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beautiful life 美しく
終わるとき
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昼休みか、帰り……。
正直、昼休みをちゃんと取れるか分からない状態だった。
四月から新入社員が事務の引き継ぎをするものの、その準備も出来ていない。
やる事がいっぱい過ぎて……。
「帰りに、いいですか?」
私は、葉築さんの顔を、まともに見る事ができなかった。
「うん、OK。でも、もう、すっぽかされないように会社で話そう」
「は……い」
デスクに戻る葉築さんの背中が寂しそうに見えて、胸がチクッとした。
一昨日、葉築さんと会っていたら、事態は変わっていたのかな?
私が襲われる事もなく、先生が怪我をする事もなく、会社を辞める事態にはならなかったかも……。
でも。
後悔してない。
私は、一か月休職したのちに、退職する事に決めていた。
相変わらず、葉築さんも仕事が溜まっていたようで……夜の8時頃まで、室岡さんと私と三人が、事務所に残っていた。
「葉築、お前 退院したばっかなんだから無理すんなよ」
「室岡さんも、ここんとこ毎日残業じゃないですか。無理すると足腰にきますよ?」
「俺を年寄り扱いすんじゃねぇ… とか言いながら、帰るかな。実を言うと、最近調子悪い」
「え、どうしたんですか?」
室岡さんは、立ち上がって背伸びをした後、葉築さんの耳元に顔を近付ける。
「鷲ちゃんがいるからオプラードに包むけどなぁ」
「はぁ」
「忙しすぎて小便に行く暇なくてさ、膀胱炎になったのか、ずっと何か残った感じすんだよな。しかも先っちょがジンジン痛い」
「室岡さん、それオプラードになってませんよ、声デカイし」
丸聞こえで、思わず私が笑うと、
「そうか、俺は誤魔化すのか下手だからなぁ」
へへへと笑い、
「お疲れー」
室岡さんは帰って行った。
「あの人なりに気を遣ったんだろうな」
「……はい」
夜の静かな事務所に、葉築さんと二人きり。水槽の水音が、時々聞こえてきた。
コーヒーで一息つく事に。
「濃いめの方にしてくれる?」
「……はい」
葉築さんは、濃い目の珈琲が好き。……特に深煎りの。
苦味とコクがあるのに、カフェインやタンニンの含有量が減るからだ。
インスタントサーバーでは、その味は出ないから不味いはずなんだけど。
「伊織がいれると、不思議と美味しくなる」
今夜は、柄じゃないお世辞を言う。
「室岡さんに似てきたんじゃないですか?」
「かもな」
二人、水槽を観ながらコーヒーを飲んだ。
水槽のメダカは繁殖して、また数が増えていた。
なんか、こういうまったりした時間を過ごすのって久しぶりな気がする。
穏やかな時の中、
「いつから、なの?」
不意に、葉築さんが聞いてきた。
先生の話。
「……橋元先生とは、付き合ってるわけでも、頻繁に会ってたわけでもないの」
「でもアパートには来るんだろ?」
「たまたま心配して来てくれただけ。この前も、コンビニで元彼に絡まれた所を助けてくれたから」
葉築さんは、「そっか……」と呟いて、コーヒーを飲み干した。
その横顔は、やはり寂しそうに見える。
葉築さんが頼りないとか、そういう事は絶対にないのに、そう思わせてしまうのが嫌だ。
「葉築さん……」
そんな顔をさせているくせに、私は自分の苦しさを打ち明けてしまう。
「橋元先生は、私のことを遠ざけようとしてるの。……病気の自分の元から」
欲しい物はそばにあるのに、気持ち一つで手が入らないのと。
手に入っても、それが砂のように、あっけなくすり抜けてしまうものなら……。
人は、どちらが辛いんだろうか?
「……義兄さん、再発したのか?」
休職し、自主退職したあと……。
私は、先生を説得して一緒に住むことを許して貰い、先生の最期まで一緒にいる。
私は、先生の最期を看とる気でいた。
そう葉築さんに話すと、
「それは本当に介護じゃん。そんなのは家族の役目だよ。なんで伊織が人生の棒を振ってまで一緒にいなきゃいけないんだよ? 義兄さんが拒んでるんなら尚更だよ」
納得出来ないと、反対した。
そうだ。
わかって貰えるわけがない。
26の未婚の女が、過去の男と、しかも未来のない、甘さの欠片もない、在宅緩和ケアの生活を送るなんて。
だけど。
「橋元先生を看とる家族なんて、どこにいるの?」
私は、先生を、ただの″ 昔 ″ の恋人だなんて思えない。
「そりゃ、確かに離婚はしてるけど、義兄さんにだって親くらいいるだろ?」
「……入院しているお父さんがね」
「……」
私は、先生を、家族よりも大切に思っていた時期があった。
「それに、先生は、まだ寝たきりの生活をしてる訳じゃない、体力だってあるし。医師が宣告したよりも、長く日常を送る事が出来るかもしれない」
失ったお父さんの愛情分も、私は橋元先生に注いでいた。
「きっと、辛い事ばっかりじゃないよ。先生と二人なら」
「…… ふたり、……なら、か……」
葉築さんは、それ以上何も言わなかった。
言わずに、時折、餌を蒔きながら、水槽のメダカを眺めていた。
だけど。
先に事務所を出る際に、
「どうしようもなく疲れたら、いつでも戻っておいで」
そう言ってくれた。
……こんな風に、穏やかに終わる男女の関係もあるんだなと思った。
正直、昼休みをちゃんと取れるか分からない状態だった。
四月から新入社員が事務の引き継ぎをするものの、その準備も出来ていない。
やる事がいっぱい過ぎて……。
「帰りに、いいですか?」
私は、葉築さんの顔を、まともに見る事ができなかった。
「うん、OK。でも、もう、すっぽかされないように会社で話そう」
「は……い」
デスクに戻る葉築さんの背中が寂しそうに見えて、胸がチクッとした。
一昨日、葉築さんと会っていたら、事態は変わっていたのかな?
私が襲われる事もなく、先生が怪我をする事もなく、会社を辞める事態にはならなかったかも……。
でも。
後悔してない。
私は、一か月休職したのちに、退職する事に決めていた。
相変わらず、葉築さんも仕事が溜まっていたようで……夜の8時頃まで、室岡さんと私と三人が、事務所に残っていた。
「葉築、お前 退院したばっかなんだから無理すんなよ」
「室岡さんも、ここんとこ毎日残業じゃないですか。無理すると足腰にきますよ?」
「俺を年寄り扱いすんじゃねぇ… とか言いながら、帰るかな。実を言うと、最近調子悪い」
「え、どうしたんですか?」
室岡さんは、立ち上がって背伸びをした後、葉築さんの耳元に顔を近付ける。
「鷲ちゃんがいるからオプラードに包むけどなぁ」
「はぁ」
「忙しすぎて小便に行く暇なくてさ、膀胱炎になったのか、ずっと何か残った感じすんだよな。しかも先っちょがジンジン痛い」
「室岡さん、それオプラードになってませんよ、声デカイし」
丸聞こえで、思わず私が笑うと、
「そうか、俺は誤魔化すのか下手だからなぁ」
へへへと笑い、
「お疲れー」
室岡さんは帰って行った。
「あの人なりに気を遣ったんだろうな」
「……はい」
夜の静かな事務所に、葉築さんと二人きり。水槽の水音が、時々聞こえてきた。
コーヒーで一息つく事に。
「濃いめの方にしてくれる?」
「……はい」
葉築さんは、濃い目の珈琲が好き。……特に深煎りの。
苦味とコクがあるのに、カフェインやタンニンの含有量が減るからだ。
インスタントサーバーでは、その味は出ないから不味いはずなんだけど。
「伊織がいれると、不思議と美味しくなる」
今夜は、柄じゃないお世辞を言う。
「室岡さんに似てきたんじゃないですか?」
「かもな」
二人、水槽を観ながらコーヒーを飲んだ。
水槽のメダカは繁殖して、また数が増えていた。
なんか、こういうまったりした時間を過ごすのって久しぶりな気がする。
穏やかな時の中、
「いつから、なの?」
不意に、葉築さんが聞いてきた。
先生の話。
「……橋元先生とは、付き合ってるわけでも、頻繁に会ってたわけでもないの」
「でもアパートには来るんだろ?」
「たまたま心配して来てくれただけ。この前も、コンビニで元彼に絡まれた所を助けてくれたから」
葉築さんは、「そっか……」と呟いて、コーヒーを飲み干した。
その横顔は、やはり寂しそうに見える。
葉築さんが頼りないとか、そういう事は絶対にないのに、そう思わせてしまうのが嫌だ。
「葉築さん……」
そんな顔をさせているくせに、私は自分の苦しさを打ち明けてしまう。
「橋元先生は、私のことを遠ざけようとしてるの。……病気の自分の元から」
欲しい物はそばにあるのに、気持ち一つで手が入らないのと。
手に入っても、それが砂のように、あっけなくすり抜けてしまうものなら……。
人は、どちらが辛いんだろうか?
「……義兄さん、再発したのか?」
休職し、自主退職したあと……。
私は、先生を説得して一緒に住むことを許して貰い、先生の最期まで一緒にいる。
私は、先生の最期を看とる気でいた。
そう葉築さんに話すと、
「それは本当に介護じゃん。そんなのは家族の役目だよ。なんで伊織が人生の棒を振ってまで一緒にいなきゃいけないんだよ? 義兄さんが拒んでるんなら尚更だよ」
納得出来ないと、反対した。
そうだ。
わかって貰えるわけがない。
26の未婚の女が、過去の男と、しかも未来のない、甘さの欠片もない、在宅緩和ケアの生活を送るなんて。
だけど。
「橋元先生を看とる家族なんて、どこにいるの?」
私は、先生を、ただの″ 昔 ″ の恋人だなんて思えない。
「そりゃ、確かに離婚はしてるけど、義兄さんにだって親くらいいるだろ?」
「……入院しているお父さんがね」
「……」
私は、先生を、家族よりも大切に思っていた時期があった。
「それに、先生は、まだ寝たきりの生活をしてる訳じゃない、体力だってあるし。医師が宣告したよりも、長く日常を送る事が出来るかもしれない」
失ったお父さんの愛情分も、私は橋元先生に注いでいた。
「きっと、辛い事ばっかりじゃないよ。先生と二人なら」
「…… ふたり、……なら、か……」
葉築さんは、それ以上何も言わなかった。
言わずに、時折、餌を蒔きながら、水槽のメダカを眺めていた。
だけど。
先に事務所を出る際に、
「どうしようもなく疲れたら、いつでも戻っておいで」
そう言ってくれた。
……こんな風に、穏やかに終わる男女の関係もあるんだなと思った。
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