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幸せですか?
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二十一時。俺は誰かにつけられている。物好きなやつがいたもんだと思う。この世の果てまで見渡せど、ただの男を付け狙う輩がいるもんか。ついさっきまでそう思っていた。俺には縁のない災難だと軽視していた。そして、そう、まさに災厄が後ろにいる。俺の足音に重ねるように、一つ歩けば小さくトッと音が鳴る。まるで、歩くたび反響音が響き渡っているかのようで、ああそうか地球はドーム型のフィールドだもんな、などとバカみたいに考えてしまう。
かれこれ、最寄駅から歩きだして二十分ほどになる。ずっとこの調子だ。離れたかと思えば近付き、俺が怖くなって走り出したときには音が小刻みになり、俺が息を切らして歩くときには、わずかに細々とした呼吸音が耳に届く。
そして、最後の曲がり角が遠くに見えてくる。しかし。
バカじゃないのか。肺から絞るように息を出し、やがて心が落ち着くのを待った。誰かは知らんが追っ手よ、オタクのストーカーをしてどうするよ。普通は逆だろうに。なあ。
そもそも思い当たる節がない。だから途中で過去の悪行について振り返ってみた。もしかしたら知らぬ間に誰かを傷つけていたかもしれないし、そのせいで人生を台無しにしていたかもしれないし。
ああ、わかったぞ。小学生のときに筆箱を忘れて、鉛筆を借りた友人だ。あの時はついつい鉛筆かじり癖が発動しちゃって歯型つけちゃったな。
待てよ。なあ、俺の乳歯でつけられた歯型、よく考えたらめっちゃくちゃ貴重じゃないか? 過去に戻りでもしない限り、絶対に再現されることがない、失われし遺産というわけだ。いやあ、こんな小さな悪行で尾行されているんだとしたら、どうやら俺は少しばかり人類の優しさを再定義しないといけないらしいな。
いや、違うか。リュックからお茶のペットボトルを取り出す。真面目に考えてみよう。ああ、わかったぞ。年がら年中悪戯三昧を働き、気付けば転校したとかでいなくなっていた友人か? 懐かしいな。今でも元気にやっているといいな。俺は高校ではバカだったなあ。あれ? 今もか? まあいいや。そう、まあいいやは便利な言葉だな。傑もよく言ってたっけか。ああ、そうだ、五十嵐傑(いがらしすぐる)だ。あいつはいい奴だった。俺が女子校生見学店モチーフのすんげぇ良いAVを熱弁したときにも、あいつはケラケラ笑いっぱなしで……
でも、見ようとはしなかったな。あいつには性欲がないのか? いるよなあ。そういう気取ったやつがさ。
とにかく、とにかく……何度も後ろを振り返ろうとした。しかし、変質者の可能性や、はたまた全く別の生物かもしれないと考えてしまって、足だけは止められなかった。だって止まったら最後、デカい口がガブッとやってくるかもしれないからな。流石にゲームのやり過ぎかもしれないが、そうは言っても誰かに恨まれる覚えなんてない。清廉潔白とは言えないこの人生だが、道は踏み外していないはずなんだ。
サッと振り返って、一瞬だけ確認してみるか? いや、そもそも家にたどり着ければ安全なのでは? そして何事もなかったかのように明日を過ごし、怖かった話として誰かに喋ればいい。
そうだ、これでいこう。俺には変わりばえのない貴重な日常があるんだ、わざわざ崩すこともないだろう。よし、絶対振りかえらないと心に決めた。
歩く速度を早める。足音は変わらずダブっている。気にしては駄目だ、気にしたら余計気になってしまう。さあ、次の曲がり角で、もうすぐ家に着く。
さあ曲がったぞ。まだついてきてるか。最寄りの自販機で静止し、周りの音に耳を澄ましてみると、電球のジジジと乾いた音が聞こえてきたり、時折吹く風で草木が揺れたりするが、肝心の足音がしない。呼吸も聞こえない。
今なら、振り返ってみてもいいんじゃないか? さっき絶対に振り返らないと決めたのに、余計な好奇心が首をもたげてくる。しかし、好奇心は猫をも殺すと言うわけだし、それならばいっそのこと走ってしまうか。
死ぬよりマシだ、やはりここは走るべき。俺は勢いよく地面を蹴り、残り100mほどの距離を全力で疾走する。聞こえてくるのは革靴の底が鳴らすカツカツといった音と、心臓の鼓動音だけだ。全力疾走なんて、高校生以来なんじゃないか。今はこの身体が重たくって仕方ない。
……着いた。無事に着いてしまった。築30年のアパートは閑静な住宅街にあり、まさしく風光明媚……とは真逆のふてぶてしい見た目をしている。ただ、今はその生活感にまみれた我が家のシルエットが、とても愛らしいものに思えた。
しかし、何事もないとなると、とたんに寂しく感じてしまうのが人間なのかもしれない。まあいいや。サヨナラ非日常、いつもと変わらず明日も会社に行こうな。そして階段を登りながら鞄から鍵を取りだし、今まさに玄関前に向かおうとしたところ。そこで俺は固まってしまった。
誰かが、いる。
そいつは玄関前に立っている。顔を扉に向け、一切動く気配がない。俺は眼を凝らして、もしかしたら知り合いかもしれない、という細い線に期待した。どうやら化物の類ではないらしく、俺と同じ人間のかたちをしていた。
しかし、おかしい。知り合いなら連絡の一つでもよこすだろう。
ついて来ていた奴か? あいつは振り切ったはずなのに。全力疾走後の汗とは違う、ともすれば身が凍るほどの冷たい汗が全身からぶわっと放出される。殺されるのか。ここでゲームオーバーか。
「よぉ、久しぶり」
そいつは、恐怖の対象とはよほど似つかわしくない、可愛らしい声でそう言った。俺はさっきからビビりまくって冷静な思考ができてないし、そして猫撫で声でオタクを呼びよせ、ブッ殺す猟奇犯かもしれない奴を目の前にしているわけだから、なるほど声がうわずるわけだ。
「お、お前は、だれだ?」
まるで殺されるキャラのようなセリフを吐いてしまう。目の前の人物は女性だ。俺よりも身長が少しばかり低く、黒いカーディガンとジーパンで、中性的な出で立ちだった。手には何も握られていない。どうやら刺殺や撲殺の線が消えたらしいが、まだ油断できない。食われるかもしれないし。
俺が全く動けずにいると、そいつは呆れたようにため息をつく。
「高校の修学旅行中、自由行動の電車内で、突然消えた奴がいる。周りは大慌てで探し回ったが見つからず、どうしようかと相談しながら、とりあえず目的の駅で降りた。そうすると、そいつは先に駅の改札に立っていた。理由を聞くと、トイレに行きたかったが言い出せなかった。途中で快速に乗り換えたほうが早く着くのがわかって、先に行ってトイレに行き、来るのを待っていたという。そこで周りが罵倒し、着いたあだ名が」
「うんこ途中下車の旅……って、それは本当に一時期だけ呼ばれていたあだ名じゃねーか!」
反射的に突っ込んで、それから首を大きく振った。どうして死ぬほど恥ずかしいエピソードその八を知っている?
こいつは誰だ?
「そう、そしてそれを名付けたのは?」
「五十嵐傑……だけど。え? あ、妹さんですか」
「俺だよ俺」
俺の困惑などどこ吹く風、こいつは楽しそうに言いきりやがった。
「嘘ですよ。だいたい、息子の名を騙る女からのオレオレ詐欺なんて、うちのボケた婆ちゃんですら秒で看破しますよ」
「俺が、五十嵐傑だ、って言ってるんだ」
慎ましやかにお辞儀をしてきた。あいた口が塞がらない。
「……嘘だろ。そんなことがあるもんか」
「ホントだよ、まぁ俺、いや、私だってビックリしたんだけどさ」
「俺って言うなよ。それっぽいだろ」
「何が?」
いや、こっちの話だから。そう言って、ゆっくりと姿を眺める。こいつが、五十嵐傑だって? エロ漫画じゃあるまいし、なあ。
「じゃあ聞くが、俺とお前ではじめて行った思い出の場所は?」
「秋葉原のメイドカフェ」
「うーん、これは本人だな」
自暴自棄になったわけではない。疑わなくてもいいかなという気持ちと、それよりもすこし面白くなってしまっていた。
それから、半ば夢のなかにいるんじゃないかと考えはじめていた。現実逃避だと知りつつも、楽なほうへと思考を流してしまいがち。まあ俺はそんな人間だし、そもそも傑らしい女性は俺のことをよく知っているようだったから、常識はこの際棚上げしてしまおうかと思った。
「そんな簡単に納得していいのか?」
超速理解に若干引き気味らしく、傑はすこし声のトーンを落としてきた。
「よくはないけど、でも嘘を言っているように思えない。そもそも傑しかしらない情報を言っている。となると該当するのが傑本人か家族しかいない。そして傑は一人っ子だったから、妹や姉の可能性もない。じゃあ本人じゃん」
「じゃあなんで、さっき妹ですかって聞いたんだ」
「人間は、慌てると思ってもないことを言うものですから」
傑は軽く笑ったあと、ドアを指さした。
「わかってくれて助かるよ。とりあえず家に入れてもらえない?」
「は? 仮にも、いや仮にもっておかしいか。お前、女なんだろ。よく平気な顔して言えるもんだな」
傑は一瞬だけ惚けた顔をし、それから思いっきり笑いだした。
「お前ダサいなあ! さあさあ、遠慮するなよ。お前の性癖から悪癖まで、なんでも知ってるからな。今さら恥ずかしいことがあるのか?」
「いや、お前いま女じゃん」
傑は自分の身体を眺めるように下を向き、つられるように俺も身体を見る。
「何か問題が?」
「男だったんだから、すぐ理解できるだろ」
「ぜーんぜん」
そう言ってから、それから気付いたように突然声を潜めて、約半歩ほどの距離まで近づいてきた。
「ずっとここで話すつもり? ご近所さんに痴話喧嘩だって思われたら困るよね。今後、居心地悪くなるんじゃない?」
正しいと思う。だが、しかし、それは……
「俺にだって心があるんだよ。たとえ、仮にな。お前がかつての友人だったとして、しかし見た目はどっから見ても女性だ。心の安寧が保たれない」
「ああ、まあ、確かにそうだ。じゃあ超厚着をして、顔以外の肌を一切見せない状態ならどう?」
「声がかわいいもんなぁ」
すこし高めの甘ったるい声を聞かされ続けてみろ。地獄だぞ。
「じゃあ書くからさ」
傑は空に文字を書くように、指でその辺をなぞった。
「字は昔と変わらないんだよな?」
「変わってないよ」
「じゃあダメだ、お前、字が綺麗だったろ」
「字の綺麗さに男女はないだろ」
「いや違う! 男の字の上手さはなんというか、そこはかとない魅力の一部分になるだけだが、女性となるとそれもまた可愛いからダメ!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
俺はしばらく考え、そして思いつく。
「とりあえず俺の服を着てくれ、上から下まで完璧にな。男の格好をしていれば、ギリギリで傑と認識できるはずだ」
「それはお前の趣味か?」
「邪な思いはない。少し寒そうだなと思ったんだ」
「ウソつけ」
ケラケラと笑う傑……らしい女性は、しかし確かに、昔のままの笑いかたをしていた。
「それで、どうして会いにきたんだ?」
傑は俺の黒いパーカーに袖を通したところだった。これは失敗だったなあと思う。変哲もない無地のパーカー、女性だってよく着るものじゃないか。まるで、本当に俺がただ着せ替えて楽しんでいるみたいだ。傑は匂いをかぐそぶりをし、それから俺に向き直った。
「それを話すためには、今日に至るまでどういった生活をし、苦しみや悲しみの果てにここへたどり着いた、全ての経緯をまずは話さなければなるまい」
こいつ、ふざけているな。
「ちょっと笑ってるじゃねーか」
「笑ってない、笑ってない。ああそう、笑ってるといえば。女性だと普通にヘラヘラしていても、可愛いねーなんて言ってくる輩がいるんだよ。……まあ、いい気分だよな」
確かに昔のクソ汚く笑う傑と比べてみると、今は可愛らしく笑っていると言えなくもない。事情を知らなければ、なるほど、天使のような笑顔ですらあったかもしれない。
いや、言い過ぎか。
「人生、初めからこの顔で過ごしていたんじゃないかって考えてしまうよ。はっきり言うと、実は昔の顔が思い出せなくなってきているんだ」
「初めから……って、じゃあ今までのお前はどうなったんだよ」
「そんなもの、捨てたよ」
傑はまるで何の後悔もないかのように、きっぱりと言い切ってみせた。
「マジか。そんな簡単に捨てられるもんか?」
「いいや。でも突然、女の子になったとしよう。
さあ、どうやって辻褄を合わせる? どうやって本人だと証明する? この女の子が五十嵐傑だって、一体誰が認めてくれる? 仮に両親が存在をゆるしてくれたとしても、現代社会に生きる場所があるのかなって、最初はとにかく怖かったよ。
けどいつまで経っても元に戻らない。そしたら、諦めるしかない」
傑の言葉から感じる、かつての葛藤。それだけに、深入りしていいものか迷ってしまう。
「それで、家を出てきたのか?」
「いいや。だいたい、五年くらい女やってるし。親も騒いだもんだけど、慣れちゃったみたい」
「慣れちゃったみたいって、簡単に言うよなあ。
……ああ! もしかして突然の転校って」
長年の疑問に、ようやく合点がいった。傑は何も言わず、しかし微笑んでいる。つまり肯定した、ということなんだろう。
「いっそのこと、女体化アイドルにでもなればよかったんじゃないか?」
「ああ、確かにチヤホヤされたいなあ。俺も、前例さえ見つけられれば、もう少し大手を振って歩けたのになあ」
「一切見つからないのか?」
そりゃそうだろ、と傑はため息をついた。
「情報が出回ってないんだよ。それに検索して出てくるのはエロ漫画のネタばかりだ。
かと言って、ネットに書き込めやしないし。」
「なぜ?」
「あのなあ。もし仮に、俺が女体化の初号機だったらどうする。カミングアウトはリスキーすぎるだろ。もし研究対象にでもなったら、楽しい人生は味わえないだろうし」
「すでに人生メチャクチャだろ。……まぁ、意味はわかるよ」
「だろ? 両親も、俺が人間として生きていけないんじゃないかと、本気で心配したんだ。そりゃそうだよな、我が子がいきなり女の子になっちゃうわけだから、心中お察ししますって感じだよ」
傑の両親は困惑したに違いない。しかし、どうやら病院にひたすら連れ回したり、世間に訴えかけたりするなど、派手な行動を取らないようにしているようだ。英断だと思う。
「俺が親だったら、まずお前をお前……つまり自分の息子だと認識できないだろうな。どうやってわかったんだ?」
「結婚記念日を言い当ててやったんだ。1回間違えたけど、それは祖母の誕生日だったから事なきを得たよ」
「俺にやったのと同じ手法か」
「そう。これが一番効果あるんだ。お互いにしか知らないはずの情報を出してしまえば、否定材料は容姿だけだし。
あ、輪ゴム借りるね」
傑は髪をかきわけ、頭の横で結んだ。
「いいよ。それにしても、ご両親はよく信じて、そして順応してくれたな」
「まあ、両親ともに結構お気楽だからね。最初こそ慌てふためきはしたけど、母親と服を見に行ったとき、すごく楽しそうに選んでくれてさ。まるで初めから娘を産んでいたかのように、すぐ自然に接してくれたよ」
俺はどうやって声をかけたらいいんだろうか。傑は楽しそうに喋ってくるが、いや、どう考えても闇が深い。お前は男だよ、とでも言えばいいのか? 無理だろ。突っ込めそうにない。
「そういうお前はどうなんだよ。まだ俺が五十嵐傑だと納得したわけじゃないだろ。いや、そうでもないのか?
とにかく、俺にはまだまだ材料があるんだからな。例えばだな」
恥ずかしいエピソードを披露される前に止めてしまいたい。そう思って、慌てて部屋のすみに目を向けると、一体のフィギュアがあらわれた。
「うーん、じゃあ俺が好きなキャラクターは?」
しばし考えこむそぶりを見せて、それから首を横に振った。
「お前、コロコロと好きなキャラが変わるからさ、全くわからん。ああだけど、いくつか共通点があるな。胸がデカい、身長低め、大人しい容姿……つまり、お前はオタクってことだよ」
「よくわかってるじゃねえか!」
まあ、もう傑と断定していいだろう。俺は諦めることにした。
しかし、こいつは気付かないのだろうか。それとも気付かないふりをして、からかっているのか? まさしくお前が、好みの容姿をしているってことに。だから男の服で厚着させ、意識しないように、また悟られないようにしたというのに。
傑は部屋を歩きまわり、何も変わっちゃいない様子を懐かしんでいるのか、しばらく目をほそめていた。傑が家に来たのは、確か三年前だったはずだ。
俺がのほほんと過ごしていた期間は、傑にとっては辛いものだったのかもしれない。もし自分が女になってしまったら、なんて妄想をしたことがあれど、次に目を覚ませば”はい女体化”だなんて、バカげている。そしてこの世界は思ったよりもバカげているらしい。
女になって楽しそうだと思う反面、心配にもなる。だって、鏡に他人がうつる、みたいなもんだろう。背中から不安が滲みだすような心地がするのだろう。
「どうした? あ、ペットボトル片付けとくよ」
「ああ、助かる。それにしてもお前、大学はどうしたんだ?」
「そんなもん、卒業出来るわけないだろ。でもちょっと悔しかったからさ、一年は通ったよ。サークルに誘われたり、ナンパされたり、まー女の子って大変なんだなあって実感したね。俺はあんなダル絡みするもんか」
傑は聞けば、色々なことを喋ってくれた。友達に言ってみたら疑われ、信じてもらえれば好奇の目で見られ、セクハラもあり、人間不信に陥りかけた話。
それから、初めてスカートを履いたときの話。これはだいぶ気持ちが悪かったらしく、二度と着たくないらしい。ただ、まるで自分を着せ替え人形のようにして、様々な服を試してみたという。結果、今の無難な格好に落ち着いたらしい。いや、それは見たかったなあ。溢れそうになる言葉を飲みこんで、一方でずっと気になっていたことを口にした。
「……元に戻れるもんなのか? というか、元に戻る気があるのか?」
「いや、正直なところ何も考えていないんだ。だって、そうだろ。起こったことは仕方ない。これから先どう生きていくかが大切なわけだ。……そんなわけで」
傑はいつの間にか、コップ二つとペットボトルのお茶を抱えてきて、やがてテーブルの前に座った。
「俺に戸籍をくれないか?」
「は?」
こいつは、もしかしてバカなのか?
「いや、結婚しようよ」
「は?」
「役所の処理をどう誤魔化すか考えなくちゃいけないけど、一度籍を入れてしまえば、俺は女性の五十嵐傑……いや、田崎傑として生きていけるわけよ」
「勝手に名字を拝借しないでくれ。お前、正気か? 俺は男と結婚しないぞ」
「おっと、現代では問題発言ですね。でも、そもそも、俺が男に見えるのか?」
「いや、うん……全く見えない」
「だろ? じゃあ問題ないじゃないか」
「そういう問題じゃねーだろ!」
「じゃあ他にどんな問題があるんだよ」
「俺のこここ心が追いつかないんだよ!」
「なっさけないなあ、童貞野郎が」
「それはお前だって一緒だろ!」
「すんません、俺は処女です」
「そういう話がしたいんじゃ……え? 処女なの?」
「なんだよ、そこに食いつかれると恥ずかしいだろ。やめろよ」
「お前、お前! おかしいだろ、お前! 今までと違う感覚、驚きの連続に心昂り間違いの連続を引き起こし、最終的に妊娠しちまって後悔と、母としての慈愛を兼ね備えた顔をしろ! お前はエロ漫画で何を得たんだ!」
興奮してまくし立てたものの、俺は一応女らしき傑に向かって、一体何を言っているのだろう。
「変態」
「あっ、今のイイ!」
「田崎、お前キモいな」
「うーん、今のは傑っぽかった」
「なんだよそれ」
ケタケタと笑う傑。それにしても、うーん。
どっからどう見てもただの女の子で、あの五十嵐傑とは思えない。あいつはもっと下品で、俺の下世話な話にも快活に笑って、ケツをぶっ叩いてくるような、そんな奴だったんだ。
「……どうした? 結婚するのが嫌なのか?」
「バカ、その話はもうするなよ。……いや、なんて言うか難しいんだけどな。お前は確かに五十嵐傑だ、確証はないが、俺の心がそう言っている。だけど、容姿がこう違うと、さっきの下らないやり取りに物足りなさというか、やっぱ人間って容姿も含めて認識しているのかなぁ、って思って」
「……」
傑は黙りこみ、じっと手を見ている。
「お前は、本当に傑なんだよな?」
「なんだよ、今さら疑うのか?」
疑っちゃいない。もう二時間ほど会話していて、さすがにわかってくる。こいつは傑だ。高校時に何度もはしゃぎ回って遊んでは先生に怒られた、あの五十嵐傑だ。
しかし、どこからどう見ても女、なんだよな。どう処理したらいいのかわからない感情が、俺の中で黒々とした渦を巻いている。そんな心地がした。
「そもそもお前、どこで俺がここに住んでいるって知ったんだ。まだお前が男だった頃の場所じゃないのにさ。っていうか声に出すとおかしくてしょうがないな。なんだよお前が男だった頃って」
「全くの偶然だよ」
そう傑は言った。自信ありげに、そして嬉しそうに。
「新宿を歩いていると、なんだか田崎っぽい人が通りすぎていってたんだよ。はじめは見間違いかなと思ったけど、それから毎日同じ時間に行ってみると、いつも同じルートを通って行くから、きっと通勤経路なんだろうなと思った。でも、本当に田崎なのか自信が持てなかったから、同じ電車に乗って、向かい合って眺めてみた。
スマホをしばらくいじったあと、時計を見てため息をついてた。
その時に、目があった。それで本人だとわかった」
なんだろうな。俺はもしかして、執着されているのだろうか。
「追いかけられているときに考えた、追跡者は俺のストーカー説、あながち間違いじゃなかったというわけか」
「ストーカー!」
傑にそういう気持ちはなかったのだろう。顔の前で手を振り、それから親指を顎に当て考え込んでしまった。
「ああ、発言を振り返ってみると……なるほど。これがストーカーなんだね」
「後ろからつけられて、マジで怖かったんだからな。足音や吐息やら聞こえるたび、常に命の危機を感じてた」
「そっかあ。それはごめんね」
傑に悪びれる様子はなく、おもむろに本棚から漫画を一つ取り出してみせた。
「暇つぶしさせてもらうね」
こいつはいつまでいるつもりなんだ。さっきからまるで帰ろうとしないし、かといって話を切り出したりもしない。
俺と会って、どうするつもりだったんだ。マジで結婚しに来たのか。あれは冗談だと思っていたが、事態はよほど深刻なのか。
しかし、一度聞きづらいと思ってしまうと勇気が出ず、自分の家だというのに居心地が悪い。
「なあ」
「うん?」
「家出してきたのか?」
「だから違うよ。親にはしばらく友達の家に泊まるって言ってある」
「どうして俺に会いに来たんだ?」
「それはね、田崎が昔と変わらず、いつも情けない顔をしていたからかな」
「はぐらかすなよ」
「さすがにバレるか。
何も聞かずに黙って泊めてくれよ」
「いや、普通に気になるから」
「夜も眠れない?」
「まあそんな感じ」
「じゃあ仕方ないな。お前が、俺を幸せにしてくれるかなって思ったからだよ」
なんだそりゃ。まるで告白みたいじゃないかと俺は笑った。
「傑の言う幸せとはなんだ?」
傑はすこし考える様子をしてから、ゆっくりと笑った。
「それは、自分が幸せだと思ったときだよ」
ああ、確かにそうかもしれないな。
「わかった。しばらく泊めてやるから、今日はもう寝ようぜ。
俺は明日も仕事だからな」
「……聞かないんだ」
「聞くもんか」
きっと、いつか言ってくれるだろうと思っていた。
だから今は、傑のしたいようにしてやろう。
*
「田崎、いま幸せか?」
傑が問いかけてくる。
「まぁ、悪くはないかな」
「そうか。それならゲーセン行こうぜ」
「お前、どうしてそうなるんだよ。大体、なんで仕事終わりに歩き回らなきゃならないんだ」
「幸せなんだからいいじゃないですか、田崎さん。それに、お前が下らなくて、下品で、汚いネタで大笑いしてくれるからさ、俺も楽しくなってきちゃって」
「ふーん、そっか。じゃあさ、どエロい同人誌がうちにあるんだけど」
「読むわけないだろ。バカ。ていうか下品のベクトルが違うだろ」
「そっかあ。まあでも、お前はそういう奴だったな」
「そもそも、女に読ませようとするなよ。まさか誰彼構わずこのくだりをやってるんじゃないだろうな」
「まさか。俺以上の紳士がいてたまるものか」
「よく言うよ、田崎の仕事中に、服を買いに行きたいって送ったら、大量にメッセージを返してきたじゃないか。すんげえやかましかったぞ」
「やっぱスカートかなーって」
「だから着たくないって言っただろ。はあ、まあいいや」
「そういうお前はどうなんだよ」
「何が?」
「幸せなのか?」
「ぜーんぜん」
そう言って、傑は楽しそうに前へ駆け出した。
かれこれ、最寄駅から歩きだして二十分ほどになる。ずっとこの調子だ。離れたかと思えば近付き、俺が怖くなって走り出したときには音が小刻みになり、俺が息を切らして歩くときには、わずかに細々とした呼吸音が耳に届く。
そして、最後の曲がり角が遠くに見えてくる。しかし。
バカじゃないのか。肺から絞るように息を出し、やがて心が落ち着くのを待った。誰かは知らんが追っ手よ、オタクのストーカーをしてどうするよ。普通は逆だろうに。なあ。
そもそも思い当たる節がない。だから途中で過去の悪行について振り返ってみた。もしかしたら知らぬ間に誰かを傷つけていたかもしれないし、そのせいで人生を台無しにしていたかもしれないし。
ああ、わかったぞ。小学生のときに筆箱を忘れて、鉛筆を借りた友人だ。あの時はついつい鉛筆かじり癖が発動しちゃって歯型つけちゃったな。
待てよ。なあ、俺の乳歯でつけられた歯型、よく考えたらめっちゃくちゃ貴重じゃないか? 過去に戻りでもしない限り、絶対に再現されることがない、失われし遺産というわけだ。いやあ、こんな小さな悪行で尾行されているんだとしたら、どうやら俺は少しばかり人類の優しさを再定義しないといけないらしいな。
いや、違うか。リュックからお茶のペットボトルを取り出す。真面目に考えてみよう。ああ、わかったぞ。年がら年中悪戯三昧を働き、気付けば転校したとかでいなくなっていた友人か? 懐かしいな。今でも元気にやっているといいな。俺は高校ではバカだったなあ。あれ? 今もか? まあいいや。そう、まあいいやは便利な言葉だな。傑もよく言ってたっけか。ああ、そうだ、五十嵐傑(いがらしすぐる)だ。あいつはいい奴だった。俺が女子校生見学店モチーフのすんげぇ良いAVを熱弁したときにも、あいつはケラケラ笑いっぱなしで……
でも、見ようとはしなかったな。あいつには性欲がないのか? いるよなあ。そういう気取ったやつがさ。
とにかく、とにかく……何度も後ろを振り返ろうとした。しかし、変質者の可能性や、はたまた全く別の生物かもしれないと考えてしまって、足だけは止められなかった。だって止まったら最後、デカい口がガブッとやってくるかもしれないからな。流石にゲームのやり過ぎかもしれないが、そうは言っても誰かに恨まれる覚えなんてない。清廉潔白とは言えないこの人生だが、道は踏み外していないはずなんだ。
サッと振り返って、一瞬だけ確認してみるか? いや、そもそも家にたどり着ければ安全なのでは? そして何事もなかったかのように明日を過ごし、怖かった話として誰かに喋ればいい。
そうだ、これでいこう。俺には変わりばえのない貴重な日常があるんだ、わざわざ崩すこともないだろう。よし、絶対振りかえらないと心に決めた。
歩く速度を早める。足音は変わらずダブっている。気にしては駄目だ、気にしたら余計気になってしまう。さあ、次の曲がり角で、もうすぐ家に着く。
さあ曲がったぞ。まだついてきてるか。最寄りの自販機で静止し、周りの音に耳を澄ましてみると、電球のジジジと乾いた音が聞こえてきたり、時折吹く風で草木が揺れたりするが、肝心の足音がしない。呼吸も聞こえない。
今なら、振り返ってみてもいいんじゃないか? さっき絶対に振り返らないと決めたのに、余計な好奇心が首をもたげてくる。しかし、好奇心は猫をも殺すと言うわけだし、それならばいっそのこと走ってしまうか。
死ぬよりマシだ、やはりここは走るべき。俺は勢いよく地面を蹴り、残り100mほどの距離を全力で疾走する。聞こえてくるのは革靴の底が鳴らすカツカツといった音と、心臓の鼓動音だけだ。全力疾走なんて、高校生以来なんじゃないか。今はこの身体が重たくって仕方ない。
……着いた。無事に着いてしまった。築30年のアパートは閑静な住宅街にあり、まさしく風光明媚……とは真逆のふてぶてしい見た目をしている。ただ、今はその生活感にまみれた我が家のシルエットが、とても愛らしいものに思えた。
しかし、何事もないとなると、とたんに寂しく感じてしまうのが人間なのかもしれない。まあいいや。サヨナラ非日常、いつもと変わらず明日も会社に行こうな。そして階段を登りながら鞄から鍵を取りだし、今まさに玄関前に向かおうとしたところ。そこで俺は固まってしまった。
誰かが、いる。
そいつは玄関前に立っている。顔を扉に向け、一切動く気配がない。俺は眼を凝らして、もしかしたら知り合いかもしれない、という細い線に期待した。どうやら化物の類ではないらしく、俺と同じ人間のかたちをしていた。
しかし、おかしい。知り合いなら連絡の一つでもよこすだろう。
ついて来ていた奴か? あいつは振り切ったはずなのに。全力疾走後の汗とは違う、ともすれば身が凍るほどの冷たい汗が全身からぶわっと放出される。殺されるのか。ここでゲームオーバーか。
「よぉ、久しぶり」
そいつは、恐怖の対象とはよほど似つかわしくない、可愛らしい声でそう言った。俺はさっきからビビりまくって冷静な思考ができてないし、そして猫撫で声でオタクを呼びよせ、ブッ殺す猟奇犯かもしれない奴を目の前にしているわけだから、なるほど声がうわずるわけだ。
「お、お前は、だれだ?」
まるで殺されるキャラのようなセリフを吐いてしまう。目の前の人物は女性だ。俺よりも身長が少しばかり低く、黒いカーディガンとジーパンで、中性的な出で立ちだった。手には何も握られていない。どうやら刺殺や撲殺の線が消えたらしいが、まだ油断できない。食われるかもしれないし。
俺が全く動けずにいると、そいつは呆れたようにため息をつく。
「高校の修学旅行中、自由行動の電車内で、突然消えた奴がいる。周りは大慌てで探し回ったが見つからず、どうしようかと相談しながら、とりあえず目的の駅で降りた。そうすると、そいつは先に駅の改札に立っていた。理由を聞くと、トイレに行きたかったが言い出せなかった。途中で快速に乗り換えたほうが早く着くのがわかって、先に行ってトイレに行き、来るのを待っていたという。そこで周りが罵倒し、着いたあだ名が」
「うんこ途中下車の旅……って、それは本当に一時期だけ呼ばれていたあだ名じゃねーか!」
反射的に突っ込んで、それから首を大きく振った。どうして死ぬほど恥ずかしいエピソードその八を知っている?
こいつは誰だ?
「そう、そしてそれを名付けたのは?」
「五十嵐傑……だけど。え? あ、妹さんですか」
「俺だよ俺」
俺の困惑などどこ吹く風、こいつは楽しそうに言いきりやがった。
「嘘ですよ。だいたい、息子の名を騙る女からのオレオレ詐欺なんて、うちのボケた婆ちゃんですら秒で看破しますよ」
「俺が、五十嵐傑だ、って言ってるんだ」
慎ましやかにお辞儀をしてきた。あいた口が塞がらない。
「……嘘だろ。そんなことがあるもんか」
「ホントだよ、まぁ俺、いや、私だってビックリしたんだけどさ」
「俺って言うなよ。それっぽいだろ」
「何が?」
いや、こっちの話だから。そう言って、ゆっくりと姿を眺める。こいつが、五十嵐傑だって? エロ漫画じゃあるまいし、なあ。
「じゃあ聞くが、俺とお前ではじめて行った思い出の場所は?」
「秋葉原のメイドカフェ」
「うーん、これは本人だな」
自暴自棄になったわけではない。疑わなくてもいいかなという気持ちと、それよりもすこし面白くなってしまっていた。
それから、半ば夢のなかにいるんじゃないかと考えはじめていた。現実逃避だと知りつつも、楽なほうへと思考を流してしまいがち。まあ俺はそんな人間だし、そもそも傑らしい女性は俺のことをよく知っているようだったから、常識はこの際棚上げしてしまおうかと思った。
「そんな簡単に納得していいのか?」
超速理解に若干引き気味らしく、傑はすこし声のトーンを落としてきた。
「よくはないけど、でも嘘を言っているように思えない。そもそも傑しかしらない情報を言っている。となると該当するのが傑本人か家族しかいない。そして傑は一人っ子だったから、妹や姉の可能性もない。じゃあ本人じゃん」
「じゃあなんで、さっき妹ですかって聞いたんだ」
「人間は、慌てると思ってもないことを言うものですから」
傑は軽く笑ったあと、ドアを指さした。
「わかってくれて助かるよ。とりあえず家に入れてもらえない?」
「は? 仮にも、いや仮にもっておかしいか。お前、女なんだろ。よく平気な顔して言えるもんだな」
傑は一瞬だけ惚けた顔をし、それから思いっきり笑いだした。
「お前ダサいなあ! さあさあ、遠慮するなよ。お前の性癖から悪癖まで、なんでも知ってるからな。今さら恥ずかしいことがあるのか?」
「いや、お前いま女じゃん」
傑は自分の身体を眺めるように下を向き、つられるように俺も身体を見る。
「何か問題が?」
「男だったんだから、すぐ理解できるだろ」
「ぜーんぜん」
そう言ってから、それから気付いたように突然声を潜めて、約半歩ほどの距離まで近づいてきた。
「ずっとここで話すつもり? ご近所さんに痴話喧嘩だって思われたら困るよね。今後、居心地悪くなるんじゃない?」
正しいと思う。だが、しかし、それは……
「俺にだって心があるんだよ。たとえ、仮にな。お前がかつての友人だったとして、しかし見た目はどっから見ても女性だ。心の安寧が保たれない」
「ああ、まあ、確かにそうだ。じゃあ超厚着をして、顔以外の肌を一切見せない状態ならどう?」
「声がかわいいもんなぁ」
すこし高めの甘ったるい声を聞かされ続けてみろ。地獄だぞ。
「じゃあ書くからさ」
傑は空に文字を書くように、指でその辺をなぞった。
「字は昔と変わらないんだよな?」
「変わってないよ」
「じゃあダメだ、お前、字が綺麗だったろ」
「字の綺麗さに男女はないだろ」
「いや違う! 男の字の上手さはなんというか、そこはかとない魅力の一部分になるだけだが、女性となるとそれもまた可愛いからダメ!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
俺はしばらく考え、そして思いつく。
「とりあえず俺の服を着てくれ、上から下まで完璧にな。男の格好をしていれば、ギリギリで傑と認識できるはずだ」
「それはお前の趣味か?」
「邪な思いはない。少し寒そうだなと思ったんだ」
「ウソつけ」
ケラケラと笑う傑……らしい女性は、しかし確かに、昔のままの笑いかたをしていた。
「それで、どうして会いにきたんだ?」
傑は俺の黒いパーカーに袖を通したところだった。これは失敗だったなあと思う。変哲もない無地のパーカー、女性だってよく着るものじゃないか。まるで、本当に俺がただ着せ替えて楽しんでいるみたいだ。傑は匂いをかぐそぶりをし、それから俺に向き直った。
「それを話すためには、今日に至るまでどういった生活をし、苦しみや悲しみの果てにここへたどり着いた、全ての経緯をまずは話さなければなるまい」
こいつ、ふざけているな。
「ちょっと笑ってるじゃねーか」
「笑ってない、笑ってない。ああそう、笑ってるといえば。女性だと普通にヘラヘラしていても、可愛いねーなんて言ってくる輩がいるんだよ。……まあ、いい気分だよな」
確かに昔のクソ汚く笑う傑と比べてみると、今は可愛らしく笑っていると言えなくもない。事情を知らなければ、なるほど、天使のような笑顔ですらあったかもしれない。
いや、言い過ぎか。
「人生、初めからこの顔で過ごしていたんじゃないかって考えてしまうよ。はっきり言うと、実は昔の顔が思い出せなくなってきているんだ」
「初めから……って、じゃあ今までのお前はどうなったんだよ」
「そんなもの、捨てたよ」
傑はまるで何の後悔もないかのように、きっぱりと言い切ってみせた。
「マジか。そんな簡単に捨てられるもんか?」
「いいや。でも突然、女の子になったとしよう。
さあ、どうやって辻褄を合わせる? どうやって本人だと証明する? この女の子が五十嵐傑だって、一体誰が認めてくれる? 仮に両親が存在をゆるしてくれたとしても、現代社会に生きる場所があるのかなって、最初はとにかく怖かったよ。
けどいつまで経っても元に戻らない。そしたら、諦めるしかない」
傑の言葉から感じる、かつての葛藤。それだけに、深入りしていいものか迷ってしまう。
「それで、家を出てきたのか?」
「いいや。だいたい、五年くらい女やってるし。親も騒いだもんだけど、慣れちゃったみたい」
「慣れちゃったみたいって、簡単に言うよなあ。
……ああ! もしかして突然の転校って」
長年の疑問に、ようやく合点がいった。傑は何も言わず、しかし微笑んでいる。つまり肯定した、ということなんだろう。
「いっそのこと、女体化アイドルにでもなればよかったんじゃないか?」
「ああ、確かにチヤホヤされたいなあ。俺も、前例さえ見つけられれば、もう少し大手を振って歩けたのになあ」
「一切見つからないのか?」
そりゃそうだろ、と傑はため息をついた。
「情報が出回ってないんだよ。それに検索して出てくるのはエロ漫画のネタばかりだ。
かと言って、ネットに書き込めやしないし。」
「なぜ?」
「あのなあ。もし仮に、俺が女体化の初号機だったらどうする。カミングアウトはリスキーすぎるだろ。もし研究対象にでもなったら、楽しい人生は味わえないだろうし」
「すでに人生メチャクチャだろ。……まぁ、意味はわかるよ」
「だろ? 両親も、俺が人間として生きていけないんじゃないかと、本気で心配したんだ。そりゃそうだよな、我が子がいきなり女の子になっちゃうわけだから、心中お察ししますって感じだよ」
傑の両親は困惑したに違いない。しかし、どうやら病院にひたすら連れ回したり、世間に訴えかけたりするなど、派手な行動を取らないようにしているようだ。英断だと思う。
「俺が親だったら、まずお前をお前……つまり自分の息子だと認識できないだろうな。どうやってわかったんだ?」
「結婚記念日を言い当ててやったんだ。1回間違えたけど、それは祖母の誕生日だったから事なきを得たよ」
「俺にやったのと同じ手法か」
「そう。これが一番効果あるんだ。お互いにしか知らないはずの情報を出してしまえば、否定材料は容姿だけだし。
あ、輪ゴム借りるね」
傑は髪をかきわけ、頭の横で結んだ。
「いいよ。それにしても、ご両親はよく信じて、そして順応してくれたな」
「まあ、両親ともに結構お気楽だからね。最初こそ慌てふためきはしたけど、母親と服を見に行ったとき、すごく楽しそうに選んでくれてさ。まるで初めから娘を産んでいたかのように、すぐ自然に接してくれたよ」
俺はどうやって声をかけたらいいんだろうか。傑は楽しそうに喋ってくるが、いや、どう考えても闇が深い。お前は男だよ、とでも言えばいいのか? 無理だろ。突っ込めそうにない。
「そういうお前はどうなんだよ。まだ俺が五十嵐傑だと納得したわけじゃないだろ。いや、そうでもないのか?
とにかく、俺にはまだまだ材料があるんだからな。例えばだな」
恥ずかしいエピソードを披露される前に止めてしまいたい。そう思って、慌てて部屋のすみに目を向けると、一体のフィギュアがあらわれた。
「うーん、じゃあ俺が好きなキャラクターは?」
しばし考えこむそぶりを見せて、それから首を横に振った。
「お前、コロコロと好きなキャラが変わるからさ、全くわからん。ああだけど、いくつか共通点があるな。胸がデカい、身長低め、大人しい容姿……つまり、お前はオタクってことだよ」
「よくわかってるじゃねえか!」
まあ、もう傑と断定していいだろう。俺は諦めることにした。
しかし、こいつは気付かないのだろうか。それとも気付かないふりをして、からかっているのか? まさしくお前が、好みの容姿をしているってことに。だから男の服で厚着させ、意識しないように、また悟られないようにしたというのに。
傑は部屋を歩きまわり、何も変わっちゃいない様子を懐かしんでいるのか、しばらく目をほそめていた。傑が家に来たのは、確か三年前だったはずだ。
俺がのほほんと過ごしていた期間は、傑にとっては辛いものだったのかもしれない。もし自分が女になってしまったら、なんて妄想をしたことがあれど、次に目を覚ませば”はい女体化”だなんて、バカげている。そしてこの世界は思ったよりもバカげているらしい。
女になって楽しそうだと思う反面、心配にもなる。だって、鏡に他人がうつる、みたいなもんだろう。背中から不安が滲みだすような心地がするのだろう。
「どうした? あ、ペットボトル片付けとくよ」
「ああ、助かる。それにしてもお前、大学はどうしたんだ?」
「そんなもん、卒業出来るわけないだろ。でもちょっと悔しかったからさ、一年は通ったよ。サークルに誘われたり、ナンパされたり、まー女の子って大変なんだなあって実感したね。俺はあんなダル絡みするもんか」
傑は聞けば、色々なことを喋ってくれた。友達に言ってみたら疑われ、信じてもらえれば好奇の目で見られ、セクハラもあり、人間不信に陥りかけた話。
それから、初めてスカートを履いたときの話。これはだいぶ気持ちが悪かったらしく、二度と着たくないらしい。ただ、まるで自分を着せ替え人形のようにして、様々な服を試してみたという。結果、今の無難な格好に落ち着いたらしい。いや、それは見たかったなあ。溢れそうになる言葉を飲みこんで、一方でずっと気になっていたことを口にした。
「……元に戻れるもんなのか? というか、元に戻る気があるのか?」
「いや、正直なところ何も考えていないんだ。だって、そうだろ。起こったことは仕方ない。これから先どう生きていくかが大切なわけだ。……そんなわけで」
傑はいつの間にか、コップ二つとペットボトルのお茶を抱えてきて、やがてテーブルの前に座った。
「俺に戸籍をくれないか?」
「は?」
こいつは、もしかしてバカなのか?
「いや、結婚しようよ」
「は?」
「役所の処理をどう誤魔化すか考えなくちゃいけないけど、一度籍を入れてしまえば、俺は女性の五十嵐傑……いや、田崎傑として生きていけるわけよ」
「勝手に名字を拝借しないでくれ。お前、正気か? 俺は男と結婚しないぞ」
「おっと、現代では問題発言ですね。でも、そもそも、俺が男に見えるのか?」
「いや、うん……全く見えない」
「だろ? じゃあ問題ないじゃないか」
「そういう問題じゃねーだろ!」
「じゃあ他にどんな問題があるんだよ」
「俺のこここ心が追いつかないんだよ!」
「なっさけないなあ、童貞野郎が」
「それはお前だって一緒だろ!」
「すんません、俺は処女です」
「そういう話がしたいんじゃ……え? 処女なの?」
「なんだよ、そこに食いつかれると恥ずかしいだろ。やめろよ」
「お前、お前! おかしいだろ、お前! 今までと違う感覚、驚きの連続に心昂り間違いの連続を引き起こし、最終的に妊娠しちまって後悔と、母としての慈愛を兼ね備えた顔をしろ! お前はエロ漫画で何を得たんだ!」
興奮してまくし立てたものの、俺は一応女らしき傑に向かって、一体何を言っているのだろう。
「変態」
「あっ、今のイイ!」
「田崎、お前キモいな」
「うーん、今のは傑っぽかった」
「なんだよそれ」
ケタケタと笑う傑。それにしても、うーん。
どっからどう見てもただの女の子で、あの五十嵐傑とは思えない。あいつはもっと下品で、俺の下世話な話にも快活に笑って、ケツをぶっ叩いてくるような、そんな奴だったんだ。
「……どうした? 結婚するのが嫌なのか?」
「バカ、その話はもうするなよ。……いや、なんて言うか難しいんだけどな。お前は確かに五十嵐傑だ、確証はないが、俺の心がそう言っている。だけど、容姿がこう違うと、さっきの下らないやり取りに物足りなさというか、やっぱ人間って容姿も含めて認識しているのかなぁ、って思って」
「……」
傑は黙りこみ、じっと手を見ている。
「お前は、本当に傑なんだよな?」
「なんだよ、今さら疑うのか?」
疑っちゃいない。もう二時間ほど会話していて、さすがにわかってくる。こいつは傑だ。高校時に何度もはしゃぎ回って遊んでは先生に怒られた、あの五十嵐傑だ。
しかし、どこからどう見ても女、なんだよな。どう処理したらいいのかわからない感情が、俺の中で黒々とした渦を巻いている。そんな心地がした。
「そもそもお前、どこで俺がここに住んでいるって知ったんだ。まだお前が男だった頃の場所じゃないのにさ。っていうか声に出すとおかしくてしょうがないな。なんだよお前が男だった頃って」
「全くの偶然だよ」
そう傑は言った。自信ありげに、そして嬉しそうに。
「新宿を歩いていると、なんだか田崎っぽい人が通りすぎていってたんだよ。はじめは見間違いかなと思ったけど、それから毎日同じ時間に行ってみると、いつも同じルートを通って行くから、きっと通勤経路なんだろうなと思った。でも、本当に田崎なのか自信が持てなかったから、同じ電車に乗って、向かい合って眺めてみた。
スマホをしばらくいじったあと、時計を見てため息をついてた。
その時に、目があった。それで本人だとわかった」
なんだろうな。俺はもしかして、執着されているのだろうか。
「追いかけられているときに考えた、追跡者は俺のストーカー説、あながち間違いじゃなかったというわけか」
「ストーカー!」
傑にそういう気持ちはなかったのだろう。顔の前で手を振り、それから親指を顎に当て考え込んでしまった。
「ああ、発言を振り返ってみると……なるほど。これがストーカーなんだね」
「後ろからつけられて、マジで怖かったんだからな。足音や吐息やら聞こえるたび、常に命の危機を感じてた」
「そっかあ。それはごめんね」
傑に悪びれる様子はなく、おもむろに本棚から漫画を一つ取り出してみせた。
「暇つぶしさせてもらうね」
こいつはいつまでいるつもりなんだ。さっきからまるで帰ろうとしないし、かといって話を切り出したりもしない。
俺と会って、どうするつもりだったんだ。マジで結婚しに来たのか。あれは冗談だと思っていたが、事態はよほど深刻なのか。
しかし、一度聞きづらいと思ってしまうと勇気が出ず、自分の家だというのに居心地が悪い。
「なあ」
「うん?」
「家出してきたのか?」
「だから違うよ。親にはしばらく友達の家に泊まるって言ってある」
「どうして俺に会いに来たんだ?」
「それはね、田崎が昔と変わらず、いつも情けない顔をしていたからかな」
「はぐらかすなよ」
「さすがにバレるか。
何も聞かずに黙って泊めてくれよ」
「いや、普通に気になるから」
「夜も眠れない?」
「まあそんな感じ」
「じゃあ仕方ないな。お前が、俺を幸せにしてくれるかなって思ったからだよ」
なんだそりゃ。まるで告白みたいじゃないかと俺は笑った。
「傑の言う幸せとはなんだ?」
傑はすこし考える様子をしてから、ゆっくりと笑った。
「それは、自分が幸せだと思ったときだよ」
ああ、確かにそうかもしれないな。
「わかった。しばらく泊めてやるから、今日はもう寝ようぜ。
俺は明日も仕事だからな」
「……聞かないんだ」
「聞くもんか」
きっと、いつか言ってくれるだろうと思っていた。
だから今は、傑のしたいようにしてやろう。
*
「田崎、いま幸せか?」
傑が問いかけてくる。
「まぁ、悪くはないかな」
「そうか。それならゲーセン行こうぜ」
「お前、どうしてそうなるんだよ。大体、なんで仕事終わりに歩き回らなきゃならないんだ」
「幸せなんだからいいじゃないですか、田崎さん。それに、お前が下らなくて、下品で、汚いネタで大笑いしてくれるからさ、俺も楽しくなってきちゃって」
「ふーん、そっか。じゃあさ、どエロい同人誌がうちにあるんだけど」
「読むわけないだろ。バカ。ていうか下品のベクトルが違うだろ」
「そっかあ。まあでも、お前はそういう奴だったな」
「そもそも、女に読ませようとするなよ。まさか誰彼構わずこのくだりをやってるんじゃないだろうな」
「まさか。俺以上の紳士がいてたまるものか」
「よく言うよ、田崎の仕事中に、服を買いに行きたいって送ったら、大量にメッセージを返してきたじゃないか。すんげえやかましかったぞ」
「やっぱスカートかなーって」
「だから着たくないって言っただろ。はあ、まあいいや」
「そういうお前はどうなんだよ」
「何が?」
「幸せなのか?」
「ぜーんぜん」
そう言って、傑は楽しそうに前へ駆け出した。
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