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8.思慕
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新年を告げる花火の音が聞こえる。窓を開けてみれば、夜空に鮮やかな炎の花が咲き誇っていた。男は『若様』にうまく会えただろうか。香梅は小首を傾げると、気怠げに煙管を口に咥えたまま火をつけた。深く息を吸えば、馴染みの香りが胸いっぱいに広がる。詰めているのが煙草であっても、男は余り良い顔をしなかったことを思い出す。口寂しくて、つい咥えてしまう悪い癖。女は紫煙を揺らしながら、手首に巻いた組紐にそっと頬を寄せる。
どこから入り込んだのか、店で飼われている白い猫が組紐にじゃれついてきた。これはならぬと手首を高く持ち上げてみれば、猫は遊んでいると思ったのか喜んで高く飛び跳ねた。続けざまに二度三度と跳ね上がる。馬鹿な猫だこと。そう思いながら、女は笑う。いいや、馬鹿なのは猫ではなく己ではないか。手に入らぬ他人様の男に恋い焦がれた自分こそが、大馬鹿者なのだ。
香梅は色街で育ったから、愛などという不確かなものなど欠片たりとも信じたことはない。この世の中は、金がすべてだ。愛で金は買えないが、金で愛は買えるのだから。前世では悲劇の恋人同士だったのだと、訳のわからぬことを言って店に押しかける客は珍しくない。そんな三文芝居のような安っぽい口説き文句は、女の心に響くことはなかった。男の懐に、どれだけの金があるか。病気や借金はもってはおらぬか。見極めるべきはそれだけである。
男に騙されて、掛金を踏み倒され、借金が膨れ上がった姐さんがいた。いつか迎えに来るという言葉を信じて、盛りを過ぎてしまった姐さんがいた。病気をもらい、若くして亡くなった姐さんがいた。だから香梅は賢く生きてきた。危ない橋は渡らず、集めた秘密は自分だけがこっそり楽しむ。その日々が一変したのは、故郷の風のような男に出会ったからだ。
整った顔立ちに、逞しい身体。金もあり、礼節もある。詳しい身分は聞かされていなかったが、恐らく高貴な生まれであることは、その洗練された動きから想像がついた。何より自分たちと同じ東国人。男はこの上もない上客であった。店の女たちは皆こぞって男に秋波を送ったが、男は誰にも良い返事を返さなかった。店一番の花である、自分にさえも。
はじめ、香梅は相手にされない自分が悔しくて男にまとわりついていたのだ。自分に興味を持たぬ男を振り返らせることにこそ面白みがあるというもの。追われるばかりではつまらないではないか。けれど一向に男は女の手に落ちてはこない。気がつけば、夢中になっていたのは香梅の方であった。男の低い穏やかな声も、日だまりのような人懐っこい笑顔も、二胡を奏でる繊細な手つきも、どれも集めた秘密など比べものにならぬほど、格別に輝いて見えた。香梅は、観念した。女は男に恋をしたのだ。
すでにあの男の心には、先客がいた。男だか女だかわからぬ線の細い、白皙の麗人である。だが女はそれでも構わなかった。自分が一番でなくとも構わない。どうせ『若様』は、男の身体の飢えや渇きを癒してはくれぬのだ。香梅からすれば、いっそ男は哀れだった。『若様』は無防備に男の目の前に柔肉を晒しておきながら、ひたすらに忠犬に我慢を強いるのだ。
仮寝をする『若様』を見る男は、もはや涎を垂らした狼そのもの。であるからに、男が手持ち無沙汰な時に欲求の捌け口として求められるような、そんな都合の良い女としてでも良かったのだ。自分を求めてくれたならきっと涙が出るほどに幸福であった。けれど男は三年という月日の中で、一度も女を抱かなかった。そう、ただの一度も。
だから香梅は、仕方なしに男のことを集めた秘密で誘っていた。少しずつ小出しにしていた秘密で、あんな大物が釣れるとは思わなかったのだけれど。女は嘆息する。きな臭い話は聞き及んでいたが、よもや真実であったとは。しかも先の王弟までも、南国の商人に付け込まれるとはなんと情けない。うっかり己もそれを口にしかけたことなど棚に上げて、女は手厳しく判じる。
猫可愛がりしていた兄の子に、特別な相手ができたからといって精神の安定を欠くとは何事か。女が店に上がる前から、先の王弟と現国王の関係は有名であった。あまりの溺愛っぷりに、王弟こそが実の父ではないかと噂されたほど。その二人がいがみ合う関係になるとはとても思えず、今更先の王弟が王位を欲しがるとも思えない。ならばこの巧妙に張り巡らされた仕掛けは、誰のためのものであるかなど、明白ではないか。そして香梅は思い知るのだ。無償の愛というのは、清く、尊く、そしてまた一種傲慢なものでさえあるのだと。
不幸な生まれをずっと呪って生きてきた。騙されるくらいなら、善良な人間相手でも騙してやるし巻き上げてやる、その心算であった。そしていくら色街の大輪の花と言われても、所詮は商売女。この身は汚れて、厭わしい。けれど、やっとわかったのだ。自分はこの男のために生まれてきたのだと。
集めてきた小さな秘密たちは、男の役に立った。そして、足りない欠片たちもまた、女は集めてやることができた。何者にもなびかぬ高嶺の花。そんな香梅が媚を売ってしなだれかかれば、砂糖に群がる蟻のように秘密は向こう側から大量に押し寄せてきた。愛しい男のために、醜い男たちに身体を開く。
ああ何と不幸で、幸福な泡沫の日々。それでも男の役に立つことが、女の至上の喜びであったのだ。男のために身体を使って秘密を集めたなど、そんなことは口が裂けても言えぬ。男の前の香梅は、あくまで誇り高い色街の女でなければならぬのだ。
予定よりも早く王は失脚した。一報を受けて店を飛び出そうとした男を引き止めたのは香梅だ。今行ってどうなるというのだ。おそらく先の王弟の狙いは男なのだ。可愛がっていた兄の子を、みすみす殺すはずがなかろうと女はこんこんと諭す。現に国王は牢にではなく、貴人のために特別に設えた部屋に軟禁されているというではないか。
確かな筋からの情報に、怒りで顔を朱に染めていた男が平静に戻る。そして女は小首を傾げて、こともなげに囁いてやったのだ。偽の死体を作って、相手の隙を作ってからここを出て行けと。男の死体だと心から信じてもらう必要はない。少しでも相手方が油断してくれれば良いのだと言えば、男も乗り気になった。これであと数日だけは男と共に過ごせるのだ。女は陶然とする。死体はこちらが準備する。そう言いながら女は、丁度良いものがなければ作るまでだとあっさり決めていた。
偽の死体を作るのはなかなかに難しい。東国人の男と間違えてもらわねばならぬため、あまり損傷が激しいものは好ましくない。全身黒焦げで誰ぞ確認も取れぬ焼死体でも困るし、単なる刺し傷では顔を潰しても体つきや髪色から直ぐに他人だと見破られよう。よって全身腐肉となるが、所有品が見つかりやすい水死体にしようということになった。
何と恐ろしいことをしようとしているのか。女は薄く笑う。愛しい男の香りがする東国の装束を、用意した死体に着せる。少しばかり勿体無いと思ってしまったのは仕方なかろう。そのまま死体の腹に、深々と西国の重い剣を突き刺す。あまり腐らぬうちに引き上げた場合でも、致命傷として認識してもらえるようにするためだ。髪の毛はありがたいことに男と似たような髪色をしていた。もちろん男のものがより美しいものだと女は贔屓目に判じた。
これだけのことをしようとしているのに、足が震えるどころか気分は高揚しているのだ。現に、死体作りにまで嬉々として参加しているではないか。何と罪深く、甘いものだろう、誰かを愛するということは。
男の命ともいうべき愛剣を偽装として使うと申し出た時、男は一瞬たりとて迷わなかった。ただ一言、頼むとそう言葉を口にした。寝台にまで持ち込んでいたひとふりの剣。閨で戯れに手を伸ばしてみれば、氷のように凍てつくような眼差しで咎められた。それを、男は『若様』のためとあらばあっさりと河底へ投げ捨てても良いのだという。うまくいくかはわからぬ賭けであるにもかかわらずだ。
何と羨ましいことか。『若様』を思う男の心は、忠義以上の熱い想いに溢れているのだ。ああ、初めからわかっていたことではないか。この二人の間に自分の入る余地などない。国王の叔父も、香梅も、爪弾きになった似た者同士。なぜ先の王弟がこんな事件を起こしたのか、香梅にはわかるような気がするのだ。側にいれば、ただ心が血を流すだけ。何という馬鹿な女であろう。けれど愚かな自分は、それでも男の側を離れられぬのだ。時間を巻き戻して何度遡ってみたところで、自分は必ずこうするだろうと香梅にはわかっていた。
大河に放り込まれた偽の死体は、首尾よく衛兵によって見つけられたらしい。国王の叔父は、大層ご機嫌であるという報告が入った。にもかかわらず、一方で国王が貴人のための部屋から処刑される罪人のための牢に移ったという話も漏れ出てきた。最早一刻の猶予も許されぬ。慌ただしく男は出立する。これが今生の別れになるだろうことは、女にも予想がついた。失敗すれば打ち首、成功してもこの国から遠い何処かへ逃げるしかないのだ。
世話をかけたと男はこれまでになく、感情を込めた声で言う。その瞳には金色の熱い炎が揺らめいていて、女は一瞬蕩けそうになる。けれど勘違いしてはならぬのだ。この男にこんな顔をさせるのは、北の塔にいるたった一人の罪人だけ。これほどまでにまっすぐな想いを捧げられる恋敵の、何と羨ましいことか。けれど、決して羨ましいなどとは言えぬのだ。それはあくまで色街で生きる自分の矜持ゆえ。花街に咲き誇る大輪の花が言ってはならぬ。
男が、何かこちらに手渡そうとしている。金子だろうか。まさか女の無償の愛の対価に、金を支払おうというのか。香梅はかっとなり、男の頬を打った。乾いた音が鳴る。か弱い女の振り上げた掌など、簡単に見切れたはずである。何よりこの男は、間者の剣ですらひらりとかわしてみせるのだ。にもかかわらず、あえて打たれたというのか。
女は怒りで目を吊り上げたまま、男を睨みつける。最後なのだ。男に顔を合わせるのはこれが最後だというのに、何故に自分は般若のような面をしているのであろうか。打たれた男は平然としているというのに、己の視界は霧が出たかのようにぼやけてしまっている。打った掌が熱く、じんじんと痛い。不意に男は女を抱き寄せた。つんのめるように香梅は男の胸の中に収まる。いつもは女から抱きついているばかりだというのに、待ちに待った抱擁は息もできぬほどに力強くて、女は小さな声で喘いだ。
懐に何か押し込まれる。何かあれば、東国へ来い。その懐の中身を見せれば、必ず便宜を図ってもらえるだろうと。それは一度故郷を捨てたはずの女にとって、甘く切ない言葉だった。何か欲しいものがあるかと聞かれ、女は笑って首を振った。一番欲しいものは、今目の前にある。けれどそれは一生手に入らぬものなのだ。女は小さな声で、男の髪を束ねる組紐が欲しいとねだった。
こんなもので良いのかと問う男に、これだから欲しいのだと女は答えた。すまないと言いかけて顔を歪めた男に腹が立って、女は男の両頬をつねりあげた。何と無粋な男だろうか。これから囚われの麗人を迎えに行くのでなければ、己の唇でその言葉を封じてやったものを。女はここまで来て、『若様』に男を譲ってやる自分のお人好しさ加減に溜息をついた。
自分の名前を覚えているかと聞いてみれば、さも不思議しそうに香梅だろうと男は答える。東国の美しく、香り高い花だ。お前によく似合う。そう男が言うのを聞いて女は、破顔した。忘れることなかれ。そう呟けば、恩人の名を忘れるほど阿呆ではないと男は笑った。薄暗い街中を、濃紺の服を身に纏い男が駆けていった。馬は王都の外れに用意してある。大変良い馬だ。馬盗人に見つかりさえしなければ、夜明けまでには関所を抜けられるだろう。
男の後ろ姿を思い出し、女は淡く微笑んだ。どこか穏やかで、儚げな笑みだった。東国の春には、どこもかしこも梅の花が咲くという。赤く白くたくさんの花を咲かせて、春の訪れを祝うのだ。梅の香りをかぐたびに、自分のことを思い出せばいいと香梅は願った。男が自分のことを覚えていてくれるだけで、これから先例え一人きりでも生きていけると女は信じた。
最後にねだって、もう一度抱きしめてもらった温もりをかき集めるかのように、己の腕で自分自身を抱きしめる。そのままもはや遠い、懐かしい故郷の風のような男のことを想って、俯いた。一粒、真珠のような涙がこぼれ落ちる。
窓の格子に頬杖をつけば、白い猫もまた庇に飛び乗った。いつもは媚など売らぬくせに、今日は妙に自分に甘えてくる。人恋しいのかと思い、いや寂しいのは自分なのだと香梅は気がついていた。女の肩によじ登ってきた柔らかな毛皮に顔をうずめながら、女は男の無事を祈った。
どこから入り込んだのか、店で飼われている白い猫が組紐にじゃれついてきた。これはならぬと手首を高く持ち上げてみれば、猫は遊んでいると思ったのか喜んで高く飛び跳ねた。続けざまに二度三度と跳ね上がる。馬鹿な猫だこと。そう思いながら、女は笑う。いいや、馬鹿なのは猫ではなく己ではないか。手に入らぬ他人様の男に恋い焦がれた自分こそが、大馬鹿者なのだ。
香梅は色街で育ったから、愛などという不確かなものなど欠片たりとも信じたことはない。この世の中は、金がすべてだ。愛で金は買えないが、金で愛は買えるのだから。前世では悲劇の恋人同士だったのだと、訳のわからぬことを言って店に押しかける客は珍しくない。そんな三文芝居のような安っぽい口説き文句は、女の心に響くことはなかった。男の懐に、どれだけの金があるか。病気や借金はもってはおらぬか。見極めるべきはそれだけである。
男に騙されて、掛金を踏み倒され、借金が膨れ上がった姐さんがいた。いつか迎えに来るという言葉を信じて、盛りを過ぎてしまった姐さんがいた。病気をもらい、若くして亡くなった姐さんがいた。だから香梅は賢く生きてきた。危ない橋は渡らず、集めた秘密は自分だけがこっそり楽しむ。その日々が一変したのは、故郷の風のような男に出会ったからだ。
整った顔立ちに、逞しい身体。金もあり、礼節もある。詳しい身分は聞かされていなかったが、恐らく高貴な生まれであることは、その洗練された動きから想像がついた。何より自分たちと同じ東国人。男はこの上もない上客であった。店の女たちは皆こぞって男に秋波を送ったが、男は誰にも良い返事を返さなかった。店一番の花である、自分にさえも。
はじめ、香梅は相手にされない自分が悔しくて男にまとわりついていたのだ。自分に興味を持たぬ男を振り返らせることにこそ面白みがあるというもの。追われるばかりではつまらないではないか。けれど一向に男は女の手に落ちてはこない。気がつけば、夢中になっていたのは香梅の方であった。男の低い穏やかな声も、日だまりのような人懐っこい笑顔も、二胡を奏でる繊細な手つきも、どれも集めた秘密など比べものにならぬほど、格別に輝いて見えた。香梅は、観念した。女は男に恋をしたのだ。
すでにあの男の心には、先客がいた。男だか女だかわからぬ線の細い、白皙の麗人である。だが女はそれでも構わなかった。自分が一番でなくとも構わない。どうせ『若様』は、男の身体の飢えや渇きを癒してはくれぬのだ。香梅からすれば、いっそ男は哀れだった。『若様』は無防備に男の目の前に柔肉を晒しておきながら、ひたすらに忠犬に我慢を強いるのだ。
仮寝をする『若様』を見る男は、もはや涎を垂らした狼そのもの。であるからに、男が手持ち無沙汰な時に欲求の捌け口として求められるような、そんな都合の良い女としてでも良かったのだ。自分を求めてくれたならきっと涙が出るほどに幸福であった。けれど男は三年という月日の中で、一度も女を抱かなかった。そう、ただの一度も。
だから香梅は、仕方なしに男のことを集めた秘密で誘っていた。少しずつ小出しにしていた秘密で、あんな大物が釣れるとは思わなかったのだけれど。女は嘆息する。きな臭い話は聞き及んでいたが、よもや真実であったとは。しかも先の王弟までも、南国の商人に付け込まれるとはなんと情けない。うっかり己もそれを口にしかけたことなど棚に上げて、女は手厳しく判じる。
猫可愛がりしていた兄の子に、特別な相手ができたからといって精神の安定を欠くとは何事か。女が店に上がる前から、先の王弟と現国王の関係は有名であった。あまりの溺愛っぷりに、王弟こそが実の父ではないかと噂されたほど。その二人がいがみ合う関係になるとはとても思えず、今更先の王弟が王位を欲しがるとも思えない。ならばこの巧妙に張り巡らされた仕掛けは、誰のためのものであるかなど、明白ではないか。そして香梅は思い知るのだ。無償の愛というのは、清く、尊く、そしてまた一種傲慢なものでさえあるのだと。
不幸な生まれをずっと呪って生きてきた。騙されるくらいなら、善良な人間相手でも騙してやるし巻き上げてやる、その心算であった。そしていくら色街の大輪の花と言われても、所詮は商売女。この身は汚れて、厭わしい。けれど、やっとわかったのだ。自分はこの男のために生まれてきたのだと。
集めてきた小さな秘密たちは、男の役に立った。そして、足りない欠片たちもまた、女は集めてやることができた。何者にもなびかぬ高嶺の花。そんな香梅が媚を売ってしなだれかかれば、砂糖に群がる蟻のように秘密は向こう側から大量に押し寄せてきた。愛しい男のために、醜い男たちに身体を開く。
ああ何と不幸で、幸福な泡沫の日々。それでも男の役に立つことが、女の至上の喜びであったのだ。男のために身体を使って秘密を集めたなど、そんなことは口が裂けても言えぬ。男の前の香梅は、あくまで誇り高い色街の女でなければならぬのだ。
予定よりも早く王は失脚した。一報を受けて店を飛び出そうとした男を引き止めたのは香梅だ。今行ってどうなるというのだ。おそらく先の王弟の狙いは男なのだ。可愛がっていた兄の子を、みすみす殺すはずがなかろうと女はこんこんと諭す。現に国王は牢にではなく、貴人のために特別に設えた部屋に軟禁されているというではないか。
確かな筋からの情報に、怒りで顔を朱に染めていた男が平静に戻る。そして女は小首を傾げて、こともなげに囁いてやったのだ。偽の死体を作って、相手の隙を作ってからここを出て行けと。男の死体だと心から信じてもらう必要はない。少しでも相手方が油断してくれれば良いのだと言えば、男も乗り気になった。これであと数日だけは男と共に過ごせるのだ。女は陶然とする。死体はこちらが準備する。そう言いながら女は、丁度良いものがなければ作るまでだとあっさり決めていた。
偽の死体を作るのはなかなかに難しい。東国人の男と間違えてもらわねばならぬため、あまり損傷が激しいものは好ましくない。全身黒焦げで誰ぞ確認も取れぬ焼死体でも困るし、単なる刺し傷では顔を潰しても体つきや髪色から直ぐに他人だと見破られよう。よって全身腐肉となるが、所有品が見つかりやすい水死体にしようということになった。
何と恐ろしいことをしようとしているのか。女は薄く笑う。愛しい男の香りがする東国の装束を、用意した死体に着せる。少しばかり勿体無いと思ってしまったのは仕方なかろう。そのまま死体の腹に、深々と西国の重い剣を突き刺す。あまり腐らぬうちに引き上げた場合でも、致命傷として認識してもらえるようにするためだ。髪の毛はありがたいことに男と似たような髪色をしていた。もちろん男のものがより美しいものだと女は贔屓目に判じた。
これだけのことをしようとしているのに、足が震えるどころか気分は高揚しているのだ。現に、死体作りにまで嬉々として参加しているではないか。何と罪深く、甘いものだろう、誰かを愛するということは。
男の命ともいうべき愛剣を偽装として使うと申し出た時、男は一瞬たりとて迷わなかった。ただ一言、頼むとそう言葉を口にした。寝台にまで持ち込んでいたひとふりの剣。閨で戯れに手を伸ばしてみれば、氷のように凍てつくような眼差しで咎められた。それを、男は『若様』のためとあらばあっさりと河底へ投げ捨てても良いのだという。うまくいくかはわからぬ賭けであるにもかかわらずだ。
何と羨ましいことか。『若様』を思う男の心は、忠義以上の熱い想いに溢れているのだ。ああ、初めからわかっていたことではないか。この二人の間に自分の入る余地などない。国王の叔父も、香梅も、爪弾きになった似た者同士。なぜ先の王弟がこんな事件を起こしたのか、香梅にはわかるような気がするのだ。側にいれば、ただ心が血を流すだけ。何という馬鹿な女であろう。けれど愚かな自分は、それでも男の側を離れられぬのだ。時間を巻き戻して何度遡ってみたところで、自分は必ずこうするだろうと香梅にはわかっていた。
大河に放り込まれた偽の死体は、首尾よく衛兵によって見つけられたらしい。国王の叔父は、大層ご機嫌であるという報告が入った。にもかかわらず、一方で国王が貴人のための部屋から処刑される罪人のための牢に移ったという話も漏れ出てきた。最早一刻の猶予も許されぬ。慌ただしく男は出立する。これが今生の別れになるだろうことは、女にも予想がついた。失敗すれば打ち首、成功してもこの国から遠い何処かへ逃げるしかないのだ。
世話をかけたと男はこれまでになく、感情を込めた声で言う。その瞳には金色の熱い炎が揺らめいていて、女は一瞬蕩けそうになる。けれど勘違いしてはならぬのだ。この男にこんな顔をさせるのは、北の塔にいるたった一人の罪人だけ。これほどまでにまっすぐな想いを捧げられる恋敵の、何と羨ましいことか。けれど、決して羨ましいなどとは言えぬのだ。それはあくまで色街で生きる自分の矜持ゆえ。花街に咲き誇る大輪の花が言ってはならぬ。
男が、何かこちらに手渡そうとしている。金子だろうか。まさか女の無償の愛の対価に、金を支払おうというのか。香梅はかっとなり、男の頬を打った。乾いた音が鳴る。か弱い女の振り上げた掌など、簡単に見切れたはずである。何よりこの男は、間者の剣ですらひらりとかわしてみせるのだ。にもかかわらず、あえて打たれたというのか。
女は怒りで目を吊り上げたまま、男を睨みつける。最後なのだ。男に顔を合わせるのはこれが最後だというのに、何故に自分は般若のような面をしているのであろうか。打たれた男は平然としているというのに、己の視界は霧が出たかのようにぼやけてしまっている。打った掌が熱く、じんじんと痛い。不意に男は女を抱き寄せた。つんのめるように香梅は男の胸の中に収まる。いつもは女から抱きついているばかりだというのに、待ちに待った抱擁は息もできぬほどに力強くて、女は小さな声で喘いだ。
懐に何か押し込まれる。何かあれば、東国へ来い。その懐の中身を見せれば、必ず便宜を図ってもらえるだろうと。それは一度故郷を捨てたはずの女にとって、甘く切ない言葉だった。何か欲しいものがあるかと聞かれ、女は笑って首を振った。一番欲しいものは、今目の前にある。けれどそれは一生手に入らぬものなのだ。女は小さな声で、男の髪を束ねる組紐が欲しいとねだった。
こんなもので良いのかと問う男に、これだから欲しいのだと女は答えた。すまないと言いかけて顔を歪めた男に腹が立って、女は男の両頬をつねりあげた。何と無粋な男だろうか。これから囚われの麗人を迎えに行くのでなければ、己の唇でその言葉を封じてやったものを。女はここまで来て、『若様』に男を譲ってやる自分のお人好しさ加減に溜息をついた。
自分の名前を覚えているかと聞いてみれば、さも不思議しそうに香梅だろうと男は答える。東国の美しく、香り高い花だ。お前によく似合う。そう男が言うのを聞いて女は、破顔した。忘れることなかれ。そう呟けば、恩人の名を忘れるほど阿呆ではないと男は笑った。薄暗い街中を、濃紺の服を身に纏い男が駆けていった。馬は王都の外れに用意してある。大変良い馬だ。馬盗人に見つかりさえしなければ、夜明けまでには関所を抜けられるだろう。
男の後ろ姿を思い出し、女は淡く微笑んだ。どこか穏やかで、儚げな笑みだった。東国の春には、どこもかしこも梅の花が咲くという。赤く白くたくさんの花を咲かせて、春の訪れを祝うのだ。梅の香りをかぐたびに、自分のことを思い出せばいいと香梅は願った。男が自分のことを覚えていてくれるだけで、これから先例え一人きりでも生きていけると女は信じた。
最後にねだって、もう一度抱きしめてもらった温もりをかき集めるかのように、己の腕で自分自身を抱きしめる。そのままもはや遠い、懐かしい故郷の風のような男のことを想って、俯いた。一粒、真珠のような涙がこぼれ落ちる。
窓の格子に頬杖をつけば、白い猫もまた庇に飛び乗った。いつもは媚など売らぬくせに、今日は妙に自分に甘えてくる。人恋しいのかと思い、いや寂しいのは自分なのだと香梅は気がついていた。女の肩によじ登ってきた柔らかな毛皮に顔をうずめながら、女は男の無事を祈った。
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