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1部 3章

逃げる先にも災難 3

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 ひづめが大地を叩く音が近づいてくる。
 オレはシルキアの頭に顔を埋め、目を瞑り、覚悟を決めた。
 戦ってやる。
 相手がどんなヤツだとしても、絶対に生き延びてやる。
 最悪……相打ちになっても、シルキアだけは守る。
 守るんだ!

 馬の姿が見えた。
 灰色の毛並みに、黒いたてがみ。
 見たことない体色で。
 美しい、と素直に思った。

 馬の上には、人がいる。
 二人か? 鞍の左右で揺れている足の数が、全部で四本に見えるが。
 もしそうなら、二対一。不利だ。いや、不利だなんて考えるな。やる、やれる、やってやる! 
 近づいてきた馬は、少し離れたところで止まった。
 叫ばなくても声は聞こえるけれど、手も剣も届かない距離。
 クソ。内心で舌打ちする。
 相手は弓を使えるんだ。近づいてこないのは当然か。

 オレは騎乗者をジッと睨む。
 ……女の人、か?
 顔立ちは、どちらかと言えば、女性的な気がする。
 どんな生き方をしてきたらそうも白くなるのかと思うほど青白い顔に、骨がちょっと浮き出て見えるくらい肉が薄い頬。薄い唇は少し黒く見える。血色が悪いのだろうか。
 切れ長の目にある焦げ茶色の瞳は、とても静かだ。
 鞍の脇に見える足の数は、やはり四本だった。ということは、もう一人いることは確かだが、後ろにいる人物の顔はまったく見えない。けれど、女性か、または子どもであるという予測は立てられた。前にいる女性の胸側に回っている二本の腕が極めて華奢だからだ。
 
「少年」

 掠れた声だった。
 喉か胸かに、痰か何かが絡んでいるような、そんな濁り方だ。
 年寄りか? それとも、あの顔色からして酷い風邪か何かで身体を壊している?
 何にせよ、油断だけはするな。相手が高齢だろうが病人だろうが。
 オレは返事をしないで、そちらを見据えて短剣の柄を握り直す。緊張のせいか汗がどんどんと出て、柄がぬめってぬめってしょうがない。

「大丈夫ですか? 危害を加えられてはいませんか?」

 丁寧な物腰だ。
 さっきまで生きていた悪党どもとは、まるで違う。
 信用してしまいそうな、してしまいたくなるような、そんな空気感だ。
 しかし。
 果たして、信用していいのだろうか。
 こちらを騙すために物腰柔らかな言動をする悪党だっているはずだ。

「助けが欲しいのであれば、その短剣を捨ててください。武器を所持している限り、こちらとしても近づきたくはありませんので」

 武器を捨てろ、だって?
 そんなこと、できるか。
 ……でも。
 助けてもらえるものなら、助けて欲しいに決まっている。
 ……クソ。
 疑心暗鬼が邪魔をする。
 人を信じられない。
 どうしたらいいんだ。

「信じられないのも理解できます。悪党に襲われていたのであれば、尚更。しかし、信じてもらわなければ助けることもできません。助けがいらないのであれば、そう言ってください。私たちはこのまま去ります。危害を加えることはありません」

 迷いが、駆け巡る。
 縋りたい気持ちと、縋ってはいけない気持ちが、せめぎ合う。
 どうしたら。
「……お兄ちゃん?」
 シルキアの声がした。
 随分と久々に聞いたような気がした。
「……どうした?」
 見下ろす目をしっかりと見返したまま、オレは妹に返事をした。
「……今の声の人、多分、イイ人だよぉ」
「……どうして?」
「……なんとなくぅ」
 なんとなく。
「……そっか」
「……それに、もう、休も?」
 休もう。
「……え?」
「……お兄ちゃんと一緒なら、どんなことでも、平気だから」
 どんなことでも。
「……シルキア」
「……お兄ちゃんと一緒なら、痛いのだって、一瞬だよ」
 痛いのだって、一瞬。
 それは、妹の覚悟。
 幼いから、どこまで本気なのかわからない。
 もしかすると、感覚で言っているだけかもしれない。

 けれど。
 その言葉は。
 休もうという言葉は。
 一緒なら痛いのも一瞬という言葉は。
 オレの張り詰めていたものを強く弾いた。
 ああ、オレはずっと頑張っていた。
 魔族どもが襲来して。
 みんな、みんな死んじゃって。
 妹を守って逃げだして。
 ずっとずっと頑張ってきて、もう、もう……。
 疲れた。
 疲れていたんだ。

 力が抜ける。
 すとん、と両膝が折れる。
 手から短剣が落ちる。
 涙が溢れてきた。
「助けてください。コテキから逃げてきて、もう、限界なんです」
 オレは懇願した。

「もちろんです。助けましょう」
 馬がゆっくりと近づいてきて、すぐ傍で止まる。
 側面から見上げる状態になって、確かめることができた。
 やっぱり二人いた。
 そして見た感じ、やっぱりもう一人は子どもだった。
 身体が全体的に小さい。背は低く、肉付きも薄い。かなり華奢だ。
 こちらを見下ろしてくる灰色の瞳は、とても凪いでいる。
 こんな無感動な目をする子どもに、オレは会ったことがなかった。

 手綱を繰っていた人が降り立つ。
 肩辺りで切り揃えられた黒髪には、所々白いものが混じっていた。染めているわけではなく、生理的な白髪だろう。
 しかし、一つ一つの所作からは、年老いた感じはまるでしない。
 年齢の推測は立てられなかった。

「こめかみの傷、見せてください」
「え、あ、ッ」
 鋭い痛みが左側頭部を襲った。悪人たちがいなくなって緊張の糸が緩んだのと、『こめかみの傷』と指摘されたことで意識したせいで、身体が負傷を思い出したのだ。
「触ってはダメ」
 痛みに、反射的に手で触れそうになったが、ぴしゃりと止められた。
 近づいてきたその人が、オレの左こめかみに顔を寄せる。
「……ぱっくり裂けていますが、深くはなさそうですね。包帯を巻きましょう」
「ありがと、ございます」
 そしてオレは、されるがままになった。
 治療してくれるという提案だ、受け入れるに決まっている。
「薬も塗ります。沁みますが、我慢してくださいね」
「はい……ううっ」
 ひりりと左こめかみに刺すような痛みが走り、思わず呻いてしまった。なんか、申し訳ないというか、恥ずかしくなる。薬まで使ってくれたというのに呻いてしまうだなんて。
 これ以上は醜態をさらさないようにと、意識して身動きしないようにする。
 頭に何か巻き付く感触。圧迫される感じと、ヒリヒリとした熱と痺れ。
「はい、終わりました。ズレてしまうので触らないように」
「はいっ、本当にありがとうございます」
 オレは頭を下げた。

「さて、それで……馬には乗れますか?」
「えっと、歩かせるくらいはできます。ただ、走らせるのは不慣れです」
「充分です。では、抱えている子と一緒に乗って、手綱を握ってください。馬の誘導は私が歩いてしますので」
 そう言うと、その人は右手を差し出してきた。
 オレは短剣を握っていた右手で握る。
 柄よりも冷たかった。
 でも、柄よりも柔らかかった。
 肌はカサついているけれど、間違いなく、人の手だった。
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