吸血鬼のしもべ

時生

文字の大きさ
上 下
4 / 52

第二話 吸血鬼の屋敷(1)

しおりを挟む
 山奥で膝を抱えていると、聞こえるはずのない人の声が、聞こえることがあった。
 化け物。化け物。変態。気味が悪いね。目を合わせては駄目。気狂いだよ。一体何なの。化け物――。

 突き飛ばしてしまった子どもの金切り声。ひそひそと語られる声。
 蛍の光が飛ぶ夜は、いつもそれが聞こえた。その奥で、「何故誰も理解してくれない!」と叫ぶ自分の声がずっとずっと追いかけてきて、それは確かに気味の悪い声で、もしやこの声が周りに聞こえているのではないかと不安だった。それは正しく狂人の声であったから。

 理解されなくても人恋しくて、街に下りてしまう。気味が悪いと言われるたびに背中を突き抜ける怒りを確かに感じて、それが暴力となってしまわないように自らを縛った。

 ――狂っている。
 それでも、人殺しだけはしたくなかった。なのに――。

*****

 自分が叫ぶ声で飛び起きた。ぎしりと何かが軋む音がする。顔中が濡れている気配にぞっとして拭った手のひらを見ると、それは無色透明だった。涙、だろうか。

 顔を濡らしていたものが血ではないことに安堵して、もう一度顔を拭った。涙と汗で手がぬめる。思わず着ている物に手をこすりつけて、青年はようやく自分が寝台の上にいることに気がついた。

「え……?」

 大きな手でふかふかと敷布を押す。ゴウ、と風の音が聞こえて思わず音のする方を見ると、壁に並んだ細長い窓の向こうに森が広がっていた。

 木漏れ日が長方形に切り出されて、板張りの床を白く光らせている。床は黒く、壁は白かった。身じろぎをするとふかふかと布団が尻の下で揺れる。

 およそこんな立派な寝台を使ったことなど無い。六尺(約180cm)を超える長身の青年が十分寝返りを打てるほどの幅があり、床と同じく黒い木材で作られた寝台は、四本の柱で囲われ、柱と柱の間に渡された板には細かい彫刻がなされていた。枕元の彫刻に触れる。つるりとした触感だ。寝台から少し離れた場所に長椅子が置かれている。

「……」

 見たこともないような部屋だ。しかし、見事すぎて気味が悪い。まだ夢でも見ているのかと顔を撫でて、口元に違和感を覚えた。唇の間から、何かが出ている気がする。硬い何かが。瞬間、恐ろしい記憶が蘇った。ズプリと肉を穿つ生々しい感触。頸動脈の拍動、ジュルジュルと脳をいっぱいにする水音。骨が軋む音。次いで砕ける音――。

 青年は呼吸を荒げながら、口の中に指を突き入れ、獣のような牙をなぞった。ヒ、と声が漏れる。脂汗を流しながら、寝台の横にある小さな卓の上から、鏡面が伏せられた手鏡を取った。

 鏡に向かってゆっくりと口を開ける。小さな隙間からも覗いた大きな歯、ちょうど八重歯の部分が、異常に太く大きくなっていた。鏡を持つ手がぶるぶると震える。口の中の牙は切っ先が鈍く、いよいよ獰猛そうなものだった。

 ――化け物。

 咄嗟に浮かんできた言葉に、青年は叫びながら手鏡を床に投げつけた。バリンと激しい音を立てて鏡が割れる音に、青年は頭を抱えるようにして耳を塞ぎ、寝台の上で体を折り曲げうずくまった。

 ――嘘だ。嘘だ嘘だ。これは夢だ。

 体中が心臓になったようだった。夢、夢、と呟く間も牙が唇に触れる。激しい鼓動の音と、荒い呼吸。有り得ない。落ち着け、落ち着かないと、気がおかしくなる。

 自分に言い聞かせて更に体を小さくする。必死に理性を手繰たぐり寄せようと努力する青年は、部屋に誰かが入ってきたことにすぐに気づけなかった。

「おい、大丈夫か?」

 おいおい。近くで低い声が聞こえることにぎょっとして顔を上げると、手鏡の破片を拾おうと床に屈んだ男と目が合った。目尻に皺の刻まれた切れ長の瞳に、ぞくっと全身に冷たい血が流れる。

 灰色がかった髪、彫りの深い顔。昨日の男だ。最後に血を吸った男。地を這うような叫び声を覚えている。どうして生きて、平気で動いているんだ。

「なあ、大丈夫か」
「ゆ、許してくれ!!」

 青年のそれはほぼ絶叫だった。寝台から飛び上がり、男から逃れるように部屋の隅に走る。着慣れない裾の長い着物につまずいて転んだが、必死に起き上がって扉の近くまで走る。部屋の隅に手足を押しこめるようにして、屈みこんだ。

 何故だ。どうしてここにあの男がいるんだ。そもそもここはどこ? どうしよう。どうしよう。落ち着け、落ち着け。

 理性がすり切れていくのが分かる。まずい。ヒーヒー、と呼吸に妙な声が混ざる。あぁ、まずいまずい。
 男を窺うと眉根を寄せて近づいてくる。だめだ、来ないでくれ。

「来るなって、来ないで! ――殺したくねえんだよぉ!!」

 混乱の度が過ぎて、気づいたら見知らぬ人を半死半生の目に遭わせていた経験が何度かある。殺してはいないはずだが、自分の記憶がないだけで、何人も殺していたらどうしようといつも思っているのに。

 これ以上近づいて来たら最悪殺してしまうと叫んだ青年に、男の足が止まった。
 片眉を上げて、髪を後ろへ撫でつけている。そのまま後頭部を掻く手は全くと言っていいほど緊張感がなかった。

「変わってるなぁ。――あれだけ血を飲んどいて、殺したくねえも無いだろうよ……」

 ひたひた。男がなおも近づいて来ようとするので、必死で逃げ場を探すが、腰が抜けて立ち上がれない。怖い。来ないでくれ。

「な、ななななな、なっんで生きて、んだよ」

 青年は、人と話すことに慣れていない。どもりながら尋ねると、なんでって、と男が眉を下げる。

「死ぬ前にお前が血を飲むのをやめたからだろう……ところで腹、痛くないのか?」
「来るなって!」
「うるせえな、叫ばなくても聞こえるよ。ここはな……あー、ま、いいか。ここは真血しんけつの主の屋敷だから安心しろ。同族にどうこうはしない。――もう、泣くなよ」

 さっきから目玉が熱いのがおかしいと思っていた。指摘されて慌てて頬を拭う。
 男の言っていることがよく分からない。どうすればいいのか、結局男がどういうつもりで目の前にいるのかも分からず、涙を拭きながら壁に体をぴったりと寄せる。

 暴力を振るってくる気配はない。罵倒も激高もない。男は困ったように見返してきて、ふと手近な卓の上の果物籠に手を伸ばした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

溺愛前提のちょっといじわるなタイプの短編集

あかさたな!
BL
全話独立したお話です。 溺愛前提のラブラブ感と ちょっぴりいじわるをしちゃうスパイスを加えた短編集になっております。 いきなりオトナな内容に入るので、ご注意を! 【片思いしていた相手の数年越しに知った裏の顔】【モテ男に徐々に心を開いていく恋愛初心者】【久しぶりの夜は燃える】【伝説の狼男と恋に落ちる】【ヤンキーを喰う生徒会長】【犬の躾に抜かりがないご主人様】【取引先の年下に屈服するリーマン】【優秀な弟子に可愛がられる師匠】【ケンカの後の夜は甘い】【好きな子を守りたい故に】【マンネリを打ち明けると進み出す】【キスだけじゃあ我慢できない】【マッサージという名目だけど】【尿道攻めというやつ】【ミニスカといえば】【ステージで新人に喰われる】 ------------------ 【2021/10/29を持って、こちらの短編集を完結致します。 同シリーズの[完結済み・年上が溺愛される短編集] 等もあるので、詳しくはプロフィールをご覧いただけると幸いです。 ありがとうございました。 引き続き応援いただけると幸いです。】

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

寮生活のイジメ【社会人版】

ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説 【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】 全四話 毎週日曜日の正午に一話ずつ公開

羽衣伝説 ー おじさま達に病愛されて ー

ななな
BL
 麗しい少年が、おじさま達から変態的かつ病的に愛されるお話。全12話。  仙人の弟子であるボムギュは、お師匠様のことを深くお慕いしておりました。ところがある夜を境に、二人の関係は歪なものとなってしまいます。  逃げるように俗界へと降りたボムギュでしたが、村の子供達に読み書きを教えているという男に心を奪われてしまい…。

できる執事はご主人様とヤれる執事でもある

ミクリ21 (新)
BL
執事×ご主人様。

獣人の里の仕置き小屋

真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。 獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。 今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。 仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)

夏目碧央
BL
 兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。  ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?

処理中です...