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第十六話 届かぬ指先(1)
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じわじわと血が藁に染みこんでいく。皺の寄った指が持ち上がる。爪の伸びた黄色い指に、真っ黒な雫が伝い落ちる。また一滴、また一滴。
――舐めろ、英……。
掠れた声。舌を伸ばし、苦い雫を舐める。
――許せよ。……許すなよ。
相反する言葉を一呼吸ごとに投げかけられる。意味も分からず硬い指に撫でられていた。
音がする。雫が落ちる。一滴、また一滴。雫が――。
*****
はっと魁英は目を開けた。不思議な過去の幻影を見た後、わずかだが眠ってしまっていたらしい。変な夢だった。やけに音が生々しい夢。眠気に目を瞬かせていると、一滴、びちりと背中を打つものがある。夢と符合する感覚にぎょっと起き上がろうとして、背中の痛みが消えていることに気がついた。
「――?」
そろそろと起き上がって腰を液体が伝う感覚に鳥肌を立てながら、背中を探ると、広範囲に濡れていた。手を見ると真っ赤だ。
ぴとり、と鼻先を掠めるものがある。石の床に一点の赤。天井を見た途端、また赤い雫が落ちてきた。恐る恐る手を濡らすものに鼻を寄せると甘い匂いがする。舐めると濃い甘さを感じて目を見開いた。月鳴や朱昂の味と似ている。
――真血は怪我や病気を治すんだ。
子躍の言葉が蘇る。真血が背中の傷を癒したのか。でも、どうして真血があるのだろう。朱昂が上にいるのか。ドキン。拍動が強くなる。朱昂がいるならば、きっと月鳴も――。
魁英は雫の落ちてくる天井の一点を見つめる。ただの石組みの天井だが、きっと緩くなっているはずだ。何とか壊せないか。いや、壊してやる。
跳び上がって拳を打ちつけてやろうと膝を屈めた瞬間、夜の静寂を切り裂き揺さぶり上げるような咆哮が魁英を襲った。
聞こえたのではない、それは衝撃波のように魁英のいる牢を揺らした。壁や床の石のひとつひとつが振動するようだった
バラバラと天井から砂が落ちてくることにぎょっとして角まで逃げると、すぐに天井が崩れ落ちる。重い物が落ちてくる音に続いて、砂や土、ほこりで視界が灰色に染まる。口を覆い、目をぎゅっと閉じた。砂埃が目に入ってごろごろする。じっと息を殺している間も頭上からは絶え間なく、衝撃音が続いている。先ほどよりは小さく、遠い。
息を抑えるのも限界で、咳き込みながら目を開けると、床に山積みの砕けた石の上に、妙なものが二つあった。
「何だよ、これ」
一つは棺だ。人が一人入る大きさの縦長の箱。それと、巨大な紅い岩。二人の大人が手を繋いで囲むくらいの大きさがある。ぬめり気味に光を白く反射していた。岩には鎖が巻かれ、落下の衝撃のためか大きく縦横にひびが入っている。
魁英が目の前の光景に動けずにいると、不安定な石の山の上から突然棺が魁英の足元へと滑り落ちてきた。棺は牢の壁にぶつかると、はずみで蓋が落ち、横倒しになった。中のものが滑り出てくる。それを見た瞬間、魁英はぎゃっと叫びながら石の山を駆けあがった。
出てきたのは干からびた死体だった。人の死体なのかは分からない。白骨ではなく、乾ききった皮膚が灰色に変色し、まるで分厚い蜘蛛の巣が張っているようにぼろぼろと全身を覆っている。顎はまるで絶叫するように上下に開かれていた。
抜けそうな腰を叱咤して山を駆けのぼる。つま先で踏んだ石が滑り、派手に膝を砕けた石の山に打ち付けた。
「うぐ……」
まるで転んだ衝撃が伝わったかのように、目の前の岩の亀裂が深くなる。やがて、岩を突き破って飛び出したのは、生白い脚だった。
ずるずると赤い粘液がまとわりつく二本の裸の足が岩の下部から這うように出てくる。それに応じて赤い粘液が辺りに染みだしてきた。
背後には死体。目の前には同じく死んだように白い足。進退極まった魁英の石の山を掴む手にも、粘液がじわじわと迫り、皮膚をなぶる。温かい。恐怖で動けない魁英の傷ついた膝にもそれが到達し、じゅわりと傷口に入り込むような感覚に、魁英の腰が跳ねた。
「うあっ」
思わずかん高い声を上げた魁英は、急に痛みの引いた傷口を見ると擦り傷が綺麗に消えていた。
――真血。
理解した瞬間、膝から首元まで甘い痺れが走った。覚えのある感覚に抵抗する間もなく、ハア、と甘い息が零れた。だらだらと唾液が湧く。
――まズい。血、ホしい。ホシイ。血。白いアシ食べる。美味しそウナアシタベタイ。
誘惑に逆らえず、魁英はそっと舌を伸ばした。尖らせた舌の先が白いつま先をちろりと舐め、やがて指全体にしゃぶりつく。足の裏を舐め、真血にまみれた足の甲を清めていく。ひくん。とつま先が震えた。その瞬間、美しい筋の浮いたふくらはぎに、魁英は堪らず牙を埋めた。足が持ち上がるのを抑えつける。
離さぬとでもいうように、もう片方の足が魁英に絡みついた。口いっぱいに広がる芳醇な血液に酔い狂っている魁英はそれに気づかない。ぎゅううっと膝頭が魁英を締め上げ、はしたない息遣いで血を啜る吸血鬼を愛撫する。
美味しい。なんて美味しいのだろう。こってりと濃くて、温かくて。舌が溶けそうなほど暴力的に甘い朱昂とは違う。濃厚な匂いがするのに、あっさりと喉を通り抜け、四肢に染みわたっていく。美味しい。あぁ……。
硬く締まった腿を鷲掴みにしながら吸血に没頭していた魁英の敏くなった耳が、複数の足音を聞きつけた。途端、がばっと顔を上げて、音のする方を見る。牢の外、ちょうど自分の後ろ側。腰を落としたままそろりと石の山を駆け下る。武器は無いかと、石を掴み上げたが、少し力を入れると割れてしまった。なんだろう。力が強くなっている気がする。
足音が近くなるのを感じながら目の前の牢の柵、長い鉄の棒を掴んだ。両手で握りしめてぐっと後ろに体重を落とし全力で引っ張ると、変形を始めた棒はやがて、圧力に耐え切れず上部が折れた。ねじ切るように捻ると下部も外れる。
棒を振り回して暴れたことなどないが、たぶん拳だけで立ち向かうよりはましなはずだ。
棒を胸の前で構えながら、そろりと後ろ向きで石の山を登る。ぐしゅり。時折足元で石の山が滑るのを感じながら少しずつ登る。丁度崩れた天井から頭を出す直前、牢の柵の向こうに人影が現れた。その大きさにぎょっとする。甲冑を着込んだ胸の下までしかよく見えない。牢の柵を大きな爪の目立つ手が握った。
汗が滲む手で、武器の棒を握りこんだ魁英の襟を、後ろ側、つまり天井向こうの穴から掴む者があった。
背筋がぞっと凍りつく。
「いたぞっ」
目の前の柵が壊され、角の生えた恐ろしげな顔が叫んでいる。後ろから猛烈な力で引っ張り上げられ首が絞まるが、抵抗しようと思っても体が動かない。
首の裏に金属が当たっている。ずり上がる襟首を掴んで後ろを見ると、顔は人のものだが、やはり角の生えた頭があった。腹に腕を回され引き上げられる時に、牢の中に入り込んできた有角の兵士に棒を取り上げられる。気力を振るって遮二無二腕を振り回すが、拳が当たらない。
「どうしてっ」
相手に当たらないのではない。相手の顔の少し前に見えない板があるように、そこから先に拳が進まないのだ。蹴りも同じだ。どんなに力を込めてもそこからその透明な板を通過できない。
異形の群れが屋敷の見えない結界とやらを破った時のことを思いだし、何度も拳を打ちこむがどうにもならない。拳の向こうの顔が訝しげに魁英を見ている。
「早く連れて行くぞ」
棒を牢の中に捨てた男が、同じように角と尾を持つ兵士を連れて穴から出てくる。全力で暴れているにも関わらず肩から降りることもできずに魁英を抱えた兵士たちは走り始めた。
外に出られる。そう気づいた魁英はしばらく抵抗をやめた。
何故だか分からないが、すぐに殺される訳ではないらしい。血を吸ったおかげで傷も治り体力も回復し始めている。殴れない理由は分からないが、外に出られるならそれはそれでいい。乱暴に揺さぶられ魁英は兵士の肩を掴んだ。
一拍遅れて触ることができることに驚く。拳は当たらなかったのに。何故だ。
考えても答えは出ないのはいつものことで、気を取り直して掴まっているしかない。外に出られれば、きっと月鳴に近くなる。
――舐めろ、英……。
掠れた声。舌を伸ばし、苦い雫を舐める。
――許せよ。……許すなよ。
相反する言葉を一呼吸ごとに投げかけられる。意味も分からず硬い指に撫でられていた。
音がする。雫が落ちる。一滴、また一滴。雫が――。
*****
はっと魁英は目を開けた。不思議な過去の幻影を見た後、わずかだが眠ってしまっていたらしい。変な夢だった。やけに音が生々しい夢。眠気に目を瞬かせていると、一滴、びちりと背中を打つものがある。夢と符合する感覚にぎょっと起き上がろうとして、背中の痛みが消えていることに気がついた。
「――?」
そろそろと起き上がって腰を液体が伝う感覚に鳥肌を立てながら、背中を探ると、広範囲に濡れていた。手を見ると真っ赤だ。
ぴとり、と鼻先を掠めるものがある。石の床に一点の赤。天井を見た途端、また赤い雫が落ちてきた。恐る恐る手を濡らすものに鼻を寄せると甘い匂いがする。舐めると濃い甘さを感じて目を見開いた。月鳴や朱昂の味と似ている。
――真血は怪我や病気を治すんだ。
子躍の言葉が蘇る。真血が背中の傷を癒したのか。でも、どうして真血があるのだろう。朱昂が上にいるのか。ドキン。拍動が強くなる。朱昂がいるならば、きっと月鳴も――。
魁英は雫の落ちてくる天井の一点を見つめる。ただの石組みの天井だが、きっと緩くなっているはずだ。何とか壊せないか。いや、壊してやる。
跳び上がって拳を打ちつけてやろうと膝を屈めた瞬間、夜の静寂を切り裂き揺さぶり上げるような咆哮が魁英を襲った。
聞こえたのではない、それは衝撃波のように魁英のいる牢を揺らした。壁や床の石のひとつひとつが振動するようだった
バラバラと天井から砂が落ちてくることにぎょっとして角まで逃げると、すぐに天井が崩れ落ちる。重い物が落ちてくる音に続いて、砂や土、ほこりで視界が灰色に染まる。口を覆い、目をぎゅっと閉じた。砂埃が目に入ってごろごろする。じっと息を殺している間も頭上からは絶え間なく、衝撃音が続いている。先ほどよりは小さく、遠い。
息を抑えるのも限界で、咳き込みながら目を開けると、床に山積みの砕けた石の上に、妙なものが二つあった。
「何だよ、これ」
一つは棺だ。人が一人入る大きさの縦長の箱。それと、巨大な紅い岩。二人の大人が手を繋いで囲むくらいの大きさがある。ぬめり気味に光を白く反射していた。岩には鎖が巻かれ、落下の衝撃のためか大きく縦横にひびが入っている。
魁英が目の前の光景に動けずにいると、不安定な石の山の上から突然棺が魁英の足元へと滑り落ちてきた。棺は牢の壁にぶつかると、はずみで蓋が落ち、横倒しになった。中のものが滑り出てくる。それを見た瞬間、魁英はぎゃっと叫びながら石の山を駆けあがった。
出てきたのは干からびた死体だった。人の死体なのかは分からない。白骨ではなく、乾ききった皮膚が灰色に変色し、まるで分厚い蜘蛛の巣が張っているようにぼろぼろと全身を覆っている。顎はまるで絶叫するように上下に開かれていた。
抜けそうな腰を叱咤して山を駆けのぼる。つま先で踏んだ石が滑り、派手に膝を砕けた石の山に打ち付けた。
「うぐ……」
まるで転んだ衝撃が伝わったかのように、目の前の岩の亀裂が深くなる。やがて、岩を突き破って飛び出したのは、生白い脚だった。
ずるずると赤い粘液がまとわりつく二本の裸の足が岩の下部から這うように出てくる。それに応じて赤い粘液が辺りに染みだしてきた。
背後には死体。目の前には同じく死んだように白い足。進退極まった魁英の石の山を掴む手にも、粘液がじわじわと迫り、皮膚をなぶる。温かい。恐怖で動けない魁英の傷ついた膝にもそれが到達し、じゅわりと傷口に入り込むような感覚に、魁英の腰が跳ねた。
「うあっ」
思わずかん高い声を上げた魁英は、急に痛みの引いた傷口を見ると擦り傷が綺麗に消えていた。
――真血。
理解した瞬間、膝から首元まで甘い痺れが走った。覚えのある感覚に抵抗する間もなく、ハア、と甘い息が零れた。だらだらと唾液が湧く。
――まズい。血、ホしい。ホシイ。血。白いアシ食べる。美味しそウナアシタベタイ。
誘惑に逆らえず、魁英はそっと舌を伸ばした。尖らせた舌の先が白いつま先をちろりと舐め、やがて指全体にしゃぶりつく。足の裏を舐め、真血にまみれた足の甲を清めていく。ひくん。とつま先が震えた。その瞬間、美しい筋の浮いたふくらはぎに、魁英は堪らず牙を埋めた。足が持ち上がるのを抑えつける。
離さぬとでもいうように、もう片方の足が魁英に絡みついた。口いっぱいに広がる芳醇な血液に酔い狂っている魁英はそれに気づかない。ぎゅううっと膝頭が魁英を締め上げ、はしたない息遣いで血を啜る吸血鬼を愛撫する。
美味しい。なんて美味しいのだろう。こってりと濃くて、温かくて。舌が溶けそうなほど暴力的に甘い朱昂とは違う。濃厚な匂いがするのに、あっさりと喉を通り抜け、四肢に染みわたっていく。美味しい。あぁ……。
硬く締まった腿を鷲掴みにしながら吸血に没頭していた魁英の敏くなった耳が、複数の足音を聞きつけた。途端、がばっと顔を上げて、音のする方を見る。牢の外、ちょうど自分の後ろ側。腰を落としたままそろりと石の山を駆け下る。武器は無いかと、石を掴み上げたが、少し力を入れると割れてしまった。なんだろう。力が強くなっている気がする。
足音が近くなるのを感じながら目の前の牢の柵、長い鉄の棒を掴んだ。両手で握りしめてぐっと後ろに体重を落とし全力で引っ張ると、変形を始めた棒はやがて、圧力に耐え切れず上部が折れた。ねじ切るように捻ると下部も外れる。
棒を振り回して暴れたことなどないが、たぶん拳だけで立ち向かうよりはましなはずだ。
棒を胸の前で構えながら、そろりと後ろ向きで石の山を登る。ぐしゅり。時折足元で石の山が滑るのを感じながら少しずつ登る。丁度崩れた天井から頭を出す直前、牢の柵の向こうに人影が現れた。その大きさにぎょっとする。甲冑を着込んだ胸の下までしかよく見えない。牢の柵を大きな爪の目立つ手が握った。
汗が滲む手で、武器の棒を握りこんだ魁英の襟を、後ろ側、つまり天井向こうの穴から掴む者があった。
背筋がぞっと凍りつく。
「いたぞっ」
目の前の柵が壊され、角の生えた恐ろしげな顔が叫んでいる。後ろから猛烈な力で引っ張り上げられ首が絞まるが、抵抗しようと思っても体が動かない。
首の裏に金属が当たっている。ずり上がる襟首を掴んで後ろを見ると、顔は人のものだが、やはり角の生えた頭があった。腹に腕を回され引き上げられる時に、牢の中に入り込んできた有角の兵士に棒を取り上げられる。気力を振るって遮二無二腕を振り回すが、拳が当たらない。
「どうしてっ」
相手に当たらないのではない。相手の顔の少し前に見えない板があるように、そこから先に拳が進まないのだ。蹴りも同じだ。どんなに力を込めてもそこからその透明な板を通過できない。
異形の群れが屋敷の見えない結界とやらを破った時のことを思いだし、何度も拳を打ちこむがどうにもならない。拳の向こうの顔が訝しげに魁英を見ている。
「早く連れて行くぞ」
棒を牢の中に捨てた男が、同じように角と尾を持つ兵士を連れて穴から出てくる。全力で暴れているにも関わらず肩から降りることもできずに魁英を抱えた兵士たちは走り始めた。
外に出られる。そう気づいた魁英はしばらく抵抗をやめた。
何故だか分からないが、すぐに殺される訳ではないらしい。血を吸ったおかげで傷も治り体力も回復し始めている。殴れない理由は分からないが、外に出られるならそれはそれでいい。乱暴に揺さぶられ魁英は兵士の肩を掴んだ。
一拍遅れて触ることができることに驚く。拳は当たらなかったのに。何故だ。
考えても答えは出ないのはいつものことで、気を取り直して掴まっているしかない。外に出られれば、きっと月鳴に近くなる。
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