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第十七話 母との再会(1)
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落下感による眩暈が去った後、目を開いた魁英の視界にはやはり殺戮が渦巻いていた。
全体が刃のように鋭い脚が木々を薙ぎ払い、森を荒らしていく。
六本の脚が空と地平を問わず暴れまわっていた。中心の人影は地に片膝を突き、項垂れている。
魁英の背中は沈黙していた。不思議に平静な気持ちで毒蠱と空に満ちる龍が戦っているのを見つめる。
空の龍は先ほどの比ではなかった。龍の背から放たれる矢が毒蠱の宿主に向けて雨のように降っている。
毒蠱の脚が大半を跳ね除けるが、息継ぐ暇もなく斉射される矢を全て防ぐことはできない。既に毒蠱の中心の人影に、矢が刺さっているのが遠めに見える。そして、また一本が、肩を穿つ。隆々とした体つきから男性だろうということが魁英にも分かった。
肩を過ぎるほどの髪が地面に真っ直ぐに落ち、項垂れた男の横顔を隠している。脚が龍を襲う動きに合わせてがくがくと体は揺れているが、片膝をつく体勢は変わらない。
あの男は死ぬのかな、と魁英は思った。矢傷からは血が流れ落ちている。脚の一本が龍を両断した。だが、動きが鈍い。
もしかしてもう死んでいるのだろうか。
腹を見せ、落ちていく龍に魁英は唇を噛みしめる。
目を逸らした先の空には先ほどよりもずっと高い場所に小さな月が浮かび、その右下の辺りに、一点の黄金がある。金色の龍。戦闘に加わらず、遠くに佇むその背に乗る人物が見えたのが何故か、魁英には分からない。でも分かった。見えたような気がした。
一際大きく見える、緑色がかった長い黒髪。複雑な文様が刻み込まれた長い角。上空の強風に刺繍の施された上衣が靡いている。
月鳴を、突き落とした男。
気づいた瞬間、胸に冷たい水が流れ込んだ気持ちがした。しかし、恐怖や怒りに応えてくれる「背中の熱」が今はない。不思議に、怒りはすぐに魁英を通り抜け、胸が空っぽになったような感覚だけが残る。
龍がまた一頭、地に落ちる音がする。苦しい。悲しい。しかし、それもすぐに小さなもやもやに変わって、消えてしまう。
何も感じられない人形になってしまったようだ。殺戮の及ばない木陰で、魁英が胸を押さえていると、突然、耳が人の声を拾った。
「ウリャル……!!」
遠くでも聞きとれる凛とした声。耳から頭へ伝わる懐かしい声音に、魁英の体が震え、胸が燃えだす。声と同時に走り出てきた姿。翠の裳裾を翻らせ、優美な白絹の袖を靡かせ戦場を駆ける女性は、いつか見た芝居の中の天女のようだった。豊かな黒髪に白く覗く短い角、黒っぽい尾が腰から伸びている。
「ウリャル!!」
宿主の男の体が、びくりと動いた。顔を上げ背後から駆けてくる娘に腕を伸ばそうとし、体勢を崩して地に這いつくばった。毒蠱の脚が蠢く背に何本もの矢が突き刺さる。ウリャルと呼ばれた男が絶叫する。その絶叫に狂うように脚が地を叩きつける。
「ウリャルぅう!」
母が泣きながら男に駆け寄ろうとしている。
いや、あれは母さんなんかじゃない。母さんには角も尾も無い。人間なのだから当然だ。それに身長もあんなに高くなかったはず。あれは、母さんなんかじゃない。
違う部分をいくら探しても、いや、母さんだ、と断定する自分もいる。あれは、母さんだ。
二人の影が近づく。だが、その間に割り込むように空から龍の躯が落ちてきた。振動で地に膝をつく娘は龍を見つめたきり動かない。
その体が、じわじわと翠色に光り始める。
「いや、いや……」
首を振り涙を落とす。その体に矢が迫っていた。ウリャルに向けられた矢が狙いを外し、娘に迫る。
「母さぁあああん!!!!」
魁英が叫んだ瞬間、地面がぐにゃりと揺れ、見えぬ何かに背後へと吹きとばされ、木の幹に叩きつけられる。立ち上がろうにも平衡感覚が狂い、蹲って堪らず嘔吐した。胃液を吐きながら顔を上げた魁英は、有り得ないものを見た。
ウリャルの背中が腰の辺りまで裂け、もう一対、八本の脚が生える。一際大きく、爪が長く禍々しい形状。
噴きだす瘴気に耐えられず、バタバタと銀の龍が地に落ちる。
娘は魁英と同じように後方へと吹きとばされたらしい。少し離れたところでぐったりと地に伏している。同じく腹ばいになったウリャルは全身から真っ黒な血を流していた。
最後の一対が関節を伸ばした時、空は死に包まれた。
*****
殺意の渦に悶える魁英の視界がやはり翠に包まれる。わずかな浮遊感。きっと戻れる。
そう思ったのに、再び見えてきた光景は魁英の予想を裏切るものだった。
室内だ。どこかはすぐに分かった。生まれた家。人間であるはずの両親とともに住んでいた小さな小屋だ。
居間の奥の小部屋は板敷だったのが、部屋の隅の一角だけ土がむき出しになっていた。
その上に横たわる人物がある。全身を包帯で包まれ、筵を掛けられた男。魁英の父だ。筵は血を吸って黒く変色していた。床の板も、長く血を吸ったことで腐ってしまったのだった。
魁英はほとんど父の顔を覚えていない。覚えられるはずがなかった。
魁英は横たわる父の足元に立っている。扉が開き、とことこと入ってくる男の子がいた。男の子はちょっと魁英を見た。どきりとするが、そのまま何食わぬ顔で父に近寄る。
幼い頃の自分だということはすぐに分かった。その証拠に、
「……英、龍」
掠れた声が幼子を呼ぶ。
「爸爸」
パパ、と男の子が嬉しそうに笑いながら、父を真似るように傍らに横になった。包帯の解けたところから覗く、黄色く硬く変色してしまった手が筵から伸びてくる。こめかみをなぞられると黒い血の跡が残るが、幼い英龍は一向に気にした風がない。黒い血が、骨と皮のようになってしまった手を滴り落ちる。
「お父さん、痛いの?」
父が身じろぎをした。何かが伝わったらしい。英龍が、うんと頷いた。口を開いて父の指に吸い付く。こくりと喉が動いた。
――許せよ。……許すなよ。
夢の中で、繰り返し聞いた声。
父が、あの虫の血を俺に飲ませていた。
――ウリャルの仔。
いつの間にか現れた翠の炎が部屋全体を包む。柱を、壁を、床を炎が舐めて、やがて親子の姿も翠に飲みこまれた。一際美しく翠色が燃え上がったかと思うと、辺りはしんとして暗闇に染まった。浮遊感が急速に高まり、やがて静止する。
全体が刃のように鋭い脚が木々を薙ぎ払い、森を荒らしていく。
六本の脚が空と地平を問わず暴れまわっていた。中心の人影は地に片膝を突き、項垂れている。
魁英の背中は沈黙していた。不思議に平静な気持ちで毒蠱と空に満ちる龍が戦っているのを見つめる。
空の龍は先ほどの比ではなかった。龍の背から放たれる矢が毒蠱の宿主に向けて雨のように降っている。
毒蠱の脚が大半を跳ね除けるが、息継ぐ暇もなく斉射される矢を全て防ぐことはできない。既に毒蠱の中心の人影に、矢が刺さっているのが遠めに見える。そして、また一本が、肩を穿つ。隆々とした体つきから男性だろうということが魁英にも分かった。
肩を過ぎるほどの髪が地面に真っ直ぐに落ち、項垂れた男の横顔を隠している。脚が龍を襲う動きに合わせてがくがくと体は揺れているが、片膝をつく体勢は変わらない。
あの男は死ぬのかな、と魁英は思った。矢傷からは血が流れ落ちている。脚の一本が龍を両断した。だが、動きが鈍い。
もしかしてもう死んでいるのだろうか。
腹を見せ、落ちていく龍に魁英は唇を噛みしめる。
目を逸らした先の空には先ほどよりもずっと高い場所に小さな月が浮かび、その右下の辺りに、一点の黄金がある。金色の龍。戦闘に加わらず、遠くに佇むその背に乗る人物が見えたのが何故か、魁英には分からない。でも分かった。見えたような気がした。
一際大きく見える、緑色がかった長い黒髪。複雑な文様が刻み込まれた長い角。上空の強風に刺繍の施された上衣が靡いている。
月鳴を、突き落とした男。
気づいた瞬間、胸に冷たい水が流れ込んだ気持ちがした。しかし、恐怖や怒りに応えてくれる「背中の熱」が今はない。不思議に、怒りはすぐに魁英を通り抜け、胸が空っぽになったような感覚だけが残る。
龍がまた一頭、地に落ちる音がする。苦しい。悲しい。しかし、それもすぐに小さなもやもやに変わって、消えてしまう。
何も感じられない人形になってしまったようだ。殺戮の及ばない木陰で、魁英が胸を押さえていると、突然、耳が人の声を拾った。
「ウリャル……!!」
遠くでも聞きとれる凛とした声。耳から頭へ伝わる懐かしい声音に、魁英の体が震え、胸が燃えだす。声と同時に走り出てきた姿。翠の裳裾を翻らせ、優美な白絹の袖を靡かせ戦場を駆ける女性は、いつか見た芝居の中の天女のようだった。豊かな黒髪に白く覗く短い角、黒っぽい尾が腰から伸びている。
「ウリャル!!」
宿主の男の体が、びくりと動いた。顔を上げ背後から駆けてくる娘に腕を伸ばそうとし、体勢を崩して地に這いつくばった。毒蠱の脚が蠢く背に何本もの矢が突き刺さる。ウリャルと呼ばれた男が絶叫する。その絶叫に狂うように脚が地を叩きつける。
「ウリャルぅう!」
母が泣きながら男に駆け寄ろうとしている。
いや、あれは母さんなんかじゃない。母さんには角も尾も無い。人間なのだから当然だ。それに身長もあんなに高くなかったはず。あれは、母さんなんかじゃない。
違う部分をいくら探しても、いや、母さんだ、と断定する自分もいる。あれは、母さんだ。
二人の影が近づく。だが、その間に割り込むように空から龍の躯が落ちてきた。振動で地に膝をつく娘は龍を見つめたきり動かない。
その体が、じわじわと翠色に光り始める。
「いや、いや……」
首を振り涙を落とす。その体に矢が迫っていた。ウリャルに向けられた矢が狙いを外し、娘に迫る。
「母さぁあああん!!!!」
魁英が叫んだ瞬間、地面がぐにゃりと揺れ、見えぬ何かに背後へと吹きとばされ、木の幹に叩きつけられる。立ち上がろうにも平衡感覚が狂い、蹲って堪らず嘔吐した。胃液を吐きながら顔を上げた魁英は、有り得ないものを見た。
ウリャルの背中が腰の辺りまで裂け、もう一対、八本の脚が生える。一際大きく、爪が長く禍々しい形状。
噴きだす瘴気に耐えられず、バタバタと銀の龍が地に落ちる。
娘は魁英と同じように後方へと吹きとばされたらしい。少し離れたところでぐったりと地に伏している。同じく腹ばいになったウリャルは全身から真っ黒な血を流していた。
最後の一対が関節を伸ばした時、空は死に包まれた。
*****
殺意の渦に悶える魁英の視界がやはり翠に包まれる。わずかな浮遊感。きっと戻れる。
そう思ったのに、再び見えてきた光景は魁英の予想を裏切るものだった。
室内だ。どこかはすぐに分かった。生まれた家。人間であるはずの両親とともに住んでいた小さな小屋だ。
居間の奥の小部屋は板敷だったのが、部屋の隅の一角だけ土がむき出しになっていた。
その上に横たわる人物がある。全身を包帯で包まれ、筵を掛けられた男。魁英の父だ。筵は血を吸って黒く変色していた。床の板も、長く血を吸ったことで腐ってしまったのだった。
魁英はほとんど父の顔を覚えていない。覚えられるはずがなかった。
魁英は横たわる父の足元に立っている。扉が開き、とことこと入ってくる男の子がいた。男の子はちょっと魁英を見た。どきりとするが、そのまま何食わぬ顔で父に近寄る。
幼い頃の自分だということはすぐに分かった。その証拠に、
「……英、龍」
掠れた声が幼子を呼ぶ。
「爸爸」
パパ、と男の子が嬉しそうに笑いながら、父を真似るように傍らに横になった。包帯の解けたところから覗く、黄色く硬く変色してしまった手が筵から伸びてくる。こめかみをなぞられると黒い血の跡が残るが、幼い英龍は一向に気にした風がない。黒い血が、骨と皮のようになってしまった手を滴り落ちる。
「お父さん、痛いの?」
父が身じろぎをした。何かが伝わったらしい。英龍が、うんと頷いた。口を開いて父の指に吸い付く。こくりと喉が動いた。
――許せよ。……許すなよ。
夢の中で、繰り返し聞いた声。
父が、あの虫の血を俺に飲ませていた。
――ウリャルの仔。
いつの間にか現れた翠の炎が部屋全体を包む。柱を、壁を、床を炎が舐めて、やがて親子の姿も翠に飲みこまれた。一際美しく翠色が燃え上がったかと思うと、辺りはしんとして暗闇に染まった。浮遊感が急速に高まり、やがて静止する。
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