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『とな』えた呪文は届かない
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気がつけば、彼女の姿を追いかけていた。自分が所属する営業一課から、彼女が所属する営業二課はよく見える。今日も簡素に束ねられた黒髪が、彼女が歩くたび、右に左に揺れている。
だれもが嫌がる作業を率先して引き受ける彼女。そのせいで、目立たず、小難しく、煩わしいものは、すべて彼女に回ってくる。さっき彼女が終わらせたプリンターのインク交換もそういうものの一部。手を洗うためにだろう、立ち上がった彼女を追いかけて僕も離席する。
静かに業務を続ける彼女にいつの間にか惹かれていた。しかし課の違う僕らは、会話を交わす機会さえ得難いのが実情だ。
あまつさえ彼女に迷惑をかけ、さらに僕の周りで姦しく囀る他の女性社員たち。さすがだね、すごいね、素敵だね、センス良いね。邪険にするわけにもいかず、汎用性の高い相槌を打ちつつ、彼女を観察するのが精一杯。だからこれは千載一遇のチャンス。彼女がお気に入りの温かい純正ココアの缶飲料を握りしめ、僕は廊下でこっそり彼女を待つ。
水が冷たかったのだろう、手を擦り合わせつつ彼女が息を吹き掛けている。声をかけるつもりが、その仕草にやられてつい口ごもってしまった。営業先や他の女性相手であれば、掃いて捨てるくらい甘い台詞がわいてくるのに。
困った僕は黙って缶を渡す。うっかり触れた彼女の指先が余りにも冷たくて、僕は反射的にその手を握りかけた。慌てて手を引っ込めたものだから、僕の気持ちを込めた魔法の呪文は、彼女には聞こえぬまま宙ぶらりん。
びっくりしたように目をぱちくりさせる彼女を置いて、僕は自分の席に引き返す。無性に自分が恥ずかしい。知らず知らずに自惚れていた僕は、手を伸ばせば彼女が喜んで受け入れてくれる、そう思い込んでいた。現実は厳しい。
軽く自己嫌悪に陥っていたのに、休憩時間の彼女を見て僕はまた密かに舞い上がった。ゴミ箱に飲み終わった缶を捨てた彼女は、にっこり微笑んでいた。まるで満足の行く出来で書類が完成したかのように、柔らかい笑顔で。
立ち尽くす僕の前を横切る直前、彼女の声がまっすぐ廊下に響いた。誰に向かって? 周りを確認した僕を見て、彼女が小さく笑う。
「お疲れ様です」
僕が言いたかった魔法の呪文。彼女にしてみれば、ただの挨拶だろう八文字。にもかかわらず僕は馬鹿みたいに浮かれて、次の作戦を考えている。
だれもが嫌がる作業を率先して引き受ける彼女。そのせいで、目立たず、小難しく、煩わしいものは、すべて彼女に回ってくる。さっき彼女が終わらせたプリンターのインク交換もそういうものの一部。手を洗うためにだろう、立ち上がった彼女を追いかけて僕も離席する。
静かに業務を続ける彼女にいつの間にか惹かれていた。しかし課の違う僕らは、会話を交わす機会さえ得難いのが実情だ。
あまつさえ彼女に迷惑をかけ、さらに僕の周りで姦しく囀る他の女性社員たち。さすがだね、すごいね、素敵だね、センス良いね。邪険にするわけにもいかず、汎用性の高い相槌を打ちつつ、彼女を観察するのが精一杯。だからこれは千載一遇のチャンス。彼女がお気に入りの温かい純正ココアの缶飲料を握りしめ、僕は廊下でこっそり彼女を待つ。
水が冷たかったのだろう、手を擦り合わせつつ彼女が息を吹き掛けている。声をかけるつもりが、その仕草にやられてつい口ごもってしまった。営業先や他の女性相手であれば、掃いて捨てるくらい甘い台詞がわいてくるのに。
困った僕は黙って缶を渡す。うっかり触れた彼女の指先が余りにも冷たくて、僕は反射的にその手を握りかけた。慌てて手を引っ込めたものだから、僕の気持ちを込めた魔法の呪文は、彼女には聞こえぬまま宙ぶらりん。
びっくりしたように目をぱちくりさせる彼女を置いて、僕は自分の席に引き返す。無性に自分が恥ずかしい。知らず知らずに自惚れていた僕は、手を伸ばせば彼女が喜んで受け入れてくれる、そう思い込んでいた。現実は厳しい。
軽く自己嫌悪に陥っていたのに、休憩時間の彼女を見て僕はまた密かに舞い上がった。ゴミ箱に飲み終わった缶を捨てた彼女は、にっこり微笑んでいた。まるで満足の行く出来で書類が完成したかのように、柔らかい笑顔で。
立ち尽くす僕の前を横切る直前、彼女の声がまっすぐ廊下に響いた。誰に向かって? 周りを確認した僕を見て、彼女が小さく笑う。
「お疲れ様です」
僕が言いたかった魔法の呪文。彼女にしてみれば、ただの挨拶だろう八文字。にもかかわらず僕は馬鹿みたいに浮かれて、次の作戦を考えている。
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