家路を飾るは竜胆の花

石河 翠

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「フランシスカ」

 とても優しい声で名前を呼ばれた気がした。両親亡き今、私の名前を呼んでくれるひとなんて、もうどこにもいないと思っていたのに。慌てて身体を起こそうとしたが、うまく力が入らない。必死でまぶたを開け、目だけを動かして確認すると、私は自室の寝台の上に寝かされていた。

 どうやら、意識を失った後に誰かに助けられたらしい。まさかとは思うが、送り犬が屋敷まで送り届けてくれたのだろうか。転んでしまったなら休む振りをしてやり過ごさねば、たちまち食い殺されてしまうと聞いていたのに、何とも心優しい怪異もいたものだ。

 夫や姑、夫の幼馴染、屋敷の使用人。友人知人、社交界の面々。これだけ多くの人間がいたというのに、誰よりも優しく手を差し伸べてくれたのは、通りすがりの怪異だけだったなんて。生温かい舌で顔を舐められたとき、ほんの少しだけ食べられるのかもしれないと思ったし、あの子になら食べられてもいいかと思えた。けれど、送り犬はただ単に私を慰めようとしていたのかもしれなかった。

 ああ、何かしら礼をしなくては。お肉がいいだろうか。それとも寝心地の良い毛布が好みだろうか。伝承では、礼を言い、贈り物をすることで送り犬は満足して帰っていくらしい。そこまで考えて、つい深いため息が出た。

「……帰ってほしくなんてないわ」

 お礼は何万回だって言いたい。贈り物だっていくらでも貢ぎたい。けれど離れ離れになるのだけは耐えられなかった。ようやっと見つけた、私に寄り添ってくれる愛しい存在。

「何に帰ってほしくないの?」

 急に声をかけられて、心臓が止まりそうになった。どうして、夫が私の部屋にいるのか。幼馴染の女性を侍らせた状態でしか、夫は私の前に姿を現さないのが常なのに、一体どういう風の吹き回しかしら。

「ああ、良かった。きっと大丈夫だと信じていたけれど、はもう三日も眠ったままだったんだよ」

 夫の言葉に私は驚いた。そもそも夜会があった日から、三日も経っているなんて信じられない。何より、私が目覚めたことを喜ぶなんて。あわよくば死んでしまえ。彼は結婚した日からずっと、何よりそう望んでいたはずなのに。

たちの馬車は、帰宅途中に落石に巻き込まれて大破してしまったんだ。恥ずかしながら、僕たちはみんな動けなくなってしまってね。君が痛む身体を引きずりながら、助けを求めに行ってくれた。君のお陰で、僕は助かったんだ」
「落石? 馬車が大破? 一体、何をおっしゃって……」
「怪我をしている状態で長時間動き回っていたから、君は熱中症も発症してしまって、一時は本当に危なかったんだ。君が目覚めてくれて、本当によかった」

 夫は目を潤ませながら、寝台の横に跪く。私の両手を握りしめる夫は、小さく震えていた。触れた肌は、火傷をしそうなほど熱い。
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