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第一章 暁を之(ゆ)く少年
第五話 愛憎、暴露(1)
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夕食を一口咀嚼した朱昂は、袖で口元を覆った。舌の上が痺れる感じがする。懐紙に吐きだし、包んだそれをそっと脇に置いた。
流れる冷や汗をそのままに水を飲む。しばらくしてのぼってきたえぐ味の強い匂いに、思わずぎゅっと目を瞑った。
屋敷の奥から聞こえてくる悲鳴は、どんどんと年少のものへと変わっていた。大人の声は少年へ、舌足らずな幼児が泣き叫ぶ声は赤子の泣き声に。やがて若い女のものに変わった。
――大人になるな。大人になるんじゃない。
腹を裂かれる女の断末魔を聞きながら、胎児の血で作られた毒に朱昂はえずく。
父の興味は自死から朱昂を幼体のまま留めることへと完全に移行していた。
どんなに毒を浴びようとも真血は不完全ながらも父を癒してしまう。血王は真血の霊力を上回る毒を見つけることを諦めたのだ。
いや、正確に言えば諦めきったのではない。ただ、真血を超える毒を見つける前に、息子が成体になってしまうことを、父は恐れたのだった。
永遠に幼いままの愛し子を胸に抱いて、親子もろとも毒を飲み、美しい姿のまま冥府に向かうのが父の本望なのだと、朱昂は聞かずとも分かっていた。
跡取りである自分を作るために、父がどんな目にあったのか。誰もが口を閉ざす分、想像は深くなった。誇り高い秘蹟の精神を破壊しつくすほどの凌辱は、朱昂にいつか訪れる未来だった。
そうはさせじと妊婦の腹を裂く父を突き動かしているのは、まぎれもなく息子への愛だ。しかし、朱昂は御免だった。
笑い方も知らぬ父の人形になることも、下卑た吸血族の種馬になることも、どちらも想像するだけで気が狂いそうになる。
――俺は、狂うわけにはいかない。
水を飲み干して呼吸を整えた朱昂は、箸でつまんだ“夕食”に鼻を寄せる。毒が入っていないものはない。少しでも薄いところを探り、舌に乗せる。
うっすらと涙を浮かべながら何度も何度も飲み下した。己に流れる未熟な真血がきっと癒してくれることを願って。
夜更け。
朱昂は暗闇の中で、息を殺していた。不規則な足音が近づいてくる。沓の底が床をわずかに引きずる音が朱昂の小さな耳に届いた。思わず布団を鼻のあたりまで引き上げる。足音が一際大きくなり、止まった。
一瞬の間の後、扉の蝶番が軋む。灯りが入りこんでくる直前、朱昂はまぶたを下ろした。
父の左足の動きが悪くなったのは最近だ。ほんのわずか足音が左右でずれる。
硬くなった足を前に動かすため、腰に無理な力が入っている。改善を試みれば、まだまだ健康に歩けるだろうが、父のことだ、三十年もすれば杖が必要になるだろう。
もしかしたら、その半分の時間しか二本の足では歩けないかもしれない。
真血の主は息子の枕元まで近寄って、幼い寝顔をじっと見つめている。朱昂が生まれて八十年あまり、父が毎日続けていることだった。
眠る時まできちんと頭の上で結った髪を、父が不意に解いた。柔らかく、先になるにつれうねるような癖を持った黒髪を、丁寧に手ぐしでほぐす。
壊れ物に触れるように、後頭部に手のひらを当てた父は、強いて深い呼吸を繰り返す朱昂を無言で見つめていた。
虫唾が走るのと同時に、甘い気持ちが湧いてくることを朱昂は止められなかった。
父に対する甘苦い想いが朱昂を常に苦しめる。
優しくされれば、愛おしいとなでられれば、朱昂とて父を許せるのでは、もしや親父が俺の成長を喜んでくれるかもしれないと期待してしまう。
期待が膨らむだけ、朱昂の絶望は深くなる。
やがて無言のまま吸血鬼の王はきびすを返した。ゆっくりと寝所に向かう父に安堵して、普段ならば眠りに落ちる朱昂だったが、今夜に限ってそうする気はなかった。
息子が紅い目を見せているとも知らずに、王は子ども部屋を出て行ったのだった。
流れる冷や汗をそのままに水を飲む。しばらくしてのぼってきたえぐ味の強い匂いに、思わずぎゅっと目を瞑った。
屋敷の奥から聞こえてくる悲鳴は、どんどんと年少のものへと変わっていた。大人の声は少年へ、舌足らずな幼児が泣き叫ぶ声は赤子の泣き声に。やがて若い女のものに変わった。
――大人になるな。大人になるんじゃない。
腹を裂かれる女の断末魔を聞きながら、胎児の血で作られた毒に朱昂はえずく。
父の興味は自死から朱昂を幼体のまま留めることへと完全に移行していた。
どんなに毒を浴びようとも真血は不完全ながらも父を癒してしまう。血王は真血の霊力を上回る毒を見つけることを諦めたのだ。
いや、正確に言えば諦めきったのではない。ただ、真血を超える毒を見つける前に、息子が成体になってしまうことを、父は恐れたのだった。
永遠に幼いままの愛し子を胸に抱いて、親子もろとも毒を飲み、美しい姿のまま冥府に向かうのが父の本望なのだと、朱昂は聞かずとも分かっていた。
跡取りである自分を作るために、父がどんな目にあったのか。誰もが口を閉ざす分、想像は深くなった。誇り高い秘蹟の精神を破壊しつくすほどの凌辱は、朱昂にいつか訪れる未来だった。
そうはさせじと妊婦の腹を裂く父を突き動かしているのは、まぎれもなく息子への愛だ。しかし、朱昂は御免だった。
笑い方も知らぬ父の人形になることも、下卑た吸血族の種馬になることも、どちらも想像するだけで気が狂いそうになる。
――俺は、狂うわけにはいかない。
水を飲み干して呼吸を整えた朱昂は、箸でつまんだ“夕食”に鼻を寄せる。毒が入っていないものはない。少しでも薄いところを探り、舌に乗せる。
うっすらと涙を浮かべながら何度も何度も飲み下した。己に流れる未熟な真血がきっと癒してくれることを願って。
夜更け。
朱昂は暗闇の中で、息を殺していた。不規則な足音が近づいてくる。沓の底が床をわずかに引きずる音が朱昂の小さな耳に届いた。思わず布団を鼻のあたりまで引き上げる。足音が一際大きくなり、止まった。
一瞬の間の後、扉の蝶番が軋む。灯りが入りこんでくる直前、朱昂はまぶたを下ろした。
父の左足の動きが悪くなったのは最近だ。ほんのわずか足音が左右でずれる。
硬くなった足を前に動かすため、腰に無理な力が入っている。改善を試みれば、まだまだ健康に歩けるだろうが、父のことだ、三十年もすれば杖が必要になるだろう。
もしかしたら、その半分の時間しか二本の足では歩けないかもしれない。
真血の主は息子の枕元まで近寄って、幼い寝顔をじっと見つめている。朱昂が生まれて八十年あまり、父が毎日続けていることだった。
眠る時まできちんと頭の上で結った髪を、父が不意に解いた。柔らかく、先になるにつれうねるような癖を持った黒髪を、丁寧に手ぐしでほぐす。
壊れ物に触れるように、後頭部に手のひらを当てた父は、強いて深い呼吸を繰り返す朱昂を無言で見つめていた。
虫唾が走るのと同時に、甘い気持ちが湧いてくることを朱昂は止められなかった。
父に対する甘苦い想いが朱昂を常に苦しめる。
優しくされれば、愛おしいとなでられれば、朱昂とて父を許せるのでは、もしや親父が俺の成長を喜んでくれるかもしれないと期待してしまう。
期待が膨らむだけ、朱昂の絶望は深くなる。
やがて無言のまま吸血鬼の王はきびすを返した。ゆっくりと寝所に向かう父に安堵して、普段ならば眠りに落ちる朱昂だったが、今夜に限ってそうする気はなかった。
息子が紅い目を見せているとも知らずに、王は子ども部屋を出て行ったのだった。
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