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第一話 目覚め(2)
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所を変えながら長じた後、彼はその力をひた隠しにしながら生きてきた。
人の目に触れる時は巨体を縮め、肘から上を胸に縛りつけ、いつも手をすり合わせていた。
この時、もうひとつの体質が役に立った。彼はあまり食物をとらなくてもいい身体だった。
普段は森に隠れ住み、人が恋しくなると背を曲げ、腕を縛りつけてゴミを漁る体で街に降りた。
当然気味悪がられ、野卑な言葉を吐かれたが、それでも良かった。大して味も分からぬ舌だったため、腐りかけの残飯で口をいっぱいにして、背に投げられる石を払いもせず、一度降りた街は再び訪れなかった。
人の十分の一ほどしか飯を食わぬくせに、よく筋肉の発達したこの体は何事だろうと彼自身不思議だったが、忌まわしい怪力のせいだろうと、そう思っていた。
人を決して殺めないと心に誓いながら、自分を殺めようと考えるも、守ろうとしてくれた母の顔が思い出されて、するにできぬ。
ただ老いか病が己を殺してくれるのを大人しく待っていようと思ったが、ふと良い案を思いついた。
飢えればいいのではないかと。飢えればさすがに力は薄れ、きっと自然に餓死するだろう。
しかし、
――飢えで暴れてしまっては困るな。
動けぬように鎖で己を戒めようにも、さすがに一人では無理だ。ううむ、と唸りながらそれでも断食はしてみようかと、彼はリスのように食べ物を蓄えつつ食を絶った。
貯食をしたのは、もしも暴れそうになった場合、すぐに腹を満たせばいいだろうと、そう考えたためだった。
――毒で死ねたらなぁ。
毒を使わないのは、金がないためだけではなかった。それまでも山中の怪しげなキノコを食べてきた彼だが、嘔吐一つしない。
恐らく大枚をはたいて毒を購入しても、効かないのだろうな、と分かっていたのだ。
食を絶って、一か月。痩せた顔を川面に映していた時、<ソレ>は起こった。
キュウン、と胃の辺りが甘く疼いたのだ。疼いたところから一つ、ドクリと背筋を駆けのぼるものがある。
切ないほどのその感覚。彼は膝を折り、腹を撫でた。
――腹、減った。
生まれてはじめての感覚だった。それは脳から口元まで降りてきて、唾液がずるりと唇から溢れ出した。歯の根がプルプルと疼く。彼はそのまま川に顔を突っ込み、思うさま水を飲んだ。
違う。違う違う。もっと重いものが欲しい。
ガクガクと全身が震える。彼は目尻に涙を浮かべて「食糧庫」まで走った。硬いクルミは食べる気がしない。瑞々しさの残る果実を次々口に放り込んだ。
違う。ちがう、あまいのがほしい。
――もっと熱くッて、おモくて、あまぁいもノがタベタい。ほしいよぉ……。
「チョウダイ、頂戴……」
眼下には大きな都城がある。一目散に駆け下りながら、彼は己の口から勝手に声が出るのを、抑えることができなかった。
欲しい、欲しいと、そればかりが頭の中で膨れ上がって、いつしかパンッと脳髄ごと弾けてしまいそうだった。
欲しい。欲しい。熱くて、水よりも重くて甘いもの。くれないと狂う。暴力を振るってしまう。くれくれくれ。クレクレクレクレクレクレクレクレーー!
涎が何度も足元に落ち、何度も手の甲で拭う。色街の外れ、ドブ川を飛び越え涎を拭う。鬼に変わろうという彼は、そこで己の新たな異変に気付いた。
手の甲にべったりとついた体液が、薄赤く染まっていた。
「なンデ?」
痛みはどこにもない。傷つけた記憶もない。ただ無性に疼く歯茎に舌を這わせると、鉄錆の匂いがした。
「血?」
なぜ? とめまいを覚えた時、道の真ん中でうずくまった彼の背を、心配げになでる手があった。
「ねえ、あんた。大丈夫?」
ぐるりと彼は首を巡らす。
色街の場末にいるとは思えない、美しい女だった。
涼しげな目元、意志の強そうな眉、どんな紅を施したのか、珊瑚色の唇は螺鈿のように薄く輝いていた。
すっきりとした眉根を寄せて、心配そうな表情に、普段の彼なら目を逸らしただろう。ただ、その時の彼は、美しい女を見てニィと笑った。鈴の音のような拍動が聞こえる。早く掻き抱きたかった。
彼は気付いていなかった。女を見返す彼の瞳孔が、細長く伸びてしまっていること、そして笑った口元から牙とは呼べぬ、もっと乱暴な杭のような歯が二本、覗いていることに。
「あんたまさか」
「ガァアアアアアアア」
彼は歓喜の表情で細い女の腕を抱きしめ、その肩に噛みつき、思うさま啜った。
血が欲しい。血が欲しい。女の骨がバリバリと砕ける音が、彼の耳に心地よく響いた。
人の目に触れる時は巨体を縮め、肘から上を胸に縛りつけ、いつも手をすり合わせていた。
この時、もうひとつの体質が役に立った。彼はあまり食物をとらなくてもいい身体だった。
普段は森に隠れ住み、人が恋しくなると背を曲げ、腕を縛りつけてゴミを漁る体で街に降りた。
当然気味悪がられ、野卑な言葉を吐かれたが、それでも良かった。大して味も分からぬ舌だったため、腐りかけの残飯で口をいっぱいにして、背に投げられる石を払いもせず、一度降りた街は再び訪れなかった。
人の十分の一ほどしか飯を食わぬくせに、よく筋肉の発達したこの体は何事だろうと彼自身不思議だったが、忌まわしい怪力のせいだろうと、そう思っていた。
人を決して殺めないと心に誓いながら、自分を殺めようと考えるも、守ろうとしてくれた母の顔が思い出されて、するにできぬ。
ただ老いか病が己を殺してくれるのを大人しく待っていようと思ったが、ふと良い案を思いついた。
飢えればいいのではないかと。飢えればさすがに力は薄れ、きっと自然に餓死するだろう。
しかし、
――飢えで暴れてしまっては困るな。
動けぬように鎖で己を戒めようにも、さすがに一人では無理だ。ううむ、と唸りながらそれでも断食はしてみようかと、彼はリスのように食べ物を蓄えつつ食を絶った。
貯食をしたのは、もしも暴れそうになった場合、すぐに腹を満たせばいいだろうと、そう考えたためだった。
――毒で死ねたらなぁ。
毒を使わないのは、金がないためだけではなかった。それまでも山中の怪しげなキノコを食べてきた彼だが、嘔吐一つしない。
恐らく大枚をはたいて毒を購入しても、効かないのだろうな、と分かっていたのだ。
食を絶って、一か月。痩せた顔を川面に映していた時、<ソレ>は起こった。
キュウン、と胃の辺りが甘く疼いたのだ。疼いたところから一つ、ドクリと背筋を駆けのぼるものがある。
切ないほどのその感覚。彼は膝を折り、腹を撫でた。
――腹、減った。
生まれてはじめての感覚だった。それは脳から口元まで降りてきて、唾液がずるりと唇から溢れ出した。歯の根がプルプルと疼く。彼はそのまま川に顔を突っ込み、思うさま水を飲んだ。
違う。違う違う。もっと重いものが欲しい。
ガクガクと全身が震える。彼は目尻に涙を浮かべて「食糧庫」まで走った。硬いクルミは食べる気がしない。瑞々しさの残る果実を次々口に放り込んだ。
違う。ちがう、あまいのがほしい。
――もっと熱くッて、おモくて、あまぁいもノがタベタい。ほしいよぉ……。
「チョウダイ、頂戴……」
眼下には大きな都城がある。一目散に駆け下りながら、彼は己の口から勝手に声が出るのを、抑えることができなかった。
欲しい、欲しいと、そればかりが頭の中で膨れ上がって、いつしかパンッと脳髄ごと弾けてしまいそうだった。
欲しい。欲しい。熱くて、水よりも重くて甘いもの。くれないと狂う。暴力を振るってしまう。くれくれくれ。クレクレクレクレクレクレクレクレーー!
涎が何度も足元に落ち、何度も手の甲で拭う。色街の外れ、ドブ川を飛び越え涎を拭う。鬼に変わろうという彼は、そこで己の新たな異変に気付いた。
手の甲にべったりとついた体液が、薄赤く染まっていた。
「なンデ?」
痛みはどこにもない。傷つけた記憶もない。ただ無性に疼く歯茎に舌を這わせると、鉄錆の匂いがした。
「血?」
なぜ? とめまいを覚えた時、道の真ん中でうずくまった彼の背を、心配げになでる手があった。
「ねえ、あんた。大丈夫?」
ぐるりと彼は首を巡らす。
色街の場末にいるとは思えない、美しい女だった。
涼しげな目元、意志の強そうな眉、どんな紅を施したのか、珊瑚色の唇は螺鈿のように薄く輝いていた。
すっきりとした眉根を寄せて、心配そうな表情に、普段の彼なら目を逸らしただろう。ただ、その時の彼は、美しい女を見てニィと笑った。鈴の音のような拍動が聞こえる。早く掻き抱きたかった。
彼は気付いていなかった。女を見返す彼の瞳孔が、細長く伸びてしまっていること、そして笑った口元から牙とは呼べぬ、もっと乱暴な杭のような歯が二本、覗いていることに。
「あんたまさか」
「ガァアアアアアアア」
彼は歓喜の表情で細い女の腕を抱きしめ、その肩に噛みつき、思うさま啜った。
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