吸血鬼のしもべ

時生

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第十九話 彼の名を叫べ(2)

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 ざぶりと冷たい水の中に入った感覚だった。全てがあやふやになる。自分がどこかも月鳴げつめいがどこかも分からない。

 (朱昂!)
 (龍の血を浴び過ぎた。離れるぞ)

 ものすごく遠くから二人の声が聞こえる。どこにいるのだろう。
 パチュン、と音がして、少し頬が熱く感じた。

 (しっかりしろ!俺の目を見ろ、魁英!!)

 俺の目って、誰の目だ?水の中で必死に目を開けると、紅い目が大きく視界を覆っていた。
 紅い目、朱昂しゅこう様、だ。

 (治してやるから気をしっかり持て、目を閉じるなよ)

 つっと甘いものを感じた。それで、ここが舌なのだとようやく分かる。朱昂様の目、紅い。
 俺を助けてくれたのは、あなたですか?

 ――怪我は治りますよ。

 優しい声。似ているのに、どうしてだろう、少しずつ違う。どうしてだろう。冷たい。寒い。こんなに会いたいのに。どうして違うって思ってしまうんだ。

 ――困ったときは、名前を呼んで。

英龍えいりゅう!!」

 パアン。魁英かいえいの精神を覆っていた膜が弾けた。この声。
 起き上がろうとするが、体が動かない。唯一動く首を必死に動かし、名前を呼ぶ人を探す。

「英龍、私たちを許してください。いえ、許さないで」

 父さんと同じことを言っている。黒くて長い髪、大きな灰色の目。英龍と呼ぶ声。

「かあさん」

 はらはらと涙を流している母が、首を横に振った。

「違うの。私は、私はあなたの」

 その時、白々と朝日が昇るその方角、丁度龍女や月鳴、朱昂のはるか後方に、ぽつんと立つ人影があった。

 ぼろぼろになった笠が地に落ちる。白い顔に光る三つの目。小柄な男が腕を上げると、その足元に横たわっていた龍王の体が、ゆっくりと起き上がった。開かれた口も目も血が流れた跡が生々しい。
 魁英はその時悟った。どうして異形の数が多かったのか。朱昂の屋敷でも、拷問を受けている間も、その後も。払っても払っても黒雲のように現れたのか。

 ――この笠男、もしかして死体を操れるんじゃ。

 気づいた時には、龍王の体が身を低くして走り始めていた。朱昂も月鳴も、背を向けていて気づいていない。動きたいが体が動かない。そもそも龍族の体に俺の拳は当たらない。
 どうしよう。殺されてしまう。朱昂も、月鳴も――母も。また救えない。

『困ったら、名前をお呼びなさい』

 紅い目の青年との約束。

 そうだった。家においでと言われたけれど、ついて行かなかったんだ。だって俺に関わるとみんな死んでしまうから。それはもう、分かっていたから。
 何度も家においでと言われたけれど、絶対に行けなくて。だからあの人は困った顔をしてから言ったんだ。

『いいですか、英龍。困ったことがあったら私の名前を呼びなさい。いいですね、私の名前は――』

 何だったろう。何だ。土に書いてくれたではないか。忘れないように、書いて教えてくれた。

 土砂崩れ、雨、土の匂い。温かい血。甘い血の匂い。英龍。朱昂。違う。翠の光。黒い血。紅い目。赤い血。朱昂。朱。緋。紅。蒼。藍。碧。青。紫。葵。紺。黒。白。黄。橙。水の中で揺れる花弁。風。木漏れ日。虫。羽音。集めて。交わって。咲いて。気高く。清らかに。豊かに。膨らんで。大望を孕んで――みのる。

 龍王の振りかぶった爪が、日に透かされて光を放つのが見えた。頭の中に溢れる言葉が魁英を突き動かす。最後の望みをかけて叫んだ。届いて。彼に。

「助けてくれ!――葵穣きじょう!!」

 叫んだ瞬間。辺りに染みわたっていた黒い血が集まり、楕円に形を成し、やがて。
 それは青年の姿になった。

 真っ黒な長い髪が、体が回転するのに合わせて美しく円を描く。白い腕に繋がる優美な手が、龍王の首を掻き切った。飛んだ龍王の首が地に落ちる前に、高く跳躍した青年は一人生き残った雑魔の頭目を蹴り飛ばす。三つ目の雑魔の頭が魁英の傍らに落ちてきた。どしりと、首を失った龍王の体が地に横倒しになる。

「おのれ」

 三つ目の生首が、麗しい艶やかな声で呪いを吐いた。

「何世代もかけてお前を作ったのに……呪われろ。お前と、ウリャルさえ、生き返れば、龍ごとき全て根絶やしにしてくれた、のに。口惜しい……ウリャルの棺を見つけながら……」

 棺、と魁英は繰り返す。あの、乾いた死体のことだろうか。あれがウリャルの、父の遺体だというなら、それは違う。
「違う」と魁英は呟いていた。

「あれは父さんじゃない。母さんは父さんの体を灰になるまで燃やしたんだから。何日もかけて。それが、最後の約束だからって」

 夫の遺体を灰にする傍らで、幼い息子を膝に抱き、大丈夫と繰り返していたのだから。
 龍玉の霊気に触れた三つ目の首が崩壊を始める。

「口惜しい。父を食わせ食わせて、親子の共食いの果てにお前がいるのだ。呪われろ。魂の底の底まで、呪われて、しま」

 湿気を含んだ風が一陣吹き抜ける。風がやんだ後にはもう何も残っていなかった。

 払暁ふつぎょうの空に、抱きあう二人の人影がある。二人の足元には壊れた笠が転がっていた。
 魁英のすぐそばで朱昂、と呟いたのは月鳴だ。
 抱きあうのは朱昂と、青年――葵穣きじょう

「この親不孝者」

 ぼそりと朱昂が呟いたのを、魁英の耳が捉えた。
 親不孝ってなんだっけ。魁英の意識はその疑問を最後に、途切れた。
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