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1部 1章
鶏と卵は商売の基礎 2
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「あっ、お兄ちゃんあそこっ、おじさんいるよっ」
妹に顔を向けると、カノジョは左斜め後ろを指差していた。
そちらを見れば、確かに、グレンさんが上半身裸で歩いていた。
上半身裸で、だ。
自宅のあるこちらではなく、まだどこか行くらしくオレたちに背を向け、グレンさんは遠ざかっていく。
その背中は大きくて広くて、ゴツゴツしている。筋肉が、塊ごとというか部位ごとに識別できるくらい、くっきりと付いているのだ。背中だけではない。首も、肩も、両腕も、太くて分厚い。以前、六十二歳になったと聞いたが、とてもそうとは思えない。
そんな、三十二歳であり現役の守備隊士である自分の父親よりも逞しい身体を、オレは妹の手を引いて追う。
グレンさんは、百九十近くはあるだろう長身に相応しい大股でズンズンと進んで行くものだから、距離は開いていく一方だ。
シルキアに「ちょっと走るよ」と声をかけようかと思ったところで、やめる。
グレンさんがどこで何をするのか、興味が湧いたからだ。
このままの距離を保っでいれば気付かれることもなく、その好奇心を満たすことができるだろう。
「――グレンおじさぁ~ん!」
と、オレがそんないやらしい思い付きをしたすぐのこと。
妹の可愛らしい声が響き渡った。
足を止め、振り返るグレンさん。
「……シルキア。呼んでくれてありがとな」
労うと、妹は満面の笑みを浮かべた。
企みは失敗に終わったが、そんなもの、なくなったらなくなったで構わないことだ。
オレたち兄妹に、グレンさんが右手を軽く挙げて笑う。
「走っていこうか」
妹は元気いっぱいに頷いた。
駆け寄り、傍で見上げるグレンさんの身体は、正面も後ろ姿同様に凄い。いや、盛り上がった胸筋や六つに割れた腹筋は、筋肉!という印象が強く、背中よりも圧倒される。
否。刺激的なのは、筋肉だけではない。それ以上のものがある。
無数の傷だ。
グレンさんの体躯には、数え切れないほどの古い傷跡がある。
物心ついたときから今の今までずっと商売人だったとしか、おじさんの過去について聞かされたことはない。
一体、どんな商売人だったのだろう。
こんな古傷ができるものなのか? 凄腕の商売人って。
「おはようございます、グレンさん」
「おはよぉございまぁすっ」
オレたち兄妹は、グレンさんの前で横並びに立って、まずはちゃんと朝の挨拶をした。
大きな両手がぬっと伸びてくる。
頭を撫でられた。母や学舎の先生がしてくれるような優しいものではなく、目がぐわんぐわんするほどの荒々しさだ。
けれど、不思議と、嫌な思いはしなかった。酒に酔って上機嫌になっている父親にされるよりも、全然……。
これについては、本当に、自分でもよくわからない気持ちだ。父親のことが嫌いなんてことはないし、泥酔して暴れるなんてこともないし、守備隊の一人として町を守っていることを誇りにすら思っているのに。
不思議だ、本当に。
「おはようさん、マークベンチ兄妹。早起きだなぁ。早起きはイイことだぞ」
早起きしよう、と思って早起きしたのなら、それはいいことだろう。
だが、オレたち兄妹は、早く起きたくて起きたわけではない。
とはいえ、いちいち本当のことを説明する必要はないだろう。
「あのねあのねぇ、お兄ちゃんがねぇ、気持ち悪くてオエオエしてたのぉ」
……まあ、言わなくてもいいことだったが、言ったらダメなことでもない。
可愛い妹は、可愛らしく、事実を告げただけなのだから。
笑みで細くなっていたグレンさんの目が、途端、真剣というか厳しいものになった。
ドキッとする。怖い、という感情はないけれど。
「アクセル、吐いたのか?」
本日初めて自分の名を呼ばれた。
誤魔化すこともできたのに、素直になろうという思いが強く芽生えたのは、そのせいだろうか。
「はい。今はもう平気ですが」
ふむ、と相槌を打ったグレンさんは、巨体を屈めてオレの顔にその鋭い目を近づけた。
「目、肌、唇の色などに変わったところはないが……昨晩、親の作ったもの以外で何か食べたか? 飲んだものにも、いつもと違うものはあったか?」
親の作ったものを省いたのは、もしそこに原因があるなら妹も体調不良になっているはずだから……という理論だろう。
「何も食べていませんし、飲んだものも井戸で汲んだ水だけです」
昨日は《イツミ川》に、親友たちと遊びに行くようなこともなかった。午前中は学舎で勉学に励んだあと、町中をぶらつきながら妹と遊び、ギルドで子どもでもやれそうな仕事はないか探して、とくになかったから母親の仕事を手伝いに行って。
そうこうして日は落ちて、仕事の報酬としてもらった豆類や根菜類を抱えて、母と妹と帰宅し、母が煮込み料理を始めたから、オレは妹と自主学習を始めた。
で、父親が帰ってきて、父親が保存してあったパン種で生地を作り始め、母の煮込み料理が完成し、焼き立てのパンが出来上がり、家族揃って夕食を食べた。
それから、濡らした布巾で全身を清め、煎じたハーブで口内を洗浄し、すぐに寝た。貧困というわけではないけれど決して豊かでもないこの町の一般家庭の例に洩れず、無駄遣いできる油も蝋もないからだ。火を灯し続けるなんて贅沢の極み。夜はさっさと寝ればいい。
と、まあ、昨日一日の行動をざっくり思い返してみたが……うん、変な飲み食いはしていないはずだ。
「そうか。では、眠っている間に、内臓が傷んだのかもしれんなぁ」
内臓が傷んだ?
まあ、嘔吐したわけだから、そう考えるものか。
でも。
でも、内臓がっていうのは、なんか、違うような気がする。
自分でも曖昧な、漠然とした感覚でしかないが、原因は別にある気がする。
気がする……だけで、それが何か、具体的には見えていないけれど。
身体ではなくて、別の、何か……。
心? 精神的な問題、とか?
わからないな。考えてもしょうがない、か。
妹に顔を向けると、カノジョは左斜め後ろを指差していた。
そちらを見れば、確かに、グレンさんが上半身裸で歩いていた。
上半身裸で、だ。
自宅のあるこちらではなく、まだどこか行くらしくオレたちに背を向け、グレンさんは遠ざかっていく。
その背中は大きくて広くて、ゴツゴツしている。筋肉が、塊ごとというか部位ごとに識別できるくらい、くっきりと付いているのだ。背中だけではない。首も、肩も、両腕も、太くて分厚い。以前、六十二歳になったと聞いたが、とてもそうとは思えない。
そんな、三十二歳であり現役の守備隊士である自分の父親よりも逞しい身体を、オレは妹の手を引いて追う。
グレンさんは、百九十近くはあるだろう長身に相応しい大股でズンズンと進んで行くものだから、距離は開いていく一方だ。
シルキアに「ちょっと走るよ」と声をかけようかと思ったところで、やめる。
グレンさんがどこで何をするのか、興味が湧いたからだ。
このままの距離を保っでいれば気付かれることもなく、その好奇心を満たすことができるだろう。
「――グレンおじさぁ~ん!」
と、オレがそんないやらしい思い付きをしたすぐのこと。
妹の可愛らしい声が響き渡った。
足を止め、振り返るグレンさん。
「……シルキア。呼んでくれてありがとな」
労うと、妹は満面の笑みを浮かべた。
企みは失敗に終わったが、そんなもの、なくなったらなくなったで構わないことだ。
オレたち兄妹に、グレンさんが右手を軽く挙げて笑う。
「走っていこうか」
妹は元気いっぱいに頷いた。
駆け寄り、傍で見上げるグレンさんの身体は、正面も後ろ姿同様に凄い。いや、盛り上がった胸筋や六つに割れた腹筋は、筋肉!という印象が強く、背中よりも圧倒される。
否。刺激的なのは、筋肉だけではない。それ以上のものがある。
無数の傷だ。
グレンさんの体躯には、数え切れないほどの古い傷跡がある。
物心ついたときから今の今までずっと商売人だったとしか、おじさんの過去について聞かされたことはない。
一体、どんな商売人だったのだろう。
こんな古傷ができるものなのか? 凄腕の商売人って。
「おはようございます、グレンさん」
「おはよぉございまぁすっ」
オレたち兄妹は、グレンさんの前で横並びに立って、まずはちゃんと朝の挨拶をした。
大きな両手がぬっと伸びてくる。
頭を撫でられた。母や学舎の先生がしてくれるような優しいものではなく、目がぐわんぐわんするほどの荒々しさだ。
けれど、不思議と、嫌な思いはしなかった。酒に酔って上機嫌になっている父親にされるよりも、全然……。
これについては、本当に、自分でもよくわからない気持ちだ。父親のことが嫌いなんてことはないし、泥酔して暴れるなんてこともないし、守備隊の一人として町を守っていることを誇りにすら思っているのに。
不思議だ、本当に。
「おはようさん、マークベンチ兄妹。早起きだなぁ。早起きはイイことだぞ」
早起きしよう、と思って早起きしたのなら、それはいいことだろう。
だが、オレたち兄妹は、早く起きたくて起きたわけではない。
とはいえ、いちいち本当のことを説明する必要はないだろう。
「あのねあのねぇ、お兄ちゃんがねぇ、気持ち悪くてオエオエしてたのぉ」
……まあ、言わなくてもいいことだったが、言ったらダメなことでもない。
可愛い妹は、可愛らしく、事実を告げただけなのだから。
笑みで細くなっていたグレンさんの目が、途端、真剣というか厳しいものになった。
ドキッとする。怖い、という感情はないけれど。
「アクセル、吐いたのか?」
本日初めて自分の名を呼ばれた。
誤魔化すこともできたのに、素直になろうという思いが強く芽生えたのは、そのせいだろうか。
「はい。今はもう平気ですが」
ふむ、と相槌を打ったグレンさんは、巨体を屈めてオレの顔にその鋭い目を近づけた。
「目、肌、唇の色などに変わったところはないが……昨晩、親の作ったもの以外で何か食べたか? 飲んだものにも、いつもと違うものはあったか?」
親の作ったものを省いたのは、もしそこに原因があるなら妹も体調不良になっているはずだから……という理論だろう。
「何も食べていませんし、飲んだものも井戸で汲んだ水だけです」
昨日は《イツミ川》に、親友たちと遊びに行くようなこともなかった。午前中は学舎で勉学に励んだあと、町中をぶらつきながら妹と遊び、ギルドで子どもでもやれそうな仕事はないか探して、とくになかったから母親の仕事を手伝いに行って。
そうこうして日は落ちて、仕事の報酬としてもらった豆類や根菜類を抱えて、母と妹と帰宅し、母が煮込み料理を始めたから、オレは妹と自主学習を始めた。
で、父親が帰ってきて、父親が保存してあったパン種で生地を作り始め、母の煮込み料理が完成し、焼き立てのパンが出来上がり、家族揃って夕食を食べた。
それから、濡らした布巾で全身を清め、煎じたハーブで口内を洗浄し、すぐに寝た。貧困というわけではないけれど決して豊かでもないこの町の一般家庭の例に洩れず、無駄遣いできる油も蝋もないからだ。火を灯し続けるなんて贅沢の極み。夜はさっさと寝ればいい。
と、まあ、昨日一日の行動をざっくり思い返してみたが……うん、変な飲み食いはしていないはずだ。
「そうか。では、眠っている間に、内臓が傷んだのかもしれんなぁ」
内臓が傷んだ?
まあ、嘔吐したわけだから、そう考えるものか。
でも。
でも、内臓がっていうのは、なんか、違うような気がする。
自分でも曖昧な、漠然とした感覚でしかないが、原因は別にある気がする。
気がする……だけで、それが何か、具体的には見えていないけれど。
身体ではなくて、別の、何か……。
心? 精神的な問題、とか?
わからないな。考えてもしょうがない、か。
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