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第一章 暁を之(ゆ)く少年
第八話 紅眼鬼の噂
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――伯陽。
馬上から呼ばれた青年は、秣を食む栗毛の首をなでる手を止めて顔を上げた。目の前には青毛に跨がった上官がいる。
中天に達した太陽の光が強い。だらりと流れる汗を上官が手で拭うのを見て、暁之は慌てて水筒を差し出した。
体格の大きな北方の男の中でも、暁之は背が高い。ほとんど上体を屈めることなく水筒を受け取った男は、ぬるい水を喉に流し込んだ。
一年前から部下になった青年に、男は目を掛けていた。
目から鼻に抜けるような切れ者ではない。ただ、素直で、一生懸命で、どんな時でも一本筋を通そうとするところが好ましく映った。
曲げた見方をすれば、よく働きはするが、出世の妨げにはならぬ青年を厚遇している風もある。
だが、伯陽と字を呼びそば近くに置くくらいだ、薄暗い思惑があってそうしているのではなかった。
「出てきてよろしいのですか?」
県の長官の視察に同行し、五日がかりで地方を巡っている。新しく赴任した長官は真面目な男で、農民の言葉にも耳を傾けていた。
暁之の上官は、県軍の副官である。本来なら県令にしたがっているべきであるのに、どうしてここへ?と馬番をしていた暁之は首を傾げる。
「いや」
男は口を開いて、すぐに閉じた。前腕を掻きながら青毛の鬣を見つめている。
「どうも薄ら寒い話ばかり聞かされるのでな」
「はあ」
低い呟き声に暁之は首を傾げ、上官を見上げた。男は、そのまま馬を下りるでもなく、続きを語るでもない。間延びした沈黙に視線をさまよわせる暁之の傍らで、馬がゆっくりと方向転換を始めた。
「戻る」
「は。……お気をつけて」
常にも増して妙に口の重い上官に、見送る暁之の胸も重くざわついた。
月が上りきる頃、交代の時間が来た。不寝番の同僚と別れ、夜食を用意してある房に向かう。
飯を食って体を拭いて。それでもう床につこうと、持ち場を離れた途端に曇りだした頭で考えながら、巡察団の宿舎として用意された屋敷の中を歩く。
房に入ると、軽食はすぐに用意された。
羹に息を吹きかけて椀を傾けていると、野犬が騒ぐ声が聞こえた。しばらくしても物音は止まず、かえって大きくなる。一際大きい叫びのようなものが聞こえて、窓もないのに音がする方へ首を向けた。
人声が聞こえる。騒音が野犬の出すものではないと気づいた暁之は房を出た。騒ぎを聞きつけた同僚が外に向かうのを見て、剣を掴んだまま、後に続く。
大路が交差し、ちょっとした広場になっている場所で、男たちが大声で言い合っていた。
一人の男を十人近い男がぐるりと囲っている。しかし、喧嘩にしては様子が違った。
主に騒いでいるのは中心の若く見える男だけで、周りはそれをなだめようとしている。青年が四尺余りの棒を持っているために、ぐるりと囲む男たちも、容易に近づけないようだった。
「俺は見たんだよ!」
中心の青年が叫んだ。
「北の山に人食い鬼がいるって、隣街の高札にあったんだ!俺ァあいつを取り返すんだよ!!」
「何を言っている、三年も前に消えただろう」
「あいつが死んでるって!?腹に子もいたのにか!?」
青年の大声に、輪が怯んだように揺れた。男たちが一瞬息を呑む。
「たとえあいつが死んだならなぁ、子どもも死んじまったなら、俺はなおのこと許さねえ!分かっているだろ!?隣街だって赤子を何人も連れ去られてるんだ。人の仕業じゃねえよ、いるんだよ!紅い目の鬼が!!あっちは大騒ぎだった!」
最後は涙声だった。溢れるものを前腕で拭った隙をついて、同僚が輪に入り込んで青年から棒を奪う。
軽装ながらも鎧を着た武官に得物を奪われ、青年の意気が折れたようだった。ずるりと地に膝を突いて、周りを見上げる。
「助けてくれよ……」
青年が鎧にすがる。
「どうにかしてください!ここらは呪われている。子どもも赤子も、腹の大きな女たちまでいなくなっちまって。人の仕業じゃねえんです……、いつの間にかいなくなって、みーんな帰ってきやしねえ!し、死体も見つからないんですよぉ!!」
「いい加減にしないか」
暁之の同僚が諭すような声を出すが、青年は引き下がらない。
疑うなら、隣街の高札を見よと眉を吊り上げて詰る。
「殺してくれ!紅い目の鬼を殺せ!!」
連れていけの一言で、男たちが錯乱した青年を両脇から抱えて引きずっていく。
引き上げる人々の中で、暁之だけがその場から離れられなかった。背中にびっしりと汗が浮いている。
心臓の音が激しいというのに、顔から血の気が引くのが自分でも分かった。
暁ちゃん、と悪戯げに笑う大きな瞳を思い出す。
夕日が落ちた後も美しく輝く紅い瞳。年を取らない永遠の少年。
――紅い目の鬼を殺してくれ!
「朱昂……」
膝が震える。全身に繰り返し悪寒が走る。嘔吐しないのが、不思議なほどだった。
翌朝未明。県令の留まる街の高札に、血のように赤い文字で書かれた張り紙が貼られているのが発見された。
『北の森の奥深くに紅眼の食人鬼あり。退けたくば、火を灯せ』
枯れ草に、火が投じられた。
北部一帯にばらまかれた張り紙に悲しみを揺すぶられ、妻や子を奪われた男たちが立ち上がるのに、時間はかからなかった。
馬上から呼ばれた青年は、秣を食む栗毛の首をなでる手を止めて顔を上げた。目の前には青毛に跨がった上官がいる。
中天に達した太陽の光が強い。だらりと流れる汗を上官が手で拭うのを見て、暁之は慌てて水筒を差し出した。
体格の大きな北方の男の中でも、暁之は背が高い。ほとんど上体を屈めることなく水筒を受け取った男は、ぬるい水を喉に流し込んだ。
一年前から部下になった青年に、男は目を掛けていた。
目から鼻に抜けるような切れ者ではない。ただ、素直で、一生懸命で、どんな時でも一本筋を通そうとするところが好ましく映った。
曲げた見方をすれば、よく働きはするが、出世の妨げにはならぬ青年を厚遇している風もある。
だが、伯陽と字を呼びそば近くに置くくらいだ、薄暗い思惑があってそうしているのではなかった。
「出てきてよろしいのですか?」
県の長官の視察に同行し、五日がかりで地方を巡っている。新しく赴任した長官は真面目な男で、農民の言葉にも耳を傾けていた。
暁之の上官は、県軍の副官である。本来なら県令にしたがっているべきであるのに、どうしてここへ?と馬番をしていた暁之は首を傾げる。
「いや」
男は口を開いて、すぐに閉じた。前腕を掻きながら青毛の鬣を見つめている。
「どうも薄ら寒い話ばかり聞かされるのでな」
「はあ」
低い呟き声に暁之は首を傾げ、上官を見上げた。男は、そのまま馬を下りるでもなく、続きを語るでもない。間延びした沈黙に視線をさまよわせる暁之の傍らで、馬がゆっくりと方向転換を始めた。
「戻る」
「は。……お気をつけて」
常にも増して妙に口の重い上官に、見送る暁之の胸も重くざわついた。
月が上りきる頃、交代の時間が来た。不寝番の同僚と別れ、夜食を用意してある房に向かう。
飯を食って体を拭いて。それでもう床につこうと、持ち場を離れた途端に曇りだした頭で考えながら、巡察団の宿舎として用意された屋敷の中を歩く。
房に入ると、軽食はすぐに用意された。
羹に息を吹きかけて椀を傾けていると、野犬が騒ぐ声が聞こえた。しばらくしても物音は止まず、かえって大きくなる。一際大きい叫びのようなものが聞こえて、窓もないのに音がする方へ首を向けた。
人声が聞こえる。騒音が野犬の出すものではないと気づいた暁之は房を出た。騒ぎを聞きつけた同僚が外に向かうのを見て、剣を掴んだまま、後に続く。
大路が交差し、ちょっとした広場になっている場所で、男たちが大声で言い合っていた。
一人の男を十人近い男がぐるりと囲っている。しかし、喧嘩にしては様子が違った。
主に騒いでいるのは中心の若く見える男だけで、周りはそれをなだめようとしている。青年が四尺余りの棒を持っているために、ぐるりと囲む男たちも、容易に近づけないようだった。
「俺は見たんだよ!」
中心の青年が叫んだ。
「北の山に人食い鬼がいるって、隣街の高札にあったんだ!俺ァあいつを取り返すんだよ!!」
「何を言っている、三年も前に消えただろう」
「あいつが死んでるって!?腹に子もいたのにか!?」
青年の大声に、輪が怯んだように揺れた。男たちが一瞬息を呑む。
「たとえあいつが死んだならなぁ、子どもも死んじまったなら、俺はなおのこと許さねえ!分かっているだろ!?隣街だって赤子を何人も連れ去られてるんだ。人の仕業じゃねえよ、いるんだよ!紅い目の鬼が!!あっちは大騒ぎだった!」
最後は涙声だった。溢れるものを前腕で拭った隙をついて、同僚が輪に入り込んで青年から棒を奪う。
軽装ながらも鎧を着た武官に得物を奪われ、青年の意気が折れたようだった。ずるりと地に膝を突いて、周りを見上げる。
「助けてくれよ……」
青年が鎧にすがる。
「どうにかしてください!ここらは呪われている。子どもも赤子も、腹の大きな女たちまでいなくなっちまって。人の仕業じゃねえんです……、いつの間にかいなくなって、みーんな帰ってきやしねえ!し、死体も見つからないんですよぉ!!」
「いい加減にしないか」
暁之の同僚が諭すような声を出すが、青年は引き下がらない。
疑うなら、隣街の高札を見よと眉を吊り上げて詰る。
「殺してくれ!紅い目の鬼を殺せ!!」
連れていけの一言で、男たちが錯乱した青年を両脇から抱えて引きずっていく。
引き上げる人々の中で、暁之だけがその場から離れられなかった。背中にびっしりと汗が浮いている。
心臓の音が激しいというのに、顔から血の気が引くのが自分でも分かった。
暁ちゃん、と悪戯げに笑う大きな瞳を思い出す。
夕日が落ちた後も美しく輝く紅い瞳。年を取らない永遠の少年。
――紅い目の鬼を殺してくれ!
「朱昂……」
膝が震える。全身に繰り返し悪寒が走る。嘔吐しないのが、不思議なほどだった。
翌朝未明。県令の留まる街の高札に、血のように赤い文字で書かれた張り紙が貼られているのが発見された。
『北の森の奥深くに紅眼の食人鬼あり。退けたくば、火を灯せ』
枯れ草に、火が投じられた。
北部一帯にばらまかれた張り紙に悲しみを揺すぶられ、妻や子を奪われた男たちが立ち上がるのに、時間はかからなかった。
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