48 / 52
第十九話 彼の名を叫べ(2)
しおりを挟む
ざぶりと冷たい水の中に入った感覚だった。全てがあやふやになる。自分がどこかも月鳴がどこかも分からない。
(朱昂!)
(龍の血を浴び過ぎた。離れるぞ)
ものすごく遠くから二人の声が聞こえる。どこにいるのだろう。
パチュン、と音がして、少し頬が熱く感じた。
(しっかりしろ!俺の目を見ろ、魁英!!)
俺の目って、誰の目だ?水の中で必死に目を開けると、紅い目が大きく視界を覆っていた。
紅い目、朱昂様、だ。
(治してやるから気をしっかり持て、目を閉じるなよ)
つっと甘いものを感じた。それで、ここが舌なのだとようやく分かる。朱昂様の目、紅い。
俺を助けてくれたのは、あなたですか?
――怪我は治りますよ。
優しい声。似ているのに、どうしてだろう、少しずつ違う。どうしてだろう。冷たい。寒い。こんなに会いたいのに。どうして違うって思ってしまうんだ。
――困ったときは、名前を呼んで。
「英龍!!」
パアン。魁英の精神を覆っていた膜が弾けた。この声。
起き上がろうとするが、体が動かない。唯一動く首を必死に動かし、名前を呼ぶ人を探す。
「英龍、私たちを許してください。いえ、許さないで」
父さんと同じことを言っている。黒くて長い髪、大きな灰色の目。英龍と呼ぶ声。
「かあさん」
はらはらと涙を流している母が、首を横に振った。
「違うの。私は、私はあなたの」
その時、白々と朝日が昇るその方角、丁度龍女や月鳴、朱昂のはるか後方に、ぽつんと立つ人影があった。
ぼろぼろになった笠が地に落ちる。白い顔に光る三つの目。小柄な男が腕を上げると、その足元に横たわっていた龍王の体が、ゆっくりと起き上がった。開かれた口も目も血が流れた跡が生々しい。
魁英はその時悟った。どうして異形の数が多かったのか。朱昂の屋敷でも、拷問を受けている間も、その後も。払っても払っても黒雲のように現れたのか。
――この笠男、もしかして死体を操れるんじゃ。
気づいた時には、龍王の体が身を低くして走り始めていた。朱昂も月鳴も、背を向けていて気づいていない。動きたいが体が動かない。そもそも龍族の体に俺の拳は当たらない。
どうしよう。殺されてしまう。朱昂も、月鳴も――母も。また救えない。
『困ったら、名前をお呼びなさい』
紅い目の青年との約束。
そうだった。家においでと言われたけれど、ついて行かなかったんだ。だって俺に関わるとみんな死んでしまうから。それはもう、分かっていたから。
何度も家においでと言われたけれど、絶対に行けなくて。だからあの人は困った顔をしてから言ったんだ。
『いいですか、英龍。困ったことがあったら私の名前を呼びなさい。いいですね、私の名前は――』
何だったろう。何だ。土に書いてくれたではないか。忘れないように、書いて教えてくれた。
土砂崩れ、雨、土の匂い。温かい血。甘い血の匂い。英龍。朱昂。違う。翠の光。黒い血。紅い目。赤い血。朱昂。朱。緋。紅。蒼。藍。碧。青。紫。葵。紺。黒。白。黄。橙。水の中で揺れる花弁。風。木漏れ日。虫。羽音。集めて。交わって。咲いて。気高く。清らかに。豊かに。膨らんで。大望を孕んで――穣る。
龍王の振りかぶった爪が、日に透かされて光を放つのが見えた。頭の中に溢れる言葉が魁英を突き動かす。最後の望みをかけて叫んだ。届いて。彼に。
「助けてくれ!――葵穣!!」
叫んだ瞬間。辺りに染みわたっていた黒い血が集まり、楕円に形を成し、やがて。
それは青年の姿になった。
真っ黒な長い髪が、体が回転するのに合わせて美しく円を描く。白い腕に繋がる優美な手が、龍王の首を掻き切った。飛んだ龍王の首が地に落ちる前に、高く跳躍した青年は一人生き残った雑魔の頭目を蹴り飛ばす。三つ目の雑魔の頭が魁英の傍らに落ちてきた。どしりと、首を失った龍王の体が地に横倒しになる。
「おのれ」
三つ目の生首が、麗しい艶やかな声で呪いを吐いた。
「何世代もかけてお前を作ったのに……呪われろ。お前と、ウリャルさえ、生き返れば、龍ごとき全て根絶やしにしてくれた、のに。口惜しい……ウリャルの棺を見つけながら……」
棺、と魁英は繰り返す。あの、乾いた死体のことだろうか。あれがウリャルの、父の遺体だというなら、それは違う。
「違う」と魁英は呟いていた。
「あれは父さんじゃない。母さんは父さんの体を灰になるまで燃やしたんだから。何日もかけて。それが、最後の約束だからって」
夫の遺体を灰にする傍らで、幼い息子を膝に抱き、大丈夫と繰り返していたのだから。
龍玉の霊気に触れた三つ目の首が崩壊を始める。
「口惜しい。父を食わせ食わせて、親子の共食いの果てにお前がいるのだ。呪われろ。魂の底の底まで、呪われて、しま」
湿気を含んだ風が一陣吹き抜ける。風がやんだ後にはもう何も残っていなかった。
払暁の空に、抱きあう二人の人影がある。二人の足元には壊れた笠が転がっていた。
魁英のすぐそばで朱昂、と呟いたのは月鳴だ。
抱きあうのは朱昂と、青年――葵穣。
「この親不孝者」
ぼそりと朱昂が呟いたのを、魁英の耳が捉えた。
親不孝ってなんだっけ。魁英の意識はその疑問を最後に、途切れた。
(朱昂!)
(龍の血を浴び過ぎた。離れるぞ)
ものすごく遠くから二人の声が聞こえる。どこにいるのだろう。
パチュン、と音がして、少し頬が熱く感じた。
(しっかりしろ!俺の目を見ろ、魁英!!)
俺の目って、誰の目だ?水の中で必死に目を開けると、紅い目が大きく視界を覆っていた。
紅い目、朱昂様、だ。
(治してやるから気をしっかり持て、目を閉じるなよ)
つっと甘いものを感じた。それで、ここが舌なのだとようやく分かる。朱昂様の目、紅い。
俺を助けてくれたのは、あなたですか?
――怪我は治りますよ。
優しい声。似ているのに、どうしてだろう、少しずつ違う。どうしてだろう。冷たい。寒い。こんなに会いたいのに。どうして違うって思ってしまうんだ。
――困ったときは、名前を呼んで。
「英龍!!」
パアン。魁英の精神を覆っていた膜が弾けた。この声。
起き上がろうとするが、体が動かない。唯一動く首を必死に動かし、名前を呼ぶ人を探す。
「英龍、私たちを許してください。いえ、許さないで」
父さんと同じことを言っている。黒くて長い髪、大きな灰色の目。英龍と呼ぶ声。
「かあさん」
はらはらと涙を流している母が、首を横に振った。
「違うの。私は、私はあなたの」
その時、白々と朝日が昇るその方角、丁度龍女や月鳴、朱昂のはるか後方に、ぽつんと立つ人影があった。
ぼろぼろになった笠が地に落ちる。白い顔に光る三つの目。小柄な男が腕を上げると、その足元に横たわっていた龍王の体が、ゆっくりと起き上がった。開かれた口も目も血が流れた跡が生々しい。
魁英はその時悟った。どうして異形の数が多かったのか。朱昂の屋敷でも、拷問を受けている間も、その後も。払っても払っても黒雲のように現れたのか。
――この笠男、もしかして死体を操れるんじゃ。
気づいた時には、龍王の体が身を低くして走り始めていた。朱昂も月鳴も、背を向けていて気づいていない。動きたいが体が動かない。そもそも龍族の体に俺の拳は当たらない。
どうしよう。殺されてしまう。朱昂も、月鳴も――母も。また救えない。
『困ったら、名前をお呼びなさい』
紅い目の青年との約束。
そうだった。家においでと言われたけれど、ついて行かなかったんだ。だって俺に関わるとみんな死んでしまうから。それはもう、分かっていたから。
何度も家においでと言われたけれど、絶対に行けなくて。だからあの人は困った顔をしてから言ったんだ。
『いいですか、英龍。困ったことがあったら私の名前を呼びなさい。いいですね、私の名前は――』
何だったろう。何だ。土に書いてくれたではないか。忘れないように、書いて教えてくれた。
土砂崩れ、雨、土の匂い。温かい血。甘い血の匂い。英龍。朱昂。違う。翠の光。黒い血。紅い目。赤い血。朱昂。朱。緋。紅。蒼。藍。碧。青。紫。葵。紺。黒。白。黄。橙。水の中で揺れる花弁。風。木漏れ日。虫。羽音。集めて。交わって。咲いて。気高く。清らかに。豊かに。膨らんで。大望を孕んで――穣る。
龍王の振りかぶった爪が、日に透かされて光を放つのが見えた。頭の中に溢れる言葉が魁英を突き動かす。最後の望みをかけて叫んだ。届いて。彼に。
「助けてくれ!――葵穣!!」
叫んだ瞬間。辺りに染みわたっていた黒い血が集まり、楕円に形を成し、やがて。
それは青年の姿になった。
真っ黒な長い髪が、体が回転するのに合わせて美しく円を描く。白い腕に繋がる優美な手が、龍王の首を掻き切った。飛んだ龍王の首が地に落ちる前に、高く跳躍した青年は一人生き残った雑魔の頭目を蹴り飛ばす。三つ目の雑魔の頭が魁英の傍らに落ちてきた。どしりと、首を失った龍王の体が地に横倒しになる。
「おのれ」
三つ目の生首が、麗しい艶やかな声で呪いを吐いた。
「何世代もかけてお前を作ったのに……呪われろ。お前と、ウリャルさえ、生き返れば、龍ごとき全て根絶やしにしてくれた、のに。口惜しい……ウリャルの棺を見つけながら……」
棺、と魁英は繰り返す。あの、乾いた死体のことだろうか。あれがウリャルの、父の遺体だというなら、それは違う。
「違う」と魁英は呟いていた。
「あれは父さんじゃない。母さんは父さんの体を灰になるまで燃やしたんだから。何日もかけて。それが、最後の約束だからって」
夫の遺体を灰にする傍らで、幼い息子を膝に抱き、大丈夫と繰り返していたのだから。
龍玉の霊気に触れた三つ目の首が崩壊を始める。
「口惜しい。父を食わせ食わせて、親子の共食いの果てにお前がいるのだ。呪われろ。魂の底の底まで、呪われて、しま」
湿気を含んだ風が一陣吹き抜ける。風がやんだ後にはもう何も残っていなかった。
払暁の空に、抱きあう二人の人影がある。二人の足元には壊れた笠が転がっていた。
魁英のすぐそばで朱昂、と呟いたのは月鳴だ。
抱きあうのは朱昂と、青年――葵穣。
「この親不孝者」
ぼそりと朱昂が呟いたのを、魁英の耳が捉えた。
親不孝ってなんだっけ。魁英の意識はその疑問を最後に、途切れた。
0
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
選択的ぼっちの俺たちは丁度いい距離を模索中!
きよひ
BL
ぼっち無愛想エリート×ぼっちファッションヤンキー
蓮は会話が苦手すぎて、不良のような格好で周りを牽制している高校生だ。
下校中におじいさんを助けたことをきっかけに、その孫でエリート高校生の大和と出会う。
蓮に負けず劣らず無表情で無愛想な大和とはもう関わることはないと思っていたが、一度認識してしまうと下校中に妙に目に入ってくるようになってしまう。
少しずつ接する内に、大和も蓮と同じく意図的に他人と距離をとっているんだと気づいていく。
ひょんなことから大和の服を着る羽目になったり、一緒にバイトすることになったり、大和の部屋で寝ることになったり。
一進一退を繰り返して、二人が少しずつ落ち着く距離を模索していく。
【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集
あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。
こちらの短編集は
絶対支配な攻めが、
快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす
1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。
不定期更新ですが、
1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書きかけの長編が止まってますが、
短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
目が覚めたら、カノジョの兄に迫られていた件
水野七緒
BL
ワケあってクラスメイトの女子と交際中の青野 行春(あおの ゆきはる)。そんな彼が、ある日あわや貞操の危機に。彼を襲ったのは星井夏樹(ほしい なつき)──まさかの、交際中のカノジョの「お兄さん」。だが、どうも様子がおかしくて──
※「目が覚めたら、妹の彼氏とつきあうことになっていた件」の続編(サイドストーリー)です。
※前作を読まなくてもわかるように執筆するつもりですが、前作も読んでいただけると有り難いです。
※エンドは1種類の予定ですが、2種類になるかもしれません。
ヤンデレだらけの短編集
八
BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。
全8話。1日1話更新(20時)。
□ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡
□ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生
□アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫
□ラベンダー:希死念慮不良とおバカ
□デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち
ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。
かなり昔に書いたもので、最近の作品と書き方やテーマが違うと思いますが、楽しんでいただければ嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる