おもちゃ箱

常森 楽

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「1回、距離を置こうか」
そう言って、君は出て行った。
2人で見つけた、私達の愛の巣から、出て行った。
君が出て行って、1週間経った。
始めの2日間は涙を流した。
何度も涙を流しては、テレビを見たりネットニュースを読んだり音楽を聞いたりして、気を紛らわした。
そうしていると、不思議と気持ちが落ち着いていって、まるで最初から君がいなかったみたいな気分になった。
君との記憶は確かにこの家に溢れているはずなのに、それは夢だったみたいな…。
涙を流さなくなった。
10年。
君と過ごした時間は、10年だ。
夢なわけがない。

なのに、君がそばにいないというのに、私の心はひどく落ち着いている。
当たり前のように仕事に行き、上司や同僚や部下と会話をする。
淡々と仕事をこなし、「あー、疲れた」なんて肩を回す。
家に帰ると、流れ作業のようにスマホを眺めて、無意味にSNSの中を泳いでいく。
君の投稿はない。
そのことに、何も思わなくなった。
2人で生活していた時は、君の体を気遣って、毎日自炊を頑張っていた。
でも1人になると急にやる気を失って、毎日コンビニ弁当だ。
ただ食べ物を体に流し込むだけの作業。

いつからだろう。
いつからだろう…。
帰り道、月が綺麗だと君に教えなくなったのは。
「帰るよ」と連絡しなくなったのは。
仕事が上手くいったからと、帰りに2人分のデザートを買わなくなったのは。
いつからだろう。
君が私の食べたお昼を聞かなくなったのは。
仕事や遊びの予定を教えてくれなくなったのは。
いつもメッセージにつけてくれていたハートがなくなったのは。
思い出すと、胸が苦しくなる。
たくさんあったはずの良い思い出よりも、苦しい思い出のほうが増えていった。
きっとお互いに苦しかった。
埋められない溝に、必死に橋を掛けようとした時期もあったけれど、2人とも力尽きてしまった。

「ずっと一緒に生きていきたいね」と笑いあった日を思い出す。
“ずっと一緒に生きようね”ではなく、「生きていきたい」だった。
それは願いではなく、祈りのようだった。
お互い、強く「共に生きよう」とは言えず、ただ祈ることしかできなかった。
私達に出来る最善の努力はする。
でも結局、一緒に生きていけるかどうかなんて、運次第だと思ったから。
そして私達は、今、運に見放されそうになっているのだ。

休日、久しぶりに1人で過ごした。
寂しくて泣くかと思ったけれど、やっぱり私は泣かない。
「君はどうしてるかな?」と何度か頭をよぎったけれど、ひとつため息をついて、思考を切り替えた。
コーヒーを淹れる。
全然寂しくない。
それがあまりに不思議だ。
君と生活していた時は、胸が張り裂けそうなほどに寂しかった。
どうしようもないくらい、手足をバタつかせて暴れるくらいには、寂しかった。
これが依存というやつなのだろうか。
私は君に依存していたのだろうか。
わからない。

私はただ、君と笑っていたかった。
君に愛されていたかった。
君を愛していたかった。
いつか2人で立てた夢を、2人で叶えたかった。
ただ、それだけだった。
たまに喧嘩するのも、悪くなかった。
喧嘩して話し合えば、お互いの距離が縮まる気がしたから、むしろ良いこととすら思えた。
君が仕事で辛いことがあると泣いて、それを私が慰める。
「大丈夫だよ」って「私がそばにいるよ」って、言い続けた。
大好きだった。大切だった。愛していた。
誰のことも愛せないと思っていたのに、私はこんなにも人を愛せるのだと初めて知った。
君は私の宝物だった。

2年くらい前から、距離が縮まらない喧嘩が少しずつ増えていった気がする。
最初は縮まったように思えても、どうもすれ違っているような感覚が拭えなかった。
そして次第にその感覚はハッキリと形になって、何度も別れが頭をよぎった。
その都度、何度も首を横に振る。
私は、君と共に生きていきたい。
生きていきたいんだ。
祈りが願いに変わった。
意志となった祈りは、歪んでいく。
今まで、君と誰かを比較したことなんてほとんどなかった。
比較する必要なんてなかった。
だって当たり前のように君が1番で、当たり前のように誰よりも愛していたから。
なのに、まるで愛を確認するかのように、君の良さを他人を落としてまで説くようになった。
焦りを感じていたのは、自分が1番よくわかっている。

しこりが、消えてくれない。
2年前、君がふと言ったんだ。
「あなたのことは好きだけど、恋愛として好きなわけじゃない」
意味がわからなかった。
昔見たドラマのセリフそっくりだった。
“愛してるけど、好きじゃない”
夫がそんなようなセリフを吐いているところを、妻である主人公が聞いてしまうのだ。
ドラマを見ていた時は、“どういう意味だろう?”と考えることに集中していて、主人公の気持ちにまで目がいかなかった。
でも今は、よく考える。
そう言われても尚、突然家出されても尚、夫のことが大切だと思っていた主人公の気持ちを。

「どうしても長く付き合ってれば、付き合った最初の頃のままではいられないよ」と君は言った。
私は、最初の頃のまま…むしろ、一緒にいればいるほど君を好きだと思ったけれど、君は違ったのだと知った瞬間だった。
出会った時、君から私に告白してくれた。
輝くような笑顔で、君は私のことを好きだと言った。
なのに、その感情はもうないのだと君は言う。
私は、何か間違いを犯したのだろうか?
お祝いごとは盛大に祝ってきた。
君の支えになれるように、寄り添ってきたつもりだった。
君が行きたいと言う所には、なるべく行けるように努力した。
外食すると喉が渇くし野菜が少ないと君が言うから、自炊を毎日頑張った。
君は、私の作るご飯を「美味しい」と頬張った。
…なのに、そのすべてがポロポロと崩れ落ちていくような感覚。
「ずっと一緒に生きていきたい」という祈りを叶えるための日々のささやかな努力が、無駄だったかのような感覚に襲われた。

そして君は、「結婚のことは考えたくない」とまで言った。
何が君をそうさせたのか、私にはわからない。
「期待しても、どうせ日本じゃできないんだから」と、君は言った。
希望を持ち、絶望を抱き、また希望を見つけ、そして絶望の淵に立たされる。
その繰り返しに、もう耐えられないのだと、君は言った。
悲しむことに疲れたのだと。
…私は、ひとりで一喜一憂していた。
いつか君と結婚したいと願って。
そうか。知らないうちに、私はひとりだったのだ。
2人で立てた夢も、いつの間にか私ひとりの夢になっていたのだ。
それを知って、悲しくて、悲しくて、泣いた。
泣く私を見て、君は呆れたようにため息をついた。
抱きしめてはくれない。
寄り添ってはくれない。
そうか…そうか…私は、本当にひとりなんだ…と、体に刻み込まれてしまった。

あの時、私はひとりなのだと体に刻まれてから、私は寂しがりになった。
自分でも自分が鬱陶しく思えるほどの寂しがり屋に。
当然、君はそんな私を鬱陶しがった。
君は私と距離を置くために、交友関係を広げるようになった。
私は余計寂しくなった。
喧嘩が絶えなくなった。
そして少しずつ、少しずつ、2人の空気の流れは別れへと向かっていった。
…まだ別れていない。
まだ、かろうじて別れていない。
でも、同棲を解消して、また戻るカップルなんて存在するのだろうか?
少なくとも私は知らない。

結局考えるのは君のことばかりだ。
ソファにドカッと腰掛けて、コップの中のコーヒーが揺れる。
「私も、君のこと好きじゃない」
独りごちてみる。
胸がズキズキと痛んで、瞳に涙が溜まった。
どういう痛みなのかわからない。
それが事実だからなのか、それとも“私”というところに傷ついているのか。
君との間に出来た溝を埋めたくて、私は体の繋がりを求めた。
それを君は「気持ち悪い」と言った。
「風俗にでも行ってみたら?」と笑った。
私は、君とシたいのに。
私は、君と愛を確認し合いたいのに。
それすらも許されなかった。

いつから?
いつから、君は私を好きじゃなくなったんだろう?
そう君に聞いたって、君はきっと少し不機嫌になりながら「好きだって言ってるじゃん」と答えるんだろう。
私には、まだ、理解できない。
君の“好き”が、どんな好きなのか…。
「信じてくれないのは傷つく」
私は、君を信じられていないのだろうか?
もう、なにがなんだか、私の脳みそでは処理がおいつかない。
ただ、寂しい。
「寂しい…寂しい…」とボソボソ呟く妖怪にでもなった気分だ。
…でも、君がいなくなった今は、寂しくないんだ。
不思議。

不思議な感覚を抱きながら、毎日を繰り返す。
君が出て行って1ヶ月が経った。
たまに夜、悲しいこととか嬉しかったこととか思い出して泣くこともあった。
でも、それもほんの30分程度で、泣いた後に寝落ちするのが常だ。
なんだかんだ、社会人は忙しい。
忙しくしていれば、毎日があっという間に過ぎていく。

ひとりの家に帰宅して、いつも通りSNSを開いた。
見た瞬間、鼓動が駆けるように速くなった。
ドッドッドッドッと音を立てて、目眩まで引き起こす。
その上、キーンと耳鳴りが始まった。
君が、数ヶ月ぶりにSNSを更新したのだ。
楽しそうに、誰かと、遊んでいる写真。
私とどこかに出かけても、最近は滅多に載せなかったのに。
床に倒れ込んだ。
上手く呼吸ができない。
勝手に涙が流れていく。
こんな時に限って、君の笑顔が思い出される。
目を閉じる。
自分の荒い呼吸音が部屋に響く。
どんどん息苦しくなっていく。
手足から血の気が引いて、指先が痺れてくる。
意識が、手放される。

ここで死んでいたとしたら、1番に気づくのは会社の人だろうか。
君じゃないんだろうな。
それを想像して、笑う。
「別れよう」と話したことが1度あった。
その時、私は死のうとした。
私が死のうとしたことなんて、私が言わなければ君は気づかなかった。
言おうか悩みに悩んで、結局君に打ち明けたんだ。
私は自分の死と引き換えに、君を家に留まらせた。
なんて最低なんだ。
こんなんだから、きっと君に好かれなくなってしまったんだ。
…なんて、思ったけど、君が私を好きじゃなくなったのは、もっと前なのだと思い出し、やるせなくなる。

君はいつも言葉が足りないか、多い。
「あなたのことは好きだけど、恋愛として好きなわけじゃない。どうしても長く付き合ってれば、付き合った最初の頃のままではいられないよ」
「恋愛として好きなわけじゃない」というのは、ほとんど恋をしたことがないから、私への感情が恋なのかどうかわからないという意味だと、後から君は説明した。
わからないなら、わかる時まで、言わなくていいじゃないか。
そもそも、まず、その説明を先にすべきなんじゃないか?
体の繋がりを求めた時「気持ち悪い」と言ったのは、私に対してではなく、行為そのものが気持ち悪いという意味だった。
でも、私が望んでいることが気持ち悪いということじゃないか。
私が望むこと=気持ち悪い。
私=気持ち悪い。
仕方なく自慰をしてみても、君の「気持ち悪い」が脳内を支配して、自分が汚れたモノに思えた。
今でも、そう思う。

私にとってセックスは、鈍い感覚を呼び起こすための手段だったのだと、思う。
リストカットする人が、リストカットすることで生きている実感を抱けるのと同じように。
それを、気持ち悪いとハッキリ言われてしまった。
どんなに頭で意味を理解しようとしても、その重たい言葉は、いつまでも脳みそにこびりついて離れてはくれない。
…私もね、たぶん、君の言葉の刃に疲れてしまった。
きっと君は、私が君の言葉で病むことを想定できていなかったんだろうね。
私は病んで、君は私を鬱陶しがって、さらに私は病んで、お互いに疲れ切ってしまった。
だから君は言った。
「距離を置こう」と。
私が死なない程度に、でも、お互いに疲れない程度に。

私も一応人間で、なんでもかんでも笑って許してあげられるような大きい器の持ち主じゃない。
ずっとピエロみたいに笑ってあげられていたらよかったんだけど、耐えられなかったみたい。
…ホッとしてる。
君がいなくなってくれて、ホッとしてる。

なのに、どうして…。
笑ってる君を見たら、すごく苦しい。
私が、ずっとそばで見ていたかった。
君の笑顔、君の喜ぶ姿、全部、全部、私が一生目に焼き付けておきたかったもの。
なのに、君は、そばにいない。
きっと、もう帰ってこない。
そんな気がしてならない。

何が悪かったのか。
私の器の小ささか。
何が悪かったのか。
私の傷つきやすさか。
…理由はきっといくらでもある。

私は、いつまでも君と笑って生きていけると思ってた。
喧嘩になっても、より距離が縮まるだけだと思ってた。
私は君が大好きで、君も私が大好きで…いつまでも、手を繋いで歩くような2人でいられると信じて疑わなかった。
でも…君は…違ったらしい。
これがまさに価値観の違いというものなのだと、思い知らされる。
君は、私と同じ夢なんて見ていなかったのだ。
私は2人で立てた夢だと思っていたけれど、最初からひとりだったのだ。
そこから、もう、既に、すれ違っていたのかもしれない。

そうか。だからか。
まるで夢のようだったと思ったのは。
各々違う方向に進んでいることにも気づかずにいたから…。

目を開けると、見慣れた部屋の床に横たわっていた。
起き上がり、顔を洗う。
歯磨きをして、ベッドに潜った。
きっとこういう日をたくさん過ごすんだろう。
そしていつか本当の別れが来て、君は新しい恋人を見つける。
そんな予感が、している。
祈りでも願いでもない。
ただの直感。
…君が幸せであってくれればいい。
そう、願っている。
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