしもべ第2部

時生

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第二章 月ニ鳴ク獣

第十八話 究極の選択

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 カサコソとどこかから音がする。喉全体が熱くて痛い。肩甲骨の辺りにゾッと寒気が走り、青年は苦しい息を吐いた。熱っぽく湿った息が、ジリリと喉を焼きながら吐き出される。柔らかい砂を突き刺すような音が聞こえる。音は断続的に続いている。

 喘鳴を出して苦しむ青年の腕が、寝台からごろりと転がり出た。持ち上げる力もないのか、だらりと床近くまで垂れ下がり、すすり泣きのように苦しい呼吸をしている。
 実際青年は泣いていた。どこが苦しいとか、あそこが痛いというのではない。全てが、苦痛だった。

「たすけて、くれ……」

 ギシリと、何かが軋んだ。少ししてしっかりとした冷たいものに手を握られる。

「起きたかい?」

 尋ねる声に青年は自分が目を閉じていることにようやく気がついた。この苦痛は夢ではない。現実なのだから目を開けねばと、重いまぶたを押し上げる。視界の中心には、白い男の顔があった。肌も白ければ髪の毛も白い。そして、頭には大きな獣の耳があった。ピンと立つ三角形の耳。切れ長の、まるで目じりに朱を引いたような艶めかしさの目元とあわせて、男は狐を思わせた。

 瞬きをするたびにこめかみに流れるのが、涙なのか汗なのかが分からない。寝返りを打とうとしても、体に力が入らなかった。

「くるし、い」

 青年はゲホゲホと咳をした。狐に似た男が柔らかい布で青年の額や首筋を押さえる。

「そうだろうね。ひどい熱だから。水を飲ませたいが……、体は起こせる?」
「おこせ、ない」

 頭が重くて枕から上がりそうにない。腰から下などは、感覚があるだけで力が全く入らなかった。指一つ動かすだけで、全身にしびれが走りそうだ。
 悔しくて、情けなくて、どうしようもない胸苦しさに青年は口を開いて泣き始めた。しゃくりあげては咳をする。

「泣いたらますます力を消耗するだろう」
「だ、って……」

 咳をしては涙を流す。何か、とてつもないものを失くしてしまった気持ちだった。

「さて、何が喉を通るかな……」

 つぶやき、狐を思わせる男は横顔を見せた。寝台の脇で何かをしている。トプトプと湯を注ぐ音が聞こえる。
 ややして男は青年の背中にいくつも大きな枕をいれて上半身を起こすと、口元に匙を近づけた。透明の、少しだけ黄色いものが匙の上にたまっている。

「これ、なに……」
「蜂蜜を少し湯でゆるめたものだ。喉の痛みがなくなるよ」

 少しだけ開いた唇の間に匙が差し込まれる。甘くて、あたたかいものが舌の上で溶けた。飲み下すと、喉が痛む。嚥下するたびに小さく咳をしながら、懸命に蜂蜜を舐めていると、いつしか咳が収まった。少しだけ喉がぬるっとしたような気がする。呼吸するたびにゼーゼーと音がするのは止まらない。肺が、熱い。

「ありがとう。喉はだいぶ、よくなっ、た。でも、息ができない……」
「一昨日まで河を流れていたせいで、肺がやられているようだよ。――意識が戻るとは思わなかった」

 狐は、ふっと薄い唇の端を上げる。

「酔狂もたまにはするものだな」
「あんた、だれ」
白火はくびという。お前は?」
「おれは、――……」

 狐に似た男、白火の問いかけに、青年はピンと額を弾かれた気分になった。何度頭の中を探っても、眉を寄せて目玉をぐるりと回しても、何も出てこない。真っ白だった。ゾッと胸が冷える。

「わ、分からない……おれは、おれは――?」

 焦燥感がこみ上げてハッハッと、息が切れた。重たい手を持ち上げると、べちりと額の上に落ちてくる。脂じみた髪を掴んでも、何も思い浮かばなかった。俺は、一体誰だ。

 ぐるぐると青年は瞳を動かす。粗末な寝台。狐耳の男。窓には薄茶色い街並みが見えている。木の床には火鉢。薄っぺらい布団。どこかに自分の名前が書いてはいないかと必死で探る青年の両目を、白い手が覆った。

「まずは息を吐きなさい。吐くことだけを考えて。できるだけ長く、吐く」

 指示を出されるのが嬉しかった。懸命に息を吐く。それだけで頭がいっぱいになるくらい、息を吸っては吐いた。できるだけ長く、ただ息を吐き続ける。
 とろりと眠気さえ覚え始めたころ、白火が唐突に語り始めた。

「お前は河を流れてきた。水死体同然だったのを私が金で買ったんだ。あの河を生きて流れてくる者はまずいないから、珍しいと思ってね。同じ考えの者が多くて、値が吊り上がってしまって大変だったよ」

 白火が目元を覆っていた手をよけた。黄色の瞳に見つめられる。片方だけ色が暗く沈んでいる。「ここまで分かるか」と聞かれて青年は首を縦に振った。白火の説明に心当たりは全くなかった。続きをせがむ空気が伝わったのか、白火は大きな手で青年の額をなでながら言葉を続ける。

「死ぬかなと思ったけれど、丸一日看病した結果が今のこの状況だ。お前の目は綺麗だね。こげ茶ではない黒い瞳というのは意外に珍しいものだよ。くりぬいたら高く売れるだろう。歯も綺麗だし、骨も頑丈そうだ。欲しがる者は多いよ」
「え?」
「うん?」

 にっこりと、狐は笑った。ずるると鼻水が出る。伸びてくる白火の手を、青年は本能的によけようとした。しかし体が動かず、されるがまま拭われる。まぶたの際をなでる親指が冷たい。『くりぬいたら高く売れる』白火の言葉を反芻していた青年は、まぶたの下に置かれた指がぐっと肌を押す気配に体を強張らせた。

 男は怯える青年の様子を冷たい眼差しで見ていたが、ややして手を離した。懐手をし、微笑を絶やさず口を開いた。

「そう怖がるな。私が買ったとはいえ選択肢くらいは与えようかと思っていたんだ。明日の夜までなら待とう」
「選択肢?」
「そうとも。男娼になって体を売るか、肺炎を治して潔く内臓を差し出すかどちらか二つに一つだよ。この先も生きたいと言うならばおすすめは男娼だ。死なずに済む」

 唖然とする青年を一なでして白火が立ち上がる。まるで猛禽のような黄色の瞳で青年を見下ろしながら、男は付け加えた。

「こうして意識を取り戻した顔を見ると思った以上に見目はいいな。男娼になったとしてもきっとお客はつくよ。まだ朝だ。明日の夜まであと丸一日以上ある。体を治しながらゆっくり考えなさい」

 狐はまた笑う。青年の吐く息が震え始める。

「どちらも、選ばなかったら……?」
「どうしようか考えておく。楽には死ねないよ」

 優しい手つきで汗を拭われた。着替えようかと囁かれる。
 カサコソと、窓枠で干からびた蜘蛛が足をバタつかせていた。
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