17 / 106
第一章 暁を之(ゆ)く少年
第九話 大罪(1)
しおりを挟む
椅子の上で身を丸めるようにして、少年は目を瞑り、じっと呼吸を繰り返していた。
机には血がこびりついた小刀と、血の脂によって先まで固く糊されたようになった筆が転がっている。
朱昂は紅い目を見せ、ゆっくりと細い息を吐いた。懐手して鳥肌の立った腕をなでる。
椅子の足元には銀杯がある。中にはなみなみと“夕食”が注がれていた。渡されたそれを床に置いたきり見向きもしなかった朱昂は、ようやく顔をうつむけて杯を見た。
腕を伸ばすと、丈が合わぬ袖は肘を覆い隠すほどで、白い前腕の半ばまでむき出しになった。
満たされた赤い液体を前に、妙な感傷に襲われそうになった朱昂は、すぐにそれに口をつけた。
すっかり温もりを失った真血が朱昂の喉を通り過ぎる。
父から与えられる血。
それを口にするのが最後になるであろうことは分かった上で、朱昂は首を反らし、一息で真血を飲み干した。
ここ一年、まともに父の顔を見ていない。日に三度届けられる“食料”だけが父の生存の証だった。
朱昂が真血の主の治癒能力についての知識を求め、理解を深めるのに呼応するように父の姿を見かけなくなった。
まるで、朱昂の目的に感づいているかのように、真血の主は地下に籠るようになっていった。
決意の日から五年。吸血鬼にとって短いはずの年月が、朱昂にはひどく長かった。
朱昂は銀杯を机に置くと、先ほどから肌を刺すように押し寄せる殺気に意識を戻した。
部屋を出て、二階の露台から森を見る。流石に人里までは見渡せない。
それを知っている朱昂は、一息吸うと、露台から跳躍して屋根の瓦を踏んだ。
主の命が傾き始めていることを察したのか、屋敷を離れる同族は後を絶たなかった。もはや十分な見張りもおらず、王子が夜に部屋を出ても咎める者もいない。
――自由になったものだ。
夜気を吸い込んで、朱昂は顔を上げた。眼前に広がる光景に目を細める。小さく唇を歪めた。
「美しいな」
思わず声が漏れた。
人里から幾筋にも分かれて松明の灯りが並ぶ様は、まるで金色の葉脈のようだった。葉脈は少しずつ広がり、吸血鬼の屋敷へと伸び始めている。
小さな粘菌が這いずるが如く、人の歩みは遅い。しかし、人食い鬼を呪う男たちの歌が風に混じり始めていた。
人間を導くのは、木々に塗られた朱昂の真血だ。幹に書き殴られた血文字は、「火を灯せ、鬼を呪え」と人の狂気を煽り立てる。
朱昂は地面まで一気に飛び降りると、木々の間を走り抜けた。
少年の体には合っていない衣が、風を受けてバタバタとはためく。
真血の主の結界は破られ始めている。朱昂がここ一年をかけて、術式を解いていたのだ。父に感づかれないよう、結界が完全に消失してしまわぬよう慎重に慎重を重ねて。
今の結界はまるで横糸と縦糸の数が合わぬ不出来な布だ。あと一本、糸を抜けば、それは形を成せなくなる。
朱昂は、男たちの松明の炎が四方から覗く場所で足を止め、銀の小刀で深く手首を刺した。拍動に合わせてとくとくと湧き出る体液を足下に垂らす。
小さな水たまりができたところで、つま先を血に浸し、土に彫り込むように文様を描いていく。小さな口が動いた。
――最後の一本が、引き抜かれた。
点々とつけられた血を道しるべに、松明を掲げ歩いていた人間たちは、強い風に皆足を止めた。
一陣の風が吹き抜けた後、顔を上げた人々は、目の前に少年を発見した。
紅い大きな瞳がこちらをまっすぐに見つめている。
少年は一点を見つめているはずだが、そこにいる全ての者が、彼に見つめられたように感じた。
水を打った静けさの後、
「ころせ」
誰かがぽつりとこぼした。どくりと葉脈が震える。
「殺せ!」
「鬼だ!」
「紅い目の鬼!」
「殺せぇえええ!!!!」
静寂を破ったのは男たちの呪詛と、人食い鬼へ殺到する足音だった。
机には血がこびりついた小刀と、血の脂によって先まで固く糊されたようになった筆が転がっている。
朱昂は紅い目を見せ、ゆっくりと細い息を吐いた。懐手して鳥肌の立った腕をなでる。
椅子の足元には銀杯がある。中にはなみなみと“夕食”が注がれていた。渡されたそれを床に置いたきり見向きもしなかった朱昂は、ようやく顔をうつむけて杯を見た。
腕を伸ばすと、丈が合わぬ袖は肘を覆い隠すほどで、白い前腕の半ばまでむき出しになった。
満たされた赤い液体を前に、妙な感傷に襲われそうになった朱昂は、すぐにそれに口をつけた。
すっかり温もりを失った真血が朱昂の喉を通り過ぎる。
父から与えられる血。
それを口にするのが最後になるであろうことは分かった上で、朱昂は首を反らし、一息で真血を飲み干した。
ここ一年、まともに父の顔を見ていない。日に三度届けられる“食料”だけが父の生存の証だった。
朱昂が真血の主の治癒能力についての知識を求め、理解を深めるのに呼応するように父の姿を見かけなくなった。
まるで、朱昂の目的に感づいているかのように、真血の主は地下に籠るようになっていった。
決意の日から五年。吸血鬼にとって短いはずの年月が、朱昂にはひどく長かった。
朱昂は銀杯を机に置くと、先ほどから肌を刺すように押し寄せる殺気に意識を戻した。
部屋を出て、二階の露台から森を見る。流石に人里までは見渡せない。
それを知っている朱昂は、一息吸うと、露台から跳躍して屋根の瓦を踏んだ。
主の命が傾き始めていることを察したのか、屋敷を離れる同族は後を絶たなかった。もはや十分な見張りもおらず、王子が夜に部屋を出ても咎める者もいない。
――自由になったものだ。
夜気を吸い込んで、朱昂は顔を上げた。眼前に広がる光景に目を細める。小さく唇を歪めた。
「美しいな」
思わず声が漏れた。
人里から幾筋にも分かれて松明の灯りが並ぶ様は、まるで金色の葉脈のようだった。葉脈は少しずつ広がり、吸血鬼の屋敷へと伸び始めている。
小さな粘菌が這いずるが如く、人の歩みは遅い。しかし、人食い鬼を呪う男たちの歌が風に混じり始めていた。
人間を導くのは、木々に塗られた朱昂の真血だ。幹に書き殴られた血文字は、「火を灯せ、鬼を呪え」と人の狂気を煽り立てる。
朱昂は地面まで一気に飛び降りると、木々の間を走り抜けた。
少年の体には合っていない衣が、風を受けてバタバタとはためく。
真血の主の結界は破られ始めている。朱昂がここ一年をかけて、術式を解いていたのだ。父に感づかれないよう、結界が完全に消失してしまわぬよう慎重に慎重を重ねて。
今の結界はまるで横糸と縦糸の数が合わぬ不出来な布だ。あと一本、糸を抜けば、それは形を成せなくなる。
朱昂は、男たちの松明の炎が四方から覗く場所で足を止め、銀の小刀で深く手首を刺した。拍動に合わせてとくとくと湧き出る体液を足下に垂らす。
小さな水たまりができたところで、つま先を血に浸し、土に彫り込むように文様を描いていく。小さな口が動いた。
――最後の一本が、引き抜かれた。
点々とつけられた血を道しるべに、松明を掲げ歩いていた人間たちは、強い風に皆足を止めた。
一陣の風が吹き抜けた後、顔を上げた人々は、目の前に少年を発見した。
紅い大きな瞳がこちらをまっすぐに見つめている。
少年は一点を見つめているはずだが、そこにいる全ての者が、彼に見つめられたように感じた。
水を打った静けさの後、
「ころせ」
誰かがぽつりとこぼした。どくりと葉脈が震える。
「殺せ!」
「鬼だ!」
「紅い目の鬼!」
「殺せぇえええ!!!!」
静寂を破ったのは男たちの呪詛と、人食い鬼へ殺到する足音だった。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
偏食の吸血鬼は人狼の血を好む
琥狗ハヤテ
BL
人類が未曽有の大災害により絶滅に瀕したとき救済の手を差し伸べたのは、不老不死として人間の文明の影で生きていた吸血鬼の一族だった。その現筆頭である吸血鬼の真祖・レオニス。彼は生き残った人類と協力し、長い時間をかけて文明の再建を果たした。
そして新たな世界を築き上げた頃、レオニスにはひとつ大きな悩みが生まれていた。
【吸血鬼であるのに、人の血にアレルギー反応を引き起こすということ】
そんな彼の前に、とても「美味しそうな」男が現れて―――…?!
【孤独でニヒルな(絶滅一歩手前)の人狼×紳士でちょっと天然(?)な吸血鬼】
◆閲覧ありがとうございます。小説投稿は初めてですがのんびりと完結まで書いてゆけたらと思います。「pixiv」にも同時連載中。
◆ダブル主人公・人狼と吸血鬼の一人称視点で交互に物語が進んでゆきます。
◆現在・毎日17時頃更新。
◆年齢制限の話数には(R)がつきます。ご注意ください。
◆未来、部分的に挿絵や漫画で描けたらなと考えています☺

[完結]堕とされた亡国の皇子は剣を抱く
小葉石
BL
今は亡きガザインバーグの名を継ぐ最後の亡国の皇子スロウルは実の父に幼き頃より冷遇されて育つ。
10歳を過ぎた辺りからは荒くれた男達が集まる討伐部隊に強引に入れられてしまう。
妖精姫との名高い母親の美貌を受け継ぎ、幼い頃は美少女と言われても遜色ないスロウルに容赦ない手が伸びて行く…
アクサードと出会い、思いが通じるまでを書いていきます。
※亡国の皇子は華と剣を愛でる、
のサイドストーリーになりますが、この話だけでも楽しめるようにしますので良かったらお読みください。
際どいシーンは*をつけてます。
あなたの隣で初めての恋を知る
ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。


【BL】死んだ俺と、吸血鬼の嫌い!
ばつ森⚡️4/30新刊
BL
天涯孤独のソーマ・オルディスは自分にしか見えない【オカシナモノ】に怯える毎日を送っていた。
ある日、シェラント女帝国警察・特殊警務課(通称サーカス)で働く、華やかな青年、ネル・ハミルトンに声をかけられ、【オカシナモノ】が、吸血鬼に噛まれた人間の慣れ果て【悪霊(ベスィ)】であると教えられる。
意地悪なことばかり言ってくるネルのことを嫌いながらも、ネルの体液が、その能力で、自分の原因不明の頭痛を癒せることを知り、行動を共にするうちに、ネルの優しさに気づいたソーマの気持ちは変化してきて…?
吸血鬼とは?ネルの能力の謎、それらが次第に明らかになっていく中、国を巻き込んだ、永きに渡るネルとソーマの因縁の関係が浮かび上がる。二人の運命の恋の結末はいかに?!
【チャラ(見た目)警務官攻×ツンデレ受】 ケンカップル★バディ
※かっこいいネルとかわいいソーマのイラストは、マグさん(https://twitter.com/honnokansoaka)に頂きました!
※いつもと毛色が違うので、どうかな…と思うのですが、試させて下さい。よろしくお願いします!
后狩り
音羽夏生
BL
ただ一人と望む后は、自らの手で狩る――。
皇帝の策に嵌り、後宮に入れられた元侍従の運命は……。
母の故国での留学を半ばで切り上げ、シェルは帝都の大公邸に戻っていた。
若き皇帝エーヴェルトが、数代ぶりに皇后を自らの手で得る『后狩り』を行うと宣言し、その標的となる娘の家――大公家の門に目印の白羽の矢を立てたからだ。
古の掠奪婚に起源を持つ『后狩り』は、建前上、娘を奪われる家では不名誉なこととされるため、一族の若者が形式的に娘を護衛し、一応は抵抗する慣わしとなっている。
一族の面子を保つために、シェルは妹クリスティーナの護衛として父に呼び戻されたのだ。
嵐の夜、雷光を背に単身大公邸を襲い、クリスティーナの居室の扉を易々と破ったエーヴェルトは、皇后に望む者を悠々と連れ去った。
恐ろしさに震えるクリスティーナには目もくれず、当身を食らい呆気なく意識を失ったシェルを――。
◇◇◇
■他サイトにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる