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第一章 暁を之(ゆ)く少年
第七話 誓い
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やめて、と朱昂は拒否の言葉を発することができなかった。恐怖で息を詰まらせたまま、父に襟首を掴まれ引きずられるようにして歩く。
暁之が去ってからしばらく。水が滴りそうなほど重くなった衣に身震いをし、ようやく帰る動きを始めた朱昂の背後に、父は立っていたのだった。
『どういうことだ朱昂』
何とか言葉を出そうとした朱昂の頬を、父が音高く張った。体勢を崩す朱昂の襟を掴み、父は歩き出したのだった。
先を歩く父と朱昂の歩幅には圧倒的な差がある。父の歩く速さについていけない朱昂が足をもつれさせ、前のめりに体勢を崩すと、首の後ろ側を掴んだまま、乱暴に揺すり上げられた。
朱昂の両足が地面から離れて、投げ出されるように着地してまた引きずられる。
「人間などに誑かされて」
私の朱昂。私の朱昂が。
ぶつぶつと呟きながら吸血鬼の王は飛ぶように歩き続ける。朱昂は無言だった。父に乱暴な扱いなど受けたことがない。手を上げられたのも、もののように扱われたのも初めてだ。
揺すられながら歩く内に、着崩れが激しくなってきた。白い腿まで雨に濡れ、胸も外気に晒されている。あまりの衝撃に、朱昂の唇は忙しない息だけを吐く。
やがて、屋敷にたどり着くも、父の手は緩まなかった。親子の異様な足音が無人の回廊に響き渡る。
主が通り過ぎた後、わずかに残っている使用人たちがちらりちらりと顔を出しては、見えぬ振りを装って持ち場へと戻っていく。
真血の主は寝室の扉を開け放つと、息子を寝台に向かって放り投げた。
強く胸を打った朱昂の喉から不穏な水音がもれる。震える足をもつれさせながら寝台を下りようとした朱昂の帯を握りしめ、父親が腹ばいになった朱昂を上から押した。
手のひらを通じて父の全体重を受けた朱昂は、背骨が折れそうな痛みに首をのけぞらせて叫んだ。
風切り音に似た高い音が朱昂の白い喉を震わせ、押し出された涙が紅い瞳からこぼれ落ちる。
「なぜ父に反することばかりをするのだ、朱昂!」
父の恫喝を聞いた瞬間、折れかけていた朱昂の心に火がついた。断じて、これの思い通りにはならぬと、圧倒的な力の下で朱昂は歯を食いしばる。
「なぜ、だと……?」
骨がくっきりと浮かぶほど敷布を握りしめた朱昂は、恐怖と怒りが混ざり合った瞳を父親に向けた。
父の、縦に伸びた瞳孔が、息子を見て一瞬怯みを見せるも、次の瞬間には息子に乗り上げる勢いで体重をかける。
燃えるような腰の痛みに、朱昂は破れそうなほど唇を噛んだ。真血は父の暴力で負った傷も瞬時に癒やしていくが、痛みだけは取り除けない。
額を敷布につけて必死に呼吸しては、首を巡らせて父を睨みつける。
「何だその目は」
真血の主は、空いた手で頭を抱えた。顔色は青ざめ、朱昂の視線を受けながら首を何度も横に振る。
「どこで覚えたのだ!いつからそんな目をするようになった!どうして、どうしてっ!」
立て続けに絶叫した血王から、ふと表情が抜け落ちる。
「――そうか」
何も映していない人形のような目。それが発した呟きに、つきりと朱昂の背が冷たく痺れた
無表情の父は両手を朱昂の上に置き、骨が軋むほど強く押す。
朱昂は息が吸えず、喉元だけ空気を行き来させる浅い呼吸を繰り返す。
「下界のものなど口にしたから人間に染められたのだ。悪いものを食わせ続けた……そうか、そうかぁ」
紅い瞳に憐れみがいっぱいになる。下がる眉は悲痛を表していたが、口元は喜悦満面であった。
「なんて可哀想なことを……、気づかなかった父を許しておくれ、朱昂。そうだよな、あれだけ成長の早い生き物が食うものを口にしておれば、早く成長するはずだわ」
奇妙なことを言う父親の下で、朱昂は苦しみにのたうつ。血王の言は全く事実を表わしていない。朱昂の成長は早いどころか、遅かった。
父はまた都合のいい妄想をして、自分が傷つかない世界に逃げ込もうとしている。
ただ一人、現実に取り残される朱昂は、空気を求めて赤く腫れた唇を大きく開く。
「あぁ、いっそ真血だけで育てれば良かった。これからはそうしてあげようなぁ。そうすれば心が毒されることもない。邪悪なものに染められることなどないぞ。せ、成長も、平常に戻るなぁ、きっと。きっとそうだ。間に合う、間に合うぞ。良かったぁ」
何かに感謝するように天を仰ぐ血王は、息子の帯をようやく離し、激しく咳き込む愛児を力一杯抱きしめる。
「決して可愛いお前を彼奴等に渡したりはしない。朱昂は耐えられない。こんなに小さくて可愛い朱昂が、あの閨房など耐えられるはずもない。大丈夫。大丈夫だよ、朱昂。父の真血を飲んでいれば、決して奴等に毒されたりはしないぞ。大丈夫、ハハ、良かった、大丈夫だきっと、きっと、ハハハ、朱昂、朱昂、アハハハハハ」
「父上、さま……」
父の精神が、まるで地滑りのように崩壊していくのを、朱昂は震える腕の中で逃げ場もなく見つめることになった。
――壊れてしまった……。
吸血族によって長年浸食されていた父の心。それを決定的に壊したのが自分であることを、朱昂はその時雷に打たれたように悟った。
子を得るために父は陵辱を受け、その結果生まれた息子への愛故に、愚かな行いを繰り返したのだ。そしてたった十年の間、密かに人間の友を作っていたことが、これほどまでに父を打ちのめした。
父の狂気の原因を辿れば全て自分に行き着く。そのことに、深い哀しみを抱くのは初めてだった。
朱昂を満たしていた怒りと恐怖が、まるで霧が晴れるように心からの憐れみへと姿を変える。
朱昂は認めなければならなかった。自分が父を愛していることを。そして、父を救う術はほぼ残されていないということを。
――あぁ、この世界にあるにはこの方は弱すぎた。
自死ではだめなのだ。朱昂を失い、完全に狂った父は再び種馬にさせられるだろう。それでは苦しみが増すだけだ。
苦しみを絶つ方法は、もう、これしかない。
――この朱昂が、弑してさしあげる。
朱昂は父の背に腕を回す。雨が降り出した頃からずっと自分を見ていたのだろうか、ぐっしょりと濡れた衣に包まれた父は、暁之に比べれば悲しいほど冷たかった。
「父上様」
「大丈夫、大丈夫……」
親子が冷たい頬をすり合わせる。朱昂の涙を震える唇が吸った。
「大丈夫だ、朱昂。愛している」
朱昂は小さく頷いた。
真血の主を殺す。未だ己の力を知らぬ幼い吸血鬼の心に生まれたそれが、朱昂の初めての強い誓いであった。
暁之が去ってからしばらく。水が滴りそうなほど重くなった衣に身震いをし、ようやく帰る動きを始めた朱昂の背後に、父は立っていたのだった。
『どういうことだ朱昂』
何とか言葉を出そうとした朱昂の頬を、父が音高く張った。体勢を崩す朱昂の襟を掴み、父は歩き出したのだった。
先を歩く父と朱昂の歩幅には圧倒的な差がある。父の歩く速さについていけない朱昂が足をもつれさせ、前のめりに体勢を崩すと、首の後ろ側を掴んだまま、乱暴に揺すり上げられた。
朱昂の両足が地面から離れて、投げ出されるように着地してまた引きずられる。
「人間などに誑かされて」
私の朱昂。私の朱昂が。
ぶつぶつと呟きながら吸血鬼の王は飛ぶように歩き続ける。朱昂は無言だった。父に乱暴な扱いなど受けたことがない。手を上げられたのも、もののように扱われたのも初めてだ。
揺すられながら歩く内に、着崩れが激しくなってきた。白い腿まで雨に濡れ、胸も外気に晒されている。あまりの衝撃に、朱昂の唇は忙しない息だけを吐く。
やがて、屋敷にたどり着くも、父の手は緩まなかった。親子の異様な足音が無人の回廊に響き渡る。
主が通り過ぎた後、わずかに残っている使用人たちがちらりちらりと顔を出しては、見えぬ振りを装って持ち場へと戻っていく。
真血の主は寝室の扉を開け放つと、息子を寝台に向かって放り投げた。
強く胸を打った朱昂の喉から不穏な水音がもれる。震える足をもつれさせながら寝台を下りようとした朱昂の帯を握りしめ、父親が腹ばいになった朱昂を上から押した。
手のひらを通じて父の全体重を受けた朱昂は、背骨が折れそうな痛みに首をのけぞらせて叫んだ。
風切り音に似た高い音が朱昂の白い喉を震わせ、押し出された涙が紅い瞳からこぼれ落ちる。
「なぜ父に反することばかりをするのだ、朱昂!」
父の恫喝を聞いた瞬間、折れかけていた朱昂の心に火がついた。断じて、これの思い通りにはならぬと、圧倒的な力の下で朱昂は歯を食いしばる。
「なぜ、だと……?」
骨がくっきりと浮かぶほど敷布を握りしめた朱昂は、恐怖と怒りが混ざり合った瞳を父親に向けた。
父の、縦に伸びた瞳孔が、息子を見て一瞬怯みを見せるも、次の瞬間には息子に乗り上げる勢いで体重をかける。
燃えるような腰の痛みに、朱昂は破れそうなほど唇を噛んだ。真血は父の暴力で負った傷も瞬時に癒やしていくが、痛みだけは取り除けない。
額を敷布につけて必死に呼吸しては、首を巡らせて父を睨みつける。
「何だその目は」
真血の主は、空いた手で頭を抱えた。顔色は青ざめ、朱昂の視線を受けながら首を何度も横に振る。
「どこで覚えたのだ!いつからそんな目をするようになった!どうして、どうしてっ!」
立て続けに絶叫した血王から、ふと表情が抜け落ちる。
「――そうか」
何も映していない人形のような目。それが発した呟きに、つきりと朱昂の背が冷たく痺れた
無表情の父は両手を朱昂の上に置き、骨が軋むほど強く押す。
朱昂は息が吸えず、喉元だけ空気を行き来させる浅い呼吸を繰り返す。
「下界のものなど口にしたから人間に染められたのだ。悪いものを食わせ続けた……そうか、そうかぁ」
紅い瞳に憐れみがいっぱいになる。下がる眉は悲痛を表していたが、口元は喜悦満面であった。
「なんて可哀想なことを……、気づかなかった父を許しておくれ、朱昂。そうだよな、あれだけ成長の早い生き物が食うものを口にしておれば、早く成長するはずだわ」
奇妙なことを言う父親の下で、朱昂は苦しみにのたうつ。血王の言は全く事実を表わしていない。朱昂の成長は早いどころか、遅かった。
父はまた都合のいい妄想をして、自分が傷つかない世界に逃げ込もうとしている。
ただ一人、現実に取り残される朱昂は、空気を求めて赤く腫れた唇を大きく開く。
「あぁ、いっそ真血だけで育てれば良かった。これからはそうしてあげようなぁ。そうすれば心が毒されることもない。邪悪なものに染められることなどないぞ。せ、成長も、平常に戻るなぁ、きっと。きっとそうだ。間に合う、間に合うぞ。良かったぁ」
何かに感謝するように天を仰ぐ血王は、息子の帯をようやく離し、激しく咳き込む愛児を力一杯抱きしめる。
「決して可愛いお前を彼奴等に渡したりはしない。朱昂は耐えられない。こんなに小さくて可愛い朱昂が、あの閨房など耐えられるはずもない。大丈夫。大丈夫だよ、朱昂。父の真血を飲んでいれば、決して奴等に毒されたりはしないぞ。大丈夫、ハハ、良かった、大丈夫だきっと、きっと、ハハハ、朱昂、朱昂、アハハハハハ」
「父上、さま……」
父の精神が、まるで地滑りのように崩壊していくのを、朱昂は震える腕の中で逃げ場もなく見つめることになった。
――壊れてしまった……。
吸血族によって長年浸食されていた父の心。それを決定的に壊したのが自分であることを、朱昂はその時雷に打たれたように悟った。
子を得るために父は陵辱を受け、その結果生まれた息子への愛故に、愚かな行いを繰り返したのだ。そしてたった十年の間、密かに人間の友を作っていたことが、これほどまでに父を打ちのめした。
父の狂気の原因を辿れば全て自分に行き着く。そのことに、深い哀しみを抱くのは初めてだった。
朱昂を満たしていた怒りと恐怖が、まるで霧が晴れるように心からの憐れみへと姿を変える。
朱昂は認めなければならなかった。自分が父を愛していることを。そして、父を救う術はほぼ残されていないということを。
――あぁ、この世界にあるにはこの方は弱すぎた。
自死ではだめなのだ。朱昂を失い、完全に狂った父は再び種馬にさせられるだろう。それでは苦しみが増すだけだ。
苦しみを絶つ方法は、もう、これしかない。
――この朱昂が、弑してさしあげる。
朱昂は父の背に腕を回す。雨が降り出した頃からずっと自分を見ていたのだろうか、ぐっしょりと濡れた衣に包まれた父は、暁之に比べれば悲しいほど冷たかった。
「父上様」
「大丈夫、大丈夫……」
親子が冷たい頬をすり合わせる。朱昂の涙を震える唇が吸った。
「大丈夫だ、朱昂。愛している」
朱昂は小さく頷いた。
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