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 アデレイドは、人生を諦めていた。夫となった侯爵に目をつけられたときから、坂道を転がり落ちるようにすべてが悪い方向へと向かっていく。

 それでも夫に愛想を振りまくことができれば、幸福に暮らせたのかもしれない。けれどアデレイドは、自分を不幸のどん底に落とした人間に媚びを売ることなどできなかった。

 日に日に悪くなっていく待遇でも、じっと下を向いて耐えた。そんなときだ、夫が連れてきた美しいひとが彼女に手を差しのべてくれたのは。

「侯爵夫人、ここから逃げ出したいとは思いませんか?」
「あなたは一体……」
「ご安心ください。静音魔法をかけました。この中の声は、外には聞こえません。もともとわたしの役目は、各地の貴族の不正を暴くこと。けれど、ここで辛い想いをされているアデレイドさまを放っておくことなどできません」
「ですが、私に関わればご迷惑をおかけしてしまいます」
「いいえ、きっとうまくいきますとも。どうぞわたしを頼ってはもらえませんか」

 しとやかで蠱惑的な美女にしか見えない彼は、自身のことを男だと明かした上で、たくさんのことをアデレイドに教えてくれた。

 平民としての暮らし方にお金の使い方。安心できるツテを紹介してもらい、脱出の準備まで整えてくれた。

 夫がなぜ自分を虐げるのかについても説明してもらったときには、呆れて物も言えなかったくらいだ。

「こういう不器用な男性を魅力的と見る女性もいらっしゃるかと思いますが、正直お勧めできません。モラハラ男なんてゴミ虫以下です」
「ありがとう。ゴミに何を言われても気にしてはいけないのね」
「その意気です」

 表向きの関係とはまた別の、密やかに積み上げられた信頼関係。夫は、たびたびアデレイドたちの関係を気にしていたらしい。

「一体部屋の中で何を話していたんだ」
「殿方には聞かせられないお話です。そうでしょう、奥さま?」

 神妙にうつむいたままのアデレイドの姿に興奮した男は、そのまま寝室に引っ張って行こうとしたが、「がっつく男は、みっともないですよ」とたしなめられていた。おかげでアデレイドは、嫌で嫌でたまらなかった夜伽からも解放されたのだ。

「奥さまが素直になったら、ご褒美に差し上げればよいでしょう? 今は少し、放置しておくべきです」
「ふふふ、それもそうだな。モニカ、気に入った。君にも褒美をくれてやろう」

 夜伽が褒美だなんて、馬鹿な男だ。鼻歌まじりでその場を後にした男は最後まで気がつかなかったらしい。うつむいたアデレイドが未来を思い描き、その瞳をきらめかせていたことに。

 そうして、ようやく訪れた決行の日。アデレイドは今まであった悲しいことを思い浮かべて、一世一代の大舞台に臨んだのだった。

 一番困ったことは、明るい雰囲気を出さないようにすることだった。なにせ、出ていきたくて仕方のない屋敷から離れられるのだ、うっかり笑みがこぼれてしまいそうになる。そのためアデレイドは、口の中を噛み続けて悲壮な顔を保ちつづけた。

「奥さま。いいえ、アデレイド。さっさとこの屋敷から出ていきなさい。あなたは侯爵夫人の地位を失いました。今日からわたしが、その役目を担います」

 興奮していることがバレないように不健康な化粧をしたアデレイドは、武者震いで指先まで震えていた。おまけに頭が真っ白になったのか、打ち合わせていた台詞も出てこないありさまだ。

 事前に荷物の準備をしてもらっていなければ、出ていくきっかけを見失っていたかもしれない。

「ぼんやりしていないで、さっさと支度なさい。わたしは、あなたのためを思って言っているんですよ」
「……私のため?」
「ええ、どこへなりとも好きに行ってしまいなさい」

 夫に執着され、屋敷から一歩も出られなかったアデレイド。美しいひとのおかげでたくさんの証拠を集めてもらった。裁判をして離婚を求める方法もあったけれど、そうなったら夫は意地でもアデレイドを離さないだろう。だから、ふたりで夫を罠にかけることにした。

 彼は、アデレイドが屋敷を離れて生きていけるとは思っていない。世間知らずの貴族女性がひとりで出歩けば人さらいに遭うのが関の山。

 けれどアデレイドは変わった。こんなとき、一番大事なのは気持ちの強さだ。あがいてあがいて、どんなことがあっても逃げてやると思う力がなければ脱出は成功しないのだから。

「きっと、荷物をまとめることもできないでしょうからこちらで準備しておきました」

 旅行カバンには、コツコツと換金してもらっておいた現金が入っていた。アクセサリーの持ち主がアデレイドだとバレないように、装飾品はバラしてから売ってある。これでしばらくは働かなくても十分に暮らしていけるそうだ。

「お気の毒な元侯爵夫人に、幸運が訪れますよように」

 その言葉を聞いたとき、アデレイドはもうこの美しいひとには会えないのだと気がついた。もともと別件で侯爵家に潜入しただけ。義侠心で助けてもらったが、彼はまた他の悪い貴族の一門を潰し、囚われの身の上の女性たちを助けに行くに違いない。

 悲しいことに自分のような境遇の女性は、そうたいして珍しくはないのだから。きっとすぐに彼に忘れられてしまうのだろう。

 目からあふれる涙は、嬉し涙だ。そうであってほしい。大嫌いな夫から離れることが、大切なあのひとから離れることを同時に意味するなんて、この瞬間まで気がつかなかった。

(もう、お目にかかることもないでしょう。どうぞお元気で)

 愛しているの言葉は飲み込んで、アデレイドは愛しいひとの前から逃げ去った。
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