5 / 6
(5)
しおりを挟む
アデレイドは、人生を諦めていた。夫となった侯爵に目をつけられたときから、坂道を転がり落ちるようにすべてが悪い方向へと向かっていく。
それでも夫に愛想を振りまくことができれば、幸福に暮らせたのかもしれない。けれどアデレイドは、自分を不幸のどん底に落とした人間に媚びを売ることなどできなかった。
日に日に悪くなっていく待遇でも、じっと下を向いて耐えた。そんなときだ、夫が連れてきた美しいひとが彼女に手を差しのべてくれたのは。
「侯爵夫人、ここから逃げ出したいとは思いませんか?」
「あなたは一体……」
「ご安心ください。静音魔法をかけました。この中の声は、外には聞こえません。もともとわたしの役目は、各地の貴族の不正を暴くこと。けれど、ここで辛い想いをされているアデレイドさまを放っておくことなどできません」
「ですが、私に関わればご迷惑をおかけしてしまいます」
「いいえ、きっとうまくいきますとも。どうぞわたしを頼ってはもらえませんか」
しとやかで蠱惑的な美女にしか見えない彼は、自身のことを男だと明かした上で、たくさんのことをアデレイドに教えてくれた。
平民としての暮らし方にお金の使い方。安心できるツテを紹介してもらい、脱出の準備まで整えてくれた。
夫がなぜ自分を虐げるのかについても説明してもらったときには、呆れて物も言えなかったくらいだ。
「こういう不器用な男性を魅力的と見る女性もいらっしゃるかと思いますが、正直お勧めできません。モラハラ男なんてゴミ虫以下です」
「ありがとう。ゴミに何を言われても気にしてはいけないのね」
「その意気です」
表向きの関係とはまた別の、密やかに積み上げられた信頼関係。夫は、たびたびアデレイドたちの関係を気にしていたらしい。
「一体部屋の中で何を話していたんだ」
「殿方には聞かせられないお話です。そうでしょう、奥さま?」
神妙にうつむいたままのアデレイドの姿に興奮した男は、そのまま寝室に引っ張って行こうとしたが、「がっつく男は、みっともないですよ」とたしなめられていた。おかげでアデレイドは、嫌で嫌でたまらなかった夜伽からも解放されたのだ。
「奥さまが素直になったら、ご褒美に差し上げればよいでしょう? 今は少し、放置しておくべきです」
「ふふふ、それもそうだな。モニカ、気に入った。君にも褒美をくれてやろう」
夜伽が褒美だなんて、馬鹿な男だ。鼻歌まじりでその場を後にした男は最後まで気がつかなかったらしい。うつむいたアデレイドが未来を思い描き、その瞳をきらめかせていたことに。
そうして、ようやく訪れた決行の日。アデレイドは今まであった悲しいことを思い浮かべて、一世一代の大舞台に臨んだのだった。
一番困ったことは、明るい雰囲気を出さないようにすることだった。なにせ、出ていきたくて仕方のない屋敷から離れられるのだ、うっかり笑みがこぼれてしまいそうになる。そのためアデレイドは、口の中を噛み続けて悲壮な顔を保ちつづけた。
「奥さま。いいえ、アデレイド。さっさとこの屋敷から出ていきなさい。あなたは侯爵夫人の地位を失いました。今日からわたしが、その役目を担います」
興奮していることがバレないように不健康な化粧をしたアデレイドは、武者震いで指先まで震えていた。おまけに頭が真っ白になったのか、打ち合わせていた台詞も出てこないありさまだ。
事前に荷物の準備をしてもらっていなければ、出ていくきっかけを見失っていたかもしれない。
「ぼんやりしていないで、さっさと支度なさい。わたしは、あなたのためを思って言っているんですよ」
「……私のため?」
「ええ、どこへなりとも好きに行ってしまいなさい」
夫に執着され、屋敷から一歩も出られなかったアデレイド。美しいひとのおかげでたくさんの証拠を集めてもらった。裁判をして離婚を求める方法もあったけれど、そうなったら夫は意地でもアデレイドを離さないだろう。だから、ふたりで夫を罠にかけることにした。
彼は、アデレイドが屋敷を離れて生きていけるとは思っていない。世間知らずの貴族女性がひとりで出歩けば人さらいに遭うのが関の山。
けれどアデレイドは変わった。こんなとき、一番大事なのは気持ちの強さだ。あがいてあがいて、どんなことがあっても逃げてやると思う力がなければ脱出は成功しないのだから。
「きっと、荷物をまとめることもできないでしょうからこちらで準備しておきました」
旅行カバンには、コツコツと換金してもらっておいた現金が入っていた。アクセサリーの持ち主がアデレイドだとバレないように、装飾品はバラしてから売ってある。これでしばらくは働かなくても十分に暮らしていけるそうだ。
「お気の毒な元侯爵夫人に、幸運が訪れますよように」
その言葉を聞いたとき、アデレイドはもうこの美しいひとには会えないのだと気がついた。もともと別件で侯爵家に潜入しただけ。義侠心で助けてもらったが、彼はまた他の悪い貴族の一門を潰し、囚われの身の上の女性たちを助けに行くに違いない。
悲しいことに自分のような境遇の女性は、そうたいして珍しくはないのだから。きっとすぐに彼に忘れられてしまうのだろう。
目からあふれる涙は、嬉し涙だ。そうであってほしい。大嫌いな夫から離れることが、大切なあのひとから離れることを同時に意味するなんて、この瞬間まで気がつかなかった。
(もう、お目にかかることもないでしょう。どうぞお元気で)
愛しているの言葉は飲み込んで、アデレイドは愛しいひとの前から逃げ去った。
それでも夫に愛想を振りまくことができれば、幸福に暮らせたのかもしれない。けれどアデレイドは、自分を不幸のどん底に落とした人間に媚びを売ることなどできなかった。
日に日に悪くなっていく待遇でも、じっと下を向いて耐えた。そんなときだ、夫が連れてきた美しいひとが彼女に手を差しのべてくれたのは。
「侯爵夫人、ここから逃げ出したいとは思いませんか?」
「あなたは一体……」
「ご安心ください。静音魔法をかけました。この中の声は、外には聞こえません。もともとわたしの役目は、各地の貴族の不正を暴くこと。けれど、ここで辛い想いをされているアデレイドさまを放っておくことなどできません」
「ですが、私に関わればご迷惑をおかけしてしまいます」
「いいえ、きっとうまくいきますとも。どうぞわたしを頼ってはもらえませんか」
しとやかで蠱惑的な美女にしか見えない彼は、自身のことを男だと明かした上で、たくさんのことをアデレイドに教えてくれた。
平民としての暮らし方にお金の使い方。安心できるツテを紹介してもらい、脱出の準備まで整えてくれた。
夫がなぜ自分を虐げるのかについても説明してもらったときには、呆れて物も言えなかったくらいだ。
「こういう不器用な男性を魅力的と見る女性もいらっしゃるかと思いますが、正直お勧めできません。モラハラ男なんてゴミ虫以下です」
「ありがとう。ゴミに何を言われても気にしてはいけないのね」
「その意気です」
表向きの関係とはまた別の、密やかに積み上げられた信頼関係。夫は、たびたびアデレイドたちの関係を気にしていたらしい。
「一体部屋の中で何を話していたんだ」
「殿方には聞かせられないお話です。そうでしょう、奥さま?」
神妙にうつむいたままのアデレイドの姿に興奮した男は、そのまま寝室に引っ張って行こうとしたが、「がっつく男は、みっともないですよ」とたしなめられていた。おかげでアデレイドは、嫌で嫌でたまらなかった夜伽からも解放されたのだ。
「奥さまが素直になったら、ご褒美に差し上げればよいでしょう? 今は少し、放置しておくべきです」
「ふふふ、それもそうだな。モニカ、気に入った。君にも褒美をくれてやろう」
夜伽が褒美だなんて、馬鹿な男だ。鼻歌まじりでその場を後にした男は最後まで気がつかなかったらしい。うつむいたアデレイドが未来を思い描き、その瞳をきらめかせていたことに。
そうして、ようやく訪れた決行の日。アデレイドは今まであった悲しいことを思い浮かべて、一世一代の大舞台に臨んだのだった。
一番困ったことは、明るい雰囲気を出さないようにすることだった。なにせ、出ていきたくて仕方のない屋敷から離れられるのだ、うっかり笑みがこぼれてしまいそうになる。そのためアデレイドは、口の中を噛み続けて悲壮な顔を保ちつづけた。
「奥さま。いいえ、アデレイド。さっさとこの屋敷から出ていきなさい。あなたは侯爵夫人の地位を失いました。今日からわたしが、その役目を担います」
興奮していることがバレないように不健康な化粧をしたアデレイドは、武者震いで指先まで震えていた。おまけに頭が真っ白になったのか、打ち合わせていた台詞も出てこないありさまだ。
事前に荷物の準備をしてもらっていなければ、出ていくきっかけを見失っていたかもしれない。
「ぼんやりしていないで、さっさと支度なさい。わたしは、あなたのためを思って言っているんですよ」
「……私のため?」
「ええ、どこへなりとも好きに行ってしまいなさい」
夫に執着され、屋敷から一歩も出られなかったアデレイド。美しいひとのおかげでたくさんの証拠を集めてもらった。裁判をして離婚を求める方法もあったけれど、そうなったら夫は意地でもアデレイドを離さないだろう。だから、ふたりで夫を罠にかけることにした。
彼は、アデレイドが屋敷を離れて生きていけるとは思っていない。世間知らずの貴族女性がひとりで出歩けば人さらいに遭うのが関の山。
けれどアデレイドは変わった。こんなとき、一番大事なのは気持ちの強さだ。あがいてあがいて、どんなことがあっても逃げてやると思う力がなければ脱出は成功しないのだから。
「きっと、荷物をまとめることもできないでしょうからこちらで準備しておきました」
旅行カバンには、コツコツと換金してもらっておいた現金が入っていた。アクセサリーの持ち主がアデレイドだとバレないように、装飾品はバラしてから売ってある。これでしばらくは働かなくても十分に暮らしていけるそうだ。
「お気の毒な元侯爵夫人に、幸運が訪れますよように」
その言葉を聞いたとき、アデレイドはもうこの美しいひとには会えないのだと気がついた。もともと別件で侯爵家に潜入しただけ。義侠心で助けてもらったが、彼はまた他の悪い貴族の一門を潰し、囚われの身の上の女性たちを助けに行くに違いない。
悲しいことに自分のような境遇の女性は、そうたいして珍しくはないのだから。きっとすぐに彼に忘れられてしまうのだろう。
目からあふれる涙は、嬉し涙だ。そうであってほしい。大嫌いな夫から離れることが、大切なあのひとから離れることを同時に意味するなんて、この瞬間まで気がつかなかった。
(もう、お目にかかることもないでしょう。どうぞお元気で)
愛しているの言葉は飲み込んで、アデレイドは愛しいひとの前から逃げ去った。
10
お気に入りに追加
71
あなたにおすすめの小説
逆行転生した侯爵令嬢は、自分を裏切る予定の弱々婚約者を思う存分イジメます
黄札
恋愛
侯爵令嬢のルーチャが目覚めると、死ぬひと月前に戻っていた。
ひと月前、婚約者に近づこうとするぶりっ子を撃退するも……中傷だ!と断罪され、婚約破棄されてしまう。婚約者の公爵令息をぶりっ子に奪われてしまうのだ。くわえて、不貞疑惑まででっち上げられ、暗殺される運命。
目覚めたルーチャは暗殺を回避しようと自分から婚約を解消しようとする。弱々婚約者に無理難題を押しつけるのだが……
つよつよ令嬢ルーチャが冷静沈着、鋼の精神を持つ侍女マルタと運命を変えるために頑張ります。よわよわ婚約者も成長するかも?
短いお話を三話に分割してお届けします。
この小説は「小説家になろう」でも掲載しています。
【完結】昨日までの愛は虚像でした
鬼ヶ咲あちたん
恋愛
公爵令息レアンドロに体を暴かれてしまった侯爵令嬢ファティマは、純潔でなくなったことを理由に、レアンドロの双子の兄イグナシオとの婚約を解消されてしまう。その結果、元凶のレアンドロと結婚する羽目になったが、そこで知らされた元婚約者イグナシオの真の姿に慄然とする。
天才少女は旅に出る~婚約破棄されて、色々と面倒そうなので逃げることにします~
キョウキョウ
恋愛
ユリアンカは第一王子アーベルトに婚約破棄を告げられた。理由はイジメを行ったから。
事実を確認するためにユリアンカは質問を繰り返すが、イジメられたと証言するニアミーナの言葉だけ信じるアーベルト。
イジメは事実だとして、ユリアンカは捕まりそうになる
どうやら、問答無用で処刑するつもりのようだ。
当然、ユリアンカは逃げ出す。そして彼女は、急いで創造主のもとへ向かった。
どうやら私は、婚約破棄を告げられたらしい。しかも、婚約相手の愛人をイジメていたそうだ。
そんな嘘で貶めようとしてくる彼ら。
報告を聞いた私は、王国から出ていくことに決めた。
こんな時のために用意しておいた天空の楽園を動かして、好き勝手に生きる。
やって良かったの声「婚約破棄してきた王太子殿下にざまぁしてやりましたわ!」
家紋武範
恋愛
ポチャ娘のミゼット公爵令嬢は突然、王太子殿下より婚約破棄を受けてしまう。殿下の後ろにはピンクブロンドの男爵令嬢。
ミゼットは余りのショックで寝込んでしまうのだった。
【完結】旦那は私を愛しているらしいですが、使用人として雇った幼馴染を優先するのは何故ですか?
よどら文鳥
恋愛
「住込で使用人を雇いたいのだが」
旦那の言葉は私のことを思いやっての言葉だと思った。
家事も好きでやってきたことで使用人はいらないと思っていたのだが、受け入れることにした。
「ところで誰を雇いましょうか? 私の実家の使用人を抜粋しますか?」
「いや、実はもう決まっている」
すでに私に相談する前からこの話は決まっていたのだ。
旦那の幼馴染を使用人として雇うことになってしまった。
しかも、旦那の気遣いかと思ったのに、報酬の支払いは全て私。
さらに使用人は家事など全くできないので一から丁寧に教えなければならない。
とんでもない幼馴染が家に住込で働くことになってしまい私のストレスと身体はピンチを迎えていた。
たまらず私は実家に逃げることになったのだが、この行動が私の人生を大きく変えていくのだった。
わがまま妹、自爆する
四季
恋愛
資産を有する家に長女として生まれたニナは、五つ年下の妹レーナが生まれてからというもの、ずっと明らかな差別を受けてきた。父親はレーナにばかり手をかけ可愛がり、ニナにはほとんど見向きもしない。それでも、いつかは元に戻るかもしれないと信じて、ニナは慎ましく生き続けてきた。
そんなある日のこと、レーナに婚約の話が舞い込んできたのだが……?
追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する
3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
婚約者である王太子からの突然の断罪!
それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。
しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。
味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。
「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」
エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。
そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。
「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」
義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる