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第一章 暁を之(ゆ)く少年

第十四話 仲直りの証はお日様の匂い

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朱昂しゅこう

 扉の向こうから、くぐもった声が断続的に続いている。

「朱昂。悪かった、謝るから開けてくれ」

 寝台の上で書物に顔を埋めるようにしていた朱昂は、つい手元の本を振りかぶろうとして、寸前で腕を下ろした。いつの間にか解いていた髪紐を、代わりに扉へ投げつける。だが、当然扉までは届かずはらはらと中途で床に落ちてしまった。

「腹減っただろう?飯作ったよ、朱昂」

 カリカリと恨めしげに扉をひっかく音が混じる。情けない声を延々と聞かされて頭にきた朱昂は、大股で部屋を横切るといきなり扉を引いた。
 床に座って扉にもたれかかっていた伯陽はくようが驚いた顔をしている。

「黙れ」

 一喝して扉を閉じようとした朱昂だが、閉め切る間際に伯陽の指が戸を掴んだ。渾身の力で閉めようとしていた朱昂の顔から血の気が引く。寸前で開くと、伯陽がほっとした目で見上げてきた。

「この、馬鹿っ!手、挟まなかったか?」
「挟むかよ」

 涼しい二重まぶたに囲まれた黒い瞳をくりくりと輝かせながら、伯陽が指を動かす。
 自分を心配する主に気を良くしたしもべが、朱昂の足へと手を伸ばす。朱昂は指が届かぬうちにすぐに右足を引いた。まだ床に座ったままの伯陽の眉が下がる。

「朱昂」
「うるさい」
「悪かったって」

 何が悪いかも分かっていないくせに、と朱昂は胸中で呟きながら、首を横に振る。主の冷たい視線に、伯陽が弱り切った声を出す。
 ずるい声だと、朱昂はほだされぬようにそっぽを向いた。

「悪かったよ、朱昂。機嫌治してくれ」
「しつこい。放っておけ」
「できるかよ……」

 黙り込んだしもべを、朱昂は見下ろした。

 喧嘩はたまにするが、怒った朱昂に伯陽がしつこく泣きついてくることはほとんどない。じっと怒りが落ち着くのを待ち続け、和らいだ頃合いを見て謝りに来る。ちなみに逆の場合は、しもべを一晩放置し、次の日に朱昂が思い出したように一言詫びてそれで終わりだ。
 それなのに今日に限っては、やけにしつこかった。久しぶりだから早く仲直りをしたいのかもしれないが、しつこくするのは逆効果だと伯陽もよく知っている。

 伯陽はなおも黙っている。
 さすがに不審を覚えた朱昂が屈み込むと、伯陽が伏せていた目を上げた。

 二十三で成長を止めた伯陽と今の朱昂は、見た目にほとんど年の差がなかった。人に見つかっても、兄弟のふりはもう厳しいかもしれないと朱昂は思う。
 伯陽の頭の上で結った黒髪は、日に晒されて色が抜けていた。蝋燭の火を受けて灰色に光る髪を見て、朱昂はふと胸が痛んだ。そっと指を伸ばす。

「怪我、しなかったか」
「ああ」

 怪我をしても治る体だが、痛みは若干弱いながらもある。
 口には出さないが、朱昂は伯陽を戦場になど立たせたくなかった。しかし、本音を口に出せば伯陽を困らせる。

『しょうがないだろう、朱昂。金は必要だ』

 そんな言葉、言わせたくはない。
 人間の世界で生きるならばどうしても金は必要だった。しかし朱昂は目の色のせいで人前に出ると騒がれる。そのため、もっぱら金を稼ぐのは伯陽だった。比較的短期間で収入がある傭兵の真似事をしているのだ。

 朱昂は伯陽の鎧の音を聞く度に思う。――もしも俺が成体であったなら、と。

 成体であれば、たとえ魔境でも朱昂に簡単に手を出せる者はいない。しかし、朱昂は今、無力な幼体だ。帰ることはできない。だから、伯陽に迷惑をかける。

 真血しんけつのしもべは肉体の時を止め、主のためだけに生き続ける。故に、子を成すこともできない。
 男児たる者、伴侶を得て子を守り育てる。そんな価値観で生きてきた伯陽に、この事実は惨く響いた。打ちひしがれるしもべに掛ける言葉もなく、朱昂は見守ることしかできなかった。

 ――俺は弱い。いつまで弱くなければならないんだ。

「水の匂いがしないか」

 いつの間にか伯陽の隣で膝を抱えていた朱昂は、はっと我に返った。
 伯陽が、座る朱昂の二の腕にそっと手をあてる。ぐるりと首を辺りにめぐらして険しい顔をした。

「水の匂い?しないよ」
「そうか?……外でお前を見た時から妙に匂う。水と、金属の匂い。てっきり武器を持っている奴にでも狙われてるんじゃないかと思ってぞっとした」

 血相を変えて引っ張られた様子を思い出して、朱昂も落ち着かない気分になる。しかし、いくら注意を配っても水の匂いも剣呑な気配もない。
 目の前にある、日焼けした高い鼻を朱昂がつまんだ。

「戦のせいで鼻がばかになったんじゃないのか?」
「ほうかな」
「分からんが、何も感じないよ」

 朱昂が手を離すと、伯陽がすんと鼻を鳴らし、すぐにしかめつらになった。
 朱昂に手を伸ばしてぎゅっと抱きしめてくる。吐息が首にかかり、朱昂が身震いした。

「どうしたんだ、お前」
「朱昂、俺の留守中に何もなかったか」

 妙に真剣な声に、さすがの朱昂も大人しく記憶を探るが、特に何もない。

「変な奴が来たとか」

 ない。首を横に振る。

「誰かに見られている気がしたとか」

 しばらく考えてから首を横に振った。
 そうか、と呟いて伯陽は朱昂を見つめたが、ため息とともにぎゅっと抱きしめられた。こめかみにくちづけるように顔を寄せられ、朱昂の体が緊張する。
 軽く咳払いをした朱昂は、伯陽の不安を取り除くように抱きしめたまま背をなでる。すると、より深く腕が回された。伯陽が小さく息を吸う。

「――朱昂……。今晩、一緒に寝ないか?」

 囁き声が脳に到達した瞬間、白い肌が真っ赤に染まった。

「へえ!?」
「だめか?お願いだ、朱昂」

 ぎゅううっと腕の力が強くなる。朱昂、朱昂と切なげに囁かれて、久しぶりのしもべの匂いに戸惑う主は、頭の芯がくらっと揺れるのを感じた。

「心配なんだよ。少し離れすぎたかもしれん――傍にいたい。だめか」
「分かった。分かったから離れろ」

 伯陽が離れた。紅の瞳を見て、ようやく頬が赤くなるのを隠すように、しもべが立ち上がる。

「飯にしよう」

 頷きながら、主はしばらく動くことができなかった。
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