【連載版】おかえりなさい。どうぞ、お幸せに。さようなら。

石河 翠

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ただいま。お待たせ。これからよろしく。(中)

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 今日も騎士さまは、立派な王さまとして働いていた。国王として忙しく働く毎日の中でも、あの子との時間をないがしろにすることはない。まさに父親の鑑だ。

 最近ではふたりで逆鱗を剥がして、指輪を作っているらしい。逆鱗の存在に気づくのはもっと先だと思っていたのに、あの子は自分が思っていた以上に魔術の才能があるようだった。いくつもの要素に溶け込んでこの世界を漂っていたときに、ようやく私も気が付いたことなのに。

 この国の王族たちは、神さまの血を引いている。竜は神であり、竜は災厄であり、竜は王であり、竜は国であり、竜は世界そのものだ。光と闇も、白と黒も、大人も子どももすべてはよく似た裏表。

 神さまがどうして神託という形で、人間にかかわろうとしたのか、その理由は結局わからないままだ。私を苦しめた神託だけれど、意外と単純なことなのかもしれない。たとえば、可愛い我が子を想う親心ゆえだとか。

 今もそうだ。私は時々、まるで何かに導かれるように動いてしまう。気がついたときには、自分が意図していない場所に移動しているのだ。あのぬいぐるみに入り込んだ時もそうだった。

 きっと何かしら意味があるのだろうが、神さまの心は私にはわからない。想像しても理解できなくて、疲れてしまうばかり。やっぱり神さまは不器用で、お節介で、どうしようもない存在だ。そもそも親という生き物は、結局のところ子どものことが大切すぎて、神さまであれひとであれ、どこかおかしくなってしまうものなのかもしれない。

 まあ、見せたいものがあると言うのなら黙ってついていこうではないか。どうせ、これ以上状況が悪くなることはないし、そもそも魂である私に抵抗などできないのだ。

 けれどそこで見たものは、かつて私と騎士さまが過ごしていた屋敷の庭で泣き崩れる騎士さまの姿だった。どうして。こんな話は聞いていない。

 降りしきる雨の中、傘も持たずに座り込んでいる。桜草の季節はとうに過ぎているというのに、騎士さまはうつろな眼差しで地面を見つめていた。

 騎士さまが悲しんでくれないことに傷ついていた。私をあっさりと忘れてしまったことに怒りさえ抱いていた。でも、違った。騎士さまはただあの子を守るために涙をこらえていただけだった。

 今度はいささか乱暴な勢いで、身体を動かされた。早く行けと言わんばかりの速度に、少しだけ動揺した。何が起きたのか、頭の中で処理が追いつかない。

 そして、次に訪れた部屋の中では息子が泣いていた。どうして涙をこぼしているのかはわからない。こんな風にこの子が泣いているのを見たのは、私が彼らのそばで幽霊もどき生活を始めてから初めてのことだった。

 具合が悪いのか、あるいは誰かと喧嘩でもしたのか。気をもみながら周囲をうろつくが、私にできることはない。せいぜい、騎士さまの元に知らせに行けたなら。けれど騎士さまの元に行けたところで、私にはこのことを伝える術さえ持っていない。

 痛いのだろうか。苦しいのだろうか。わめくでもなく、たださめざめと涙をこぼす姿に胸が潰れた。

 そういえばこの子は、昔から我慢強い子だった。本当に苦しい時こそ、涙ひとつ見せないから、隣の奥さまには、「野生動物みたいな子だねえ」とよく笑われていたものだった。

 手を触れても温度がわからない。息を荒げた様子はないから、熱はないということでいいのだろうか。わからない。あなたがわからない。あなたの気持ちがわからない。どうしたの。一体何を我慢していたの。どうか、お母さんに教えてちょうだい。

 ああ、音が聞こえない。なんと言っているのかわからない。自分が望んだ世界のはずなのに、この仕組みが憎たらしくて仕方がない。どうか教えてほしい。どうしてそんなに寂しそうな顔をしているのか、一体何を抱え込んでいるのかを。

 神さま、お願いです。
 私に音を返してください。
 私に温度を返してください。
 自己中心的だということは十分承知の上です。それでもお願いします。どうか、この子を守ることをお赦しください。

 返事はない。けれど、こんな時、ひとは神さまにすがるしかないのだと思い知る。息子に届かないことをわかっていながら、そっと我が子を抱きしめた。あなたの苦しみを、全部代わってあげられたらいいのに。

「お母さん」

 息子が絞り出すように私を呼ぶのと、喉にかけていた呪いが解けるのは同時だった。

 雷のように激しい光が部屋に満ちた。溢れ出た魔力の勢いに押し流されそうになりながら、ただただ子どもを抱きしめ続ける。今離れたら、もう二度と会えないような気がした。

 そしてはたと気が付いた。息子の言葉が、私にも届いたことに。私の世界にもまた音が戻ってきたのだ。それは記憶にあるよりも大人びた、けれどいつまでも可愛い我が子の声だった。


 ***


「ジェンテウス、どうした。大丈夫か!」

 あの距離をどうやって移動してきたのか、部屋にずぶ濡れの騎士さまが飛び込んできた。どうやら、騎士さまからもあの光が見えたらしい。

「お父さん!」
「っ!」
「お母さんが! お母さんがここに! 僕の隣に!」

 何の説明もできない息子の叫び声。騎士さまは初めて聞くふたつの言葉に目を見開きながら、それでも何かを理解したようだった。一瞬たじろいたように辺りを見渡したが、その直後我が子ごと私を捕まえた。

「プリムラ?」

 懐かしい騎士さまの声。たくましい身体つき。そして火傷しそうなほど熱いてのひら。そのすべてが愛おしくて、また涙があふれてとまらなくなった。ぽたりぽたりと、騎士さまの身体に落ちていく。

「……雨漏り? いや、だがどうしてこんなに温かい……。まさか……涙? プリムラ、泣くな。泣かないでくれ」

 姿かたちもなく、声だって出せないのに、騎士さまは私の位置を正確に捉えていた。痛くはないけれど、逃げることは許さない絶妙な力で腕を掴まれる。放してと思うと同時に、放さないでとすがりつきたくなった。

「プリムラ、どうか逃げないで話を聞いてほしい」

 初めて聞いた騎士さまの懇願するような声。必死な、そしてどこか祈るような、喉の奥から絞り出された声が私を縛る。

 馬鹿なひと。あなたにそう望まれて、私が逃げるはずありませんのに。

 騎士さまが、私の前でひざまずいた。そしてどこから取り出したのか、小さな指輪を差し出してくる。その指輪には見覚えがあった。騎士さまと息子が一緒になって作っていた、逆鱗を使った指輪だ。

 聖女さまに渡すつもりではなかったのか。とっくの昔に渡しただろうと思っていたのに。どうして、ここに? 何より、騎士さまのそのお姿はまるで愛するひとへ求婚するようで。欲しかった言葉を聞けるのかと胸が高鳴る一方で、期待外れでがっかりしてしまうのが怖くて、せっかく音が戻ってきたのに耳を塞ぎたくなった。

「どうかこれから先、俺と……いや俺たちとずっと一緒にいてほしい。プリムラ、愛している」

 騎士さまらしい、素朴な、飾らない真っ直ぐな言葉。言葉に、音に、こんな温もりがあったことを久しぶりに思い出した。氷のつぶてのような言葉ばかり繰り返し反芻していたせいで、私はもっと大切な言葉があったことを忘れてしまっていたのだ。

 はいと返事をするまでもなかった。私は望まれていた。ここにいることを求められていた。その喜びに、あやふやだった私が、あちらこちらに散らばっていた私が、急速に収束していくのがわかった。私が私としてもう一度構築される。指輪がはめられた薬指から、私は世界に具現化した。まるでかつて夢見たおとぎ話のように。

「おかえり、プリムラ」
「おかえりなさい、お母さん」

 強くて、大きくて、重たくて、苦しくて、切なくて、温かさに満ちたものが私の中に積み重なっていく。受け止めきれないほどの愛に飲み込まれて、私はもう一度、私になるのだ。

 ――ただいま――

 そう答えようとして、口ごもる。かつて私の声は、すべてを焼き尽くす炎だった。私の懸念に気が付いたのだろう、騎士さまはわかっていると言いたげにひとつうなずいた。

 ああ、いけません。私の気持ちは、きちんと私の言葉で伝えなくては。

 思いやりはきっと伝わる、相手の気持ちは自分が一番よくわかっている、そんな思い込みでいたら、また私はきっと失敗してしまうから。どうか、お願い。

 私の祈りに応えるように、指輪の中央におさめられた白銀色の宝玉が光を放つ。そうだった、これは竜の逆鱗。祈りと願いに応える力を備えた希望の欠片。薬指から再び私の身体に熱が染み込んでくる。ゆっくりと馴染んでいく。身体に魔力が巡っていくのがわかった。ああ、これは。

 集められたとはいえ、いまだに不安定だった「私」が輪郭からもう一度なぞられていくのがわかった。たぶん、もう大丈夫だ。深く息を吸って、ゆっくりと吐く。ちゃんと笑えているだろうか。ふたりを安心させられる顔をしているだろうか。唇を舐めて少しだけ湿らせる。

「ありがとう、……イーノックさま。ただいま、ジェンテウス。戻ってくるのが遅くなってごめんなさい」

 あの日に出した悲鳴ではなく、竜の咆哮でもなく。只人として紡がれた感謝の言葉は、自分が思っていたよりも高く、か細い音をしていた。初めて聞いた自分の声は、すごく不思議な気がする。おかしくはないだろうか。気持ち悪くはないだろうか。おずおずと騎士さま……イーノックさまを見上げると、イーノックさまは目頭を押さえていた。

「プリムラ」

 そのまま強く抱きしめられた。唇をはくはくと動かしているのに、それ以上の言葉は出てこないらしい。私たちは、こんな時なんだかとてもよく似ている。何も言えないまま、ただ涙をこぼしていると、おしゃべりしたくてたまらないとばかりにジェンテウスがはしゃいでいた。私がいなかった間のたくさんのお話を聞かせてくれるのだろうか。

「お母さん、お母さん、あのね!」
「なあに」
「僕ね、あのね」
「大丈夫だから、ゆっくり話してね」
「うん、うん、お母さん、僕、いっぱいおしゃべりしたいことあるの。でもね、今はこのままずっとぎゅってして」
「もちろんよ……」

 何回でも何十回でも、もう嫌だ、苦しいよと言われるまで抱っこしよう。眩暈がするほど甘いイーノックさまの香りと、お日さまのように優しいジェンテウスの匂い。ようやっと戻ってこれたのだ。久しぶりの再会に笑顔でいようと思ったけれど、どうしても涙が止まらなかった。
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