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第一章 暁を之(ゆ)く少年

第十三話 いつもと変わらぬ一日

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 甲高い叫びとともに、こんもりと茂った低木を突き破るようにして猪が姿を現した。
 音に驚き飛び立つ鳥の羽音が、荒々しい足音に重なる。硬い毛に覆われた猪の背に、銀色の小刀が突き立っていた。痛みと突然の襲撃に狂った猪は衝動的に走り続けているが、それがなおなお傷口を広げ、後ろ足の辺りまで血が流れ、広がっていた。

 走り続ける猪を上空から追いかける影があった。白い肌の青年が、獲物の命を刈り取る瞬間を狙っている。毛先に近づくほどに巻き癖のある黒髪が、首の後ろで一つに束ねられていた。夏にふさわしい麻の短袍は薄青、地の色のままの木綿の褌子は、機敏に動く足をなお軽やかに見せている。

 痛みか、疲れか、猪の腰の軸が大きくぶれたのを紅い目は見逃さなかった。
 右手に挟んでいた小刀を構えると、空中で手首を素早く振って飛ばす。弓矢よりも速く放たれたそれは、狙いを過たず首元に刺さった。急所を深々と穿たれた獣は、どどどっとたたらを踏んだかと思うと、呆気なく命を落とした。
 横倒しになった一瞬、砂煙が巻き上がる。

「よっと」

 足下の太い枝を掴んでぶら下がった朱昂しゅこうは、軽いかけ声とともに着地した。

「今日はシシ鍋だな」

 ご馳走ご馳走。
 鼻歌でも歌い出しそうな調子で猪に近づいた朱昂は、首に刺さった小刀の柄をより深く差し込むと、猪を横向きにした。
 脚を持ち上げて素早く腹を割くと、血が漏れ出さぬように小刀を動かす。血を皮の内にためこむように切り開くと手を止め、躊躇なく内臓に近い場所へ口をつけた。白い喉が大きく上下する。
 見た目はさほど差はないが、やはり獣の血は脂っぽくて人間のものとは比べものにならない。しかし、朱昂は自ら人に近寄ることはなかった。理由は単純なことだ。

「はあ、あー、まずい」

 目の下まで赤く濡らした朱昂は、手の甲で顔を拭いながらぼやき声を出した。
 べろりと真っ赤な舌が唇を舐める。その奥に並んだ真珠色の歯は、まるで子どものように美しく、円かった。

 朱昂の見た目は、すでに成人した男に見えた。やや痩せた身体のため小柄に見えるが、身長は人並みにある。しかし、吸血鬼の本性は未だ眠ったままだった。

 朱昂には成体の吸血鬼にある牙がない。見た目に反して、未だに幼体であった。
 吸血鬼の牙は人間の快楽を引き出す効果がある。牙のない朱昂が人の血を飲もうとすると、肌を傷つけるしかないのだ。そんなことをしても、刃物を振り回す暴漢として危険視されるのが関の山。普段は幼主のために血を持って帰るしもべも長く外出中だった。

 それほど血は必要としないが、ないと困る朱昂は、獣の血を飲んで飢えをしのいでいたのである。
 美味いとは感じない血を飲みながら解体を行った朱昂は、麻の袋に肉を詰めると内臓を土に埋めた。
 朱昂は伯陽はくようと契った後も、魔境まきょうには戻らなかった。契りを結んで五十年余り。主従は所を変え、人目につかぬ廃屋に住まっては、細々とした生活を続けていた。
 物心ついた頃から人間の近くで暮らしてきた朱昂は、縁遠い故郷に戻る気になれなかったのだ。

 ――大きくなるなよ、朱昂。

 呪詛は朱昂の身体に留まり続けている。父の執念が、亡き後も朱昂の魔としての目覚めに蓋をしていた。

 作業を終える頃には、手足がぬくくなっていた。獣の血でも、多少は役に立つな、と朱昂はあくびを噛み殺しながら家路を辿る。目指す先は、傾きそうな古家だ。
 大風でも吹けば屋根が落ちてしまいそうなあばら屋に、顔立ちの整った朱昂が入る様子は異様であった。かつて何度か住み処が人間に見つかり、化け物屋敷と噂されたのは何も朱昂の紅い目だけが理由ではない。

 朱昂は廃屋じみた家からすぐに出てきた。近くの泉まで走ると、畔で着物を脱ぐ。今の住み処はかなり山深い。ほとんど周囲を気にすることもなく全裸になった朱昂は、ゆっくりと澪に足を差し入れた。冷たさにきつく目を閉じるが、息を吐いて腰まで浸かる。

 体格の割に大きな手で水をすくっては、丁寧に血を洗い流す。真っ白な髪紐を解くと、肩甲骨に近いところまで黒髪が広がる。泳ぐように肩まで水に入り、首を傾けると髪をゆすぎ始めた。木々を走る間に絡んでいた小枝や木肌が流れていく。仕上げにざぶんと水にもぐると上体を起こした。顔の上を流れ落ちる水を手のひらで拭う。

 ガサ。ガサ。

 髪を絞っていた朱昂の背後で足音がした。重たげな音を耳にした朱昂の唇に、笑みが灯る。

 ――帰ってきた。

 随分と遅いご帰還だ。百日過ぎるとは聞いていない。
 胸の内で文句を呟きながらも、それはあっという間に水に溶けて消える。
 朱昂は、自分の中に満ちていた緊張がまるで栓が抜けたかのように引いていくのが分かった。
 それでようやく自覚するのだ。帰らぬしもべの身をどんなにか案じていたことを。
 朱昂は自身の本心を、後になってそれが消えてから気づくことが多かった。

「伯陽!」

 朱昂は足音が止まったのを感じて振り向いた。

 (ただいまぁ)

 普段は冷静ぶっているくせに、戻ってくる時だけ甘え全開のしもべは、予想に反してそこにいなかった。
 いや、いたのだが、随分と遠くで辺りを見回している。
 伯陽は軍装のままだ。胸と背を覆う鎧の肩紐が破れかかっている。返り血が飛んだままの姿に、朱昂が顔をしかめる。酔っ払いのようにふらふらと視線を巡らせていた伯陽は、ようやく朱昂を見た。
 途端に、勢い込んで走ってくる。

 (ただいま!朱昂!)

 伯陽は朱昂の裸の腕を掴み畔へ引っ張り上げ、破顔して抱きしめる――ということにはならなかった。
 泉の畔にしゃがみ込み、主を引き上げたしもべは、掴まれる痛みを覚えながらも「おかえり」と口にしかかった朱昂を頭から叱りつけた。

「こんな状況で何のんきにしてやがる!家に入るぞ」
「え?――ええ?!ま、待てよ伯陽!」
「いいから来い!あぶねえだろうが!」

 まるで口を塞ぐような言い方に、朱昂の顔に怒りが滲むのも構わず、伯陽は家に着くまで裸の朱昂を引っ張って歩いた。
 家に着いてようやく、主が丸裸で水を垂らしていることに気づいた伯陽が放った一言は、

「なんて格好してるんだ、お前」だった。

 朱昂の手が、鎧の下に覗く伯陽の襟首を掴み上げる。

 ――パンッ!パン、パン、パン!ッパアァン!!

 存分に平手打ちをされた伯陽が頬を押さえて唸る中、朱昂は肩を怒らせて自室に入ったのであった。
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