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第一章 暁を之(ゆ)く少年
第一話 賢明なる王子(1)
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水っぽい悲鳴に、少年は瞬きをした。
朱昂は細長い卓の端に座って、箸の先を眺める。摘んだのは赤い卵色のだ円。
紅い目を見開いてしげしげと見つめた後、豆を口に運ぶ。
――大丈夫。穢れていない。
青菜を出汁で煮込んだものに箸を入れる。匂いを嗅ぐ。胡椒の香りの奥底から甘い青菜の匂いがする。
もぐ。
口に運んで目を細める。
――これも大丈夫。
小魚を揚げた物が二尾。白木耳の羹。白飯。
慎重に慎重を重ねて食事を進める少年の横で、疲れた顔の給仕が小さくないため息を吐く。
もぐ。もぐ。もぐもぐ。
悲鳴は断続的に続いている。
それが発される場から何枚もの壁や扉を隔てた先で、少年は夕食を矯めつ眇めつし、匂いを嗅ぎながら一心不乱に口に放り込んでいく。咀嚼する。
今日は騙されない。俺は騙されない。狂気がその所作に宿っていた。
――バタン!
すぐ近くで聞こえた扉の音に、少年は前のめりになっていた上体を戻し、箸を揃えて膳の脇に置いた。
両手は閉じられた膝の上に置く。
硬質な沓の音。高価な黒衣が袖を振るわれるたびに風を切る優美な音。
少年は背筋を伸ばしたまま心もち目を落す。目の前の夕食は六割方腹に収まった。
――揚げ魚が一尾残っているけど、しょうがないか。
朱昂の真後ろで沓音が止まった。
「朱昂」
この男は朱昂と名を呼ぶ度に語尾が上がる。
朱昂?どうしたの?と問いかけるように。少年がいつも困りごとを抱えていると知っているかのように。
あるいは、少年の全ての行動を逐一問いただすように。
「父上様」
父が名を呼んだきり動かないので、無礼を承知で朱昂は後ろをかえり見た。
顎の線に沿って美々しく整えられた髭。高い鼻は秀でた額へと続き、黒髪は額を犯すことなく頭上でまとめられている。
柳眉の下には、朱昂とは相反する酷薄そうな細い目があった。本当に親子だろうかと疑いたくなるが、鋭いまぶたの中の紅眼だけはぬらぬらと血よりも濃く光っていて、朱昂との血の繋がりを証明している。
これ以上なき父子の証。脈々と受け継がれる呪われた血。
「続けなさい、朱昂」
「いいえ、父上様。お腹、いっぱいです」
そうか。
愛息の健気な返答に、表情筋と皮膚の動きが繋がらない、歪な笑顔を浮かべるかと思いきや、父は椅子の背もたれ越しに、息子に覆いかぶさるようにして箸をとった。
「もう一口、二口お食べ。あまり小食なのも体を壊すよ」
「はい。父上様」
いや、近寄らないで、と朱昂の心は冷静に呟いていた。
少年は猫のような目を細めて頬を持ち上げた。「若君の愛らしい微笑み」を父は見ていない。
父の指は震えていた。危うい手つきで魚を解し、息子の桜色の唇に運ぶ。
緩慢な箸の進みを見ていられなくなった朱昂は、前のめりになって自ら箸に食いついた。途端、血の匂いが鼻腔を満たす。
――匂いすぎる。
我らは吸血鬼だ。しかし、この指から漂う血の匂いはどうだろう。耐えられない。
めまいを覚えると同時に、耳の奥に潜んでいた、水音の混じった悲鳴が朱昂の脳を揺らす。
――吐きそう。
父が与える餌を食べきった朱昂は、丁寧に口を拭いて席を立った。
「ありがとうございます。父上様」
頭を下げ、それでは、と父王の前から辞そうとした朱昂は、しかし甘やかな低音に呼び止められた。
声だけは美しいな、と心の中で舌打ちをした朱昂が振り返る。
「どこに行く?」
「お外へ散歩に行こうかと」
行くなと言われるかなと、思いながらも朱昂は素直に答えた。
今日の散歩を禁じられても別に困らない。外に出たいと懇願したりはしない。
――脅迫はするけどな。
薄く微笑む息子を前にして、真血の主は椅子に座ると常に卓上に置いてある玉杯を引き寄せた。
良く研いだ小刀を手首に滑らせる。傷口が塞がるまで、杯の中に万能の妙薬を落す。
「行く前にお飲み」
吸血鬼を称する者なら、いや吸血鬼でなくとも魔族であれば、「真血をお飲み」という誘いはそれだけで絶頂に値する言葉だろう。
特に、癒えぬ病や怪我を抱える者であればなおさらだ。
しかし、その身に真血を宿す少年は、父に分からぬ程度に眉をひそめた。
穢れた真血など、口にしたくない。
その震える指を見よ。自らの震えすら分からぬかと朱昂は叫びたくなる。
真血が癒せぬほどに毒を喰らった父の血など、真血と呼べるだろうか。
そもそも真血それそのものを憎んでいるくせに、朱昂可愛いや、大事大事と囁きながら、どうして俺にその憎い血を飲ませたがるのだろう。理解に苦しむ。
「頂きます」
少年は玉杯をあおった。匂いを嗅がぬよう息を止めて飲み下す。
父は息子の白い顎に親指を添えた。
親の意に応えて朱昂が口を開く。
以前、朱昂が真血を飲んだ振りをして吐きだしているところを父の侍従に見られたのである。
それからというもの、朱昂が飲んだかどうか、口を開けさせて確認するようになった。しかし、一口分で下手をすれば家が立つほど、いや、それよりも貴いと謳われる真血を吐きだしていたこと自体を、咎められることはなかった。
ただ黙って口を開かせるだけだ。
真血の価値を知らぬ息子の無礼を許したのではないことを、朱昂は知っていた。
ただただ、自分が拒否された理由を聞きたくないの一点だろうことを。
吸血族の王であるというのに、魔境にその名を知られる真血の主であるというのに、生まれる時期を誤ったが故に、真血の詰まった袋兼真血を継がす種馬としてのみ価値を見出され、同族から軟禁され迫害された父を、蔑みながらも朱昂は憐れんでいた。
――可哀想な父上様。この男には俺しかいない。
そして、俺にはこの男しか――
そう。魔境を離れ人間界に籠り、怪しげな生物実験を繰り返してはせっせと身を滅ぼす毒を作り、じゃぶじゃぶと浴びるように毒を飲んでいる父のお陰で、朱昂は吸血族の神聖なる種馬としての教育から離れられた。
ただ逃げ隠れをする惰弱な父の影で、ひっそりと育てられている自分はもっと弱い。
それなのに父は繰り返す。
――大きくなるな。大きくなるんじゃない、朱昂。
弱いままでおいでと、朱昂が物心ついた頃から父は繰り返し言って聞かせた。
背が伸びる度、目方が増える度にため息をつかれ、目立って成長を見せれば食を減らされた。
「飲んだね。さあいってらっしゃい」
「はい。父上様」
父は笑い方が分からない。顔を引きつらせた父に朱昂は深々と頭を下げて背を向けた。
早くくたばれと小声で呟いたのを、父は聞いただろうか。
扉が閉まる音を聞きながら、朱昂はくつくつと喉を鳴らして笑った。
朱昂は細長い卓の端に座って、箸の先を眺める。摘んだのは赤い卵色のだ円。
紅い目を見開いてしげしげと見つめた後、豆を口に運ぶ。
――大丈夫。穢れていない。
青菜を出汁で煮込んだものに箸を入れる。匂いを嗅ぐ。胡椒の香りの奥底から甘い青菜の匂いがする。
もぐ。
口に運んで目を細める。
――これも大丈夫。
小魚を揚げた物が二尾。白木耳の羹。白飯。
慎重に慎重を重ねて食事を進める少年の横で、疲れた顔の給仕が小さくないため息を吐く。
もぐ。もぐ。もぐもぐ。
悲鳴は断続的に続いている。
それが発される場から何枚もの壁や扉を隔てた先で、少年は夕食を矯めつ眇めつし、匂いを嗅ぎながら一心不乱に口に放り込んでいく。咀嚼する。
今日は騙されない。俺は騙されない。狂気がその所作に宿っていた。
――バタン!
すぐ近くで聞こえた扉の音に、少年は前のめりになっていた上体を戻し、箸を揃えて膳の脇に置いた。
両手は閉じられた膝の上に置く。
硬質な沓の音。高価な黒衣が袖を振るわれるたびに風を切る優美な音。
少年は背筋を伸ばしたまま心もち目を落す。目の前の夕食は六割方腹に収まった。
――揚げ魚が一尾残っているけど、しょうがないか。
朱昂の真後ろで沓音が止まった。
「朱昂」
この男は朱昂と名を呼ぶ度に語尾が上がる。
朱昂?どうしたの?と問いかけるように。少年がいつも困りごとを抱えていると知っているかのように。
あるいは、少年の全ての行動を逐一問いただすように。
「父上様」
父が名を呼んだきり動かないので、無礼を承知で朱昂は後ろをかえり見た。
顎の線に沿って美々しく整えられた髭。高い鼻は秀でた額へと続き、黒髪は額を犯すことなく頭上でまとめられている。
柳眉の下には、朱昂とは相反する酷薄そうな細い目があった。本当に親子だろうかと疑いたくなるが、鋭いまぶたの中の紅眼だけはぬらぬらと血よりも濃く光っていて、朱昂との血の繋がりを証明している。
これ以上なき父子の証。脈々と受け継がれる呪われた血。
「続けなさい、朱昂」
「いいえ、父上様。お腹、いっぱいです」
そうか。
愛息の健気な返答に、表情筋と皮膚の動きが繋がらない、歪な笑顔を浮かべるかと思いきや、父は椅子の背もたれ越しに、息子に覆いかぶさるようにして箸をとった。
「もう一口、二口お食べ。あまり小食なのも体を壊すよ」
「はい。父上様」
いや、近寄らないで、と朱昂の心は冷静に呟いていた。
少年は猫のような目を細めて頬を持ち上げた。「若君の愛らしい微笑み」を父は見ていない。
父の指は震えていた。危うい手つきで魚を解し、息子の桜色の唇に運ぶ。
緩慢な箸の進みを見ていられなくなった朱昂は、前のめりになって自ら箸に食いついた。途端、血の匂いが鼻腔を満たす。
――匂いすぎる。
我らは吸血鬼だ。しかし、この指から漂う血の匂いはどうだろう。耐えられない。
めまいを覚えると同時に、耳の奥に潜んでいた、水音の混じった悲鳴が朱昂の脳を揺らす。
――吐きそう。
父が与える餌を食べきった朱昂は、丁寧に口を拭いて席を立った。
「ありがとうございます。父上様」
頭を下げ、それでは、と父王の前から辞そうとした朱昂は、しかし甘やかな低音に呼び止められた。
声だけは美しいな、と心の中で舌打ちをした朱昂が振り返る。
「どこに行く?」
「お外へ散歩に行こうかと」
行くなと言われるかなと、思いながらも朱昂は素直に答えた。
今日の散歩を禁じられても別に困らない。外に出たいと懇願したりはしない。
――脅迫はするけどな。
薄く微笑む息子を前にして、真血の主は椅子に座ると常に卓上に置いてある玉杯を引き寄せた。
良く研いだ小刀を手首に滑らせる。傷口が塞がるまで、杯の中に万能の妙薬を落す。
「行く前にお飲み」
吸血鬼を称する者なら、いや吸血鬼でなくとも魔族であれば、「真血をお飲み」という誘いはそれだけで絶頂に値する言葉だろう。
特に、癒えぬ病や怪我を抱える者であればなおさらだ。
しかし、その身に真血を宿す少年は、父に分からぬ程度に眉をひそめた。
穢れた真血など、口にしたくない。
その震える指を見よ。自らの震えすら分からぬかと朱昂は叫びたくなる。
真血が癒せぬほどに毒を喰らった父の血など、真血と呼べるだろうか。
そもそも真血それそのものを憎んでいるくせに、朱昂可愛いや、大事大事と囁きながら、どうして俺にその憎い血を飲ませたがるのだろう。理解に苦しむ。
「頂きます」
少年は玉杯をあおった。匂いを嗅がぬよう息を止めて飲み下す。
父は息子の白い顎に親指を添えた。
親の意に応えて朱昂が口を開く。
以前、朱昂が真血を飲んだ振りをして吐きだしているところを父の侍従に見られたのである。
それからというもの、朱昂が飲んだかどうか、口を開けさせて確認するようになった。しかし、一口分で下手をすれば家が立つほど、いや、それよりも貴いと謳われる真血を吐きだしていたこと自体を、咎められることはなかった。
ただ黙って口を開かせるだけだ。
真血の価値を知らぬ息子の無礼を許したのではないことを、朱昂は知っていた。
ただただ、自分が拒否された理由を聞きたくないの一点だろうことを。
吸血族の王であるというのに、魔境にその名を知られる真血の主であるというのに、生まれる時期を誤ったが故に、真血の詰まった袋兼真血を継がす種馬としてのみ価値を見出され、同族から軟禁され迫害された父を、蔑みながらも朱昂は憐れんでいた。
――可哀想な父上様。この男には俺しかいない。
そして、俺にはこの男しか――
そう。魔境を離れ人間界に籠り、怪しげな生物実験を繰り返してはせっせと身を滅ぼす毒を作り、じゃぶじゃぶと浴びるように毒を飲んでいる父のお陰で、朱昂は吸血族の神聖なる種馬としての教育から離れられた。
ただ逃げ隠れをする惰弱な父の影で、ひっそりと育てられている自分はもっと弱い。
それなのに父は繰り返す。
――大きくなるな。大きくなるんじゃない、朱昂。
弱いままでおいでと、朱昂が物心ついた頃から父は繰り返し言って聞かせた。
背が伸びる度、目方が増える度にため息をつかれ、目立って成長を見せれば食を減らされた。
「飲んだね。さあいってらっしゃい」
「はい。父上様」
父は笑い方が分からない。顔を引きつらせた父に朱昂は深々と頭を下げて背を向けた。
早くくたばれと小声で呟いたのを、父は聞いただろうか。
扉が閉まる音を聞きながら、朱昂はくつくつと喉を鳴らして笑った。
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