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第十二話 解放の呼び声(1)
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朝。
朝食のための水を外の井戸に汲みに出た魁英は、ふと水を出す手を止めた。
「?」
妙だ。首を巡らし辺りを見回す。静かすぎる。耳を澄ますが鳥の声はおろか、風が草を揺らす音もしない。微風は感じるのに、である。
山野に暮らした期間が長いが、魔境に入っても野生の様子の変化は特に感じられなかった。空気が少し重いと感じる程度で、聞きなれぬ鳥の鳴き声が聞こえても、それはそれとして鳥が鳴くという現象自体は変わらなかったのだ。
味覚や嗅覚が鈍いためか、魁英は聴覚が発達している。特に、牙が生えてからはよく聞こえるようになった。遠く川のせせらぎの音も感じられるほどだったのに、今日はそれがしない。
――囲まれている。
ふと脳裏に浮かんだ言葉に、魁英は背筋がぞっとした。
一体誰に。なぜ。考えても分からない。ただ、虫が音もなく触角を動かすように、身を潜めながらこちらを窺っているものがある。しかも息をこらしているのはひとつやふたつではない。びっしりと虫の触角に囲まれている。
ぴちょん。
井戸の蛇口からたらいへと、水が一滴落ちた音に、魁英は全身を震わせた。二の腕まで鳥肌が立っている。今ならば、咳ひとつでも殺戮の合図になりそうだった。木々の間から恐ろしい怪物が素早く自分の喉をかき切っていく光景が頭に浮かぶ。
魁英はたらいを持たないで、猫のように足音を消しながら屋敷に戻った。慎重に慎重を重ねて裏口の戸を閉じ、よろけながらようやく歩く。子どもたちが呼ぶのに、「しっ!」と厳しい視線を向けると、あまりの剣幕に双子の動きが止まる。
よたよたと歩いていた魁英の足が、十歩ほど動いたところで、まともな歩調になった。食堂を早足で横切り、階段を上る頃には駆け足になっていた。
「はっ、はっ、はっ」
月鳴。月鳴様に言わないと。
鋭く息を吐きながら数段飛びで駆け上がっていく。二階にたどり着くや否や、寝室の扉を乱打した。扉が開き、勢い余って魁英の体が室内に倒れこむ。飛び込んできた体を受け止める腕があった。誰かに抱きしめられたまま床にぶつかる。
「魁英」
至近距離からの声に、魁英は月鳴の上から慌てて体を避けた。月鳴が仰向けから上体を起こす。月鳴の手の中には魁英が見たことのない長剣があった。幅広のそれは銀の細工が施された黒い鞘に納められている。こつり。長剣を杖のように床に立て、月鳴が屈んだまま尻餅をついた魁英を見る。
「月鳴様っ!」
月鳴の顔を見て、自制の箍が外れた。恐怖が一気に高まって魁英の呼吸が乱れる。
「囲まれてます。外っ!外が、音が全然しない!」
胸が詰まって苦しい。息がひっかかるような感覚がある。必死に息を吸おうとしていると、月鳴に首を抱かれた。ぎゅうと抱きしめられ、月鳴の甘い体臭が強く香った。
「息を吐きなさい。吐いて」
押し当てられた月鳴の胸がへこみ、息が吐きだされる音がする。それにならって魁英が口をすぼめて息を吐きだした。
「いいぞ。吸って、止めて――吐いて。」
言いながら月鳴が鞘から数寸引きだした剣の根元で手のひらを斬る。「飲みなさい。」魁英は命じられるままに月鳴の手のひらに舌を這わせる。甘く温かい血に、体中の血がぷつぷつと熱されるのが分かった。
「息を止めるなよ。鼻から吸って、吐いて」
こめかみに唇を押しつけられながら、月鳴の手のひらを舐めていると、やがて傷が治った。残った血を全て舐め取り、魁英はようやく閉じていた目を開く。
――ハァ。
二人から同時に息が漏れた。落ち着いたか?と月鳴に問われ、魁英はひとつ頷く。月鳴は魁英の頭を抱いたまま離そうとしない。
「なあ、魁英。すまんが腰を抱いてくれ」
座り込む月鳴の膝の横に置いていた両手を、言われるまま月鳴の腰に回した。どうすればいいのだろう。戸惑っていると、ぎゅうと月鳴の腕に力が入るので、それに応じるように月鳴を抱きしめる。
「ありがとう。大丈夫だからな、魁英。俺が何とかしよう」
囁き声と甘い体臭にいつだかの思い出が蘇る。
『大丈夫よ、英龍。大丈夫だからね』
ぎゅうと腕を回した柔らかい体。頭を撫でてくれる手。母さんだ。これは確か父さんが死んだ日の思い出。遺体を火葬しながら、母さんにずっと抱きしめられていた。
果たして、本当の母だったかは分からないけれど。あの時は確かに親子だと思っていた。
あの時の母と月鳴の声は同じように震えている。魁英が顔を上げ、下から月鳴を見た。
「月鳴様。俺、もう、大丈夫だから。無理しないで」
月鳴の目が丸くなる。むっと口を歪め、最終的に苦笑いになった。
「お前に心配されるほど無力じゃねーよ。朱昂を呼ばなきゃいけない事態にならなきゃいいが。――囲まれていると言っていたが、実際に何かの影を見たりしたか?」
「何も。でも感じる。こっちを見てる」
「あぁ、見ている。ただ見ているだけなのか、殺そうとしているのか。判断がつかんな」
月鳴が振り向いて窓を見た。視線を追って見やった窓の向こうには雲一つない晴天が広がっている。殺すという単語に魁英がしっかりとした腰を抱き直すと、ゆっくり頭を撫でられた。
「用心しつつ動きがあるのを待つしかない、か」
朝食のための水を外の井戸に汲みに出た魁英は、ふと水を出す手を止めた。
「?」
妙だ。首を巡らし辺りを見回す。静かすぎる。耳を澄ますが鳥の声はおろか、風が草を揺らす音もしない。微風は感じるのに、である。
山野に暮らした期間が長いが、魔境に入っても野生の様子の変化は特に感じられなかった。空気が少し重いと感じる程度で、聞きなれぬ鳥の鳴き声が聞こえても、それはそれとして鳥が鳴くという現象自体は変わらなかったのだ。
味覚や嗅覚が鈍いためか、魁英は聴覚が発達している。特に、牙が生えてからはよく聞こえるようになった。遠く川のせせらぎの音も感じられるほどだったのに、今日はそれがしない。
――囲まれている。
ふと脳裏に浮かんだ言葉に、魁英は背筋がぞっとした。
一体誰に。なぜ。考えても分からない。ただ、虫が音もなく触角を動かすように、身を潜めながらこちらを窺っているものがある。しかも息をこらしているのはひとつやふたつではない。びっしりと虫の触角に囲まれている。
ぴちょん。
井戸の蛇口からたらいへと、水が一滴落ちた音に、魁英は全身を震わせた。二の腕まで鳥肌が立っている。今ならば、咳ひとつでも殺戮の合図になりそうだった。木々の間から恐ろしい怪物が素早く自分の喉をかき切っていく光景が頭に浮かぶ。
魁英はたらいを持たないで、猫のように足音を消しながら屋敷に戻った。慎重に慎重を重ねて裏口の戸を閉じ、よろけながらようやく歩く。子どもたちが呼ぶのに、「しっ!」と厳しい視線を向けると、あまりの剣幕に双子の動きが止まる。
よたよたと歩いていた魁英の足が、十歩ほど動いたところで、まともな歩調になった。食堂を早足で横切り、階段を上る頃には駆け足になっていた。
「はっ、はっ、はっ」
月鳴。月鳴様に言わないと。
鋭く息を吐きながら数段飛びで駆け上がっていく。二階にたどり着くや否や、寝室の扉を乱打した。扉が開き、勢い余って魁英の体が室内に倒れこむ。飛び込んできた体を受け止める腕があった。誰かに抱きしめられたまま床にぶつかる。
「魁英」
至近距離からの声に、魁英は月鳴の上から慌てて体を避けた。月鳴が仰向けから上体を起こす。月鳴の手の中には魁英が見たことのない長剣があった。幅広のそれは銀の細工が施された黒い鞘に納められている。こつり。長剣を杖のように床に立て、月鳴が屈んだまま尻餅をついた魁英を見る。
「月鳴様っ!」
月鳴の顔を見て、自制の箍が外れた。恐怖が一気に高まって魁英の呼吸が乱れる。
「囲まれてます。外っ!外が、音が全然しない!」
胸が詰まって苦しい。息がひっかかるような感覚がある。必死に息を吸おうとしていると、月鳴に首を抱かれた。ぎゅうと抱きしめられ、月鳴の甘い体臭が強く香った。
「息を吐きなさい。吐いて」
押し当てられた月鳴の胸がへこみ、息が吐きだされる音がする。それにならって魁英が口をすぼめて息を吐きだした。
「いいぞ。吸って、止めて――吐いて。」
言いながら月鳴が鞘から数寸引きだした剣の根元で手のひらを斬る。「飲みなさい。」魁英は命じられるままに月鳴の手のひらに舌を這わせる。甘く温かい血に、体中の血がぷつぷつと熱されるのが分かった。
「息を止めるなよ。鼻から吸って、吐いて」
こめかみに唇を押しつけられながら、月鳴の手のひらを舐めていると、やがて傷が治った。残った血を全て舐め取り、魁英はようやく閉じていた目を開く。
――ハァ。
二人から同時に息が漏れた。落ち着いたか?と月鳴に問われ、魁英はひとつ頷く。月鳴は魁英の頭を抱いたまま離そうとしない。
「なあ、魁英。すまんが腰を抱いてくれ」
座り込む月鳴の膝の横に置いていた両手を、言われるまま月鳴の腰に回した。どうすればいいのだろう。戸惑っていると、ぎゅうと月鳴の腕に力が入るので、それに応じるように月鳴を抱きしめる。
「ありがとう。大丈夫だからな、魁英。俺が何とかしよう」
囁き声と甘い体臭にいつだかの思い出が蘇る。
『大丈夫よ、英龍。大丈夫だからね』
ぎゅうと腕を回した柔らかい体。頭を撫でてくれる手。母さんだ。これは確か父さんが死んだ日の思い出。遺体を火葬しながら、母さんにずっと抱きしめられていた。
果たして、本当の母だったかは分からないけれど。あの時は確かに親子だと思っていた。
あの時の母と月鳴の声は同じように震えている。魁英が顔を上げ、下から月鳴を見た。
「月鳴様。俺、もう、大丈夫だから。無理しないで」
月鳴の目が丸くなる。むっと口を歪め、最終的に苦笑いになった。
「お前に心配されるほど無力じゃねーよ。朱昂を呼ばなきゃいけない事態にならなきゃいいが。――囲まれていると言っていたが、実際に何かの影を見たりしたか?」
「何も。でも感じる。こっちを見てる」
「あぁ、見ている。ただ見ているだけなのか、殺そうとしているのか。判断がつかんな」
月鳴が振り向いて窓を見た。視線を追って見やった窓の向こうには雲一つない晴天が広がっている。殺すという単語に魁英がしっかりとした腰を抱き直すと、ゆっくり頭を撫でられた。
「用心しつつ動きがあるのを待つしかない、か」
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