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4.片恋

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 空から金の星が降ってきた。 
 
 男がいつものように東国街の娼館に出かけた後、女は一人夜更けの執務室にこもっていた。もちろん男には、重々じゅうじゅう早く休むように言われていた。女のことを子どもだと勘違いしているのかと疑いたくなるくらいに、男は口を酸っぱくして繰り返す。

 そんな夕方に交わされた約束をあっさり破りながら、女はしかめっ面で書類の文面を確かめる。色街のような特殊な場所でしか得られない情報もある。そう頭ではわかっていたが、それでもやはり、男が別の女のもとに出かけるのを見送るのは嫌だった。一人寝台で休んでいれば、きっと男のことを考えてしまう。だから執務室にこもることにしたのだ。

 独り寝の自分と、柔らかく甘い女たちと共に長い夜を過ごす男。仕事はいくらやっても終わらぬほど、余りある。書類を片付けることに注力していれば、気もまぎれるかと思ったが、女は自分でも気付かぬうちにはらりと書類を床に落としていた。致し方ない、諦めるとするか。女は羽ペンを放り投げ、夜の空を一人見上げてみる。東国人にしても珍しい部下の金の瞳。きらきらと瞬《またた》く星は男の瞳のように見えて、女は自分の恋煩こいわずらいの酷さにため息をついた。この熱は未だ治まる気配もない。

 今宵は三日月だ。女は昼間、城の侍女たちがそこかしこではしゃいでいたのを思い出した。今夜は三日月よ、願掛けをするの。笑いさざめく小鳥たちは、うっすらと頬を染めてそんな話をしていた。左の肩越しや鏡ごしに見てはいけないのよ。仕事の合間に集まっては、ひどく生真面目な顔をしてお互いに注意し合っていた侍女たちを思い出して、女は少しばかり微笑んだ。まじないに頼る彼女たちを滑稽だとは思わなかった。むしろ、小さな恋を大切に温めながら、育ててゆくその姿勢に好感を持っていた。

 振り返るように、右の肩越しに月を見るべし。そう繰り返された言葉を反芻はんすうしながら、女は考える。そうしてやっと合点がいって、執務室の出窓の縁に腰掛けた。そのまま夜空を振り返るように、三日月を見上げる。霧の多い王都だが、風の具合でありがたいことに月を見つけることができた。

 月は嫌いだ。たかだか月の出方によって、自分の生き方は大きく歪んでしまった。そうだというのに、結局は年端もいかない少女たちと同じように願を掛ける自分がおかしくて、女は笑みをこぼした。少しでもこのまじないが効けばいい。いつも夢の中で男の姿を探す女のように、男も女の姿を夢見て戸惑えば良いのだ。東国では、夢の中に出てきた異性は自分のことを好いているというそうではないか。女は嬉しそうに、何とも意地悪く笑う。
 
 そんな子どもじみたことをしていたからか、何が起きたのか一瞬理解できなかった。流星が飛び込んできたのかと思うほど、自分の目の前にはまばゆい金の光。自分の元に、天から星が降り注いだのだと半ば本気で信じたのだ。信じられないことに、窓から待ち人が飛び込んできていた。勢いを殺せぬままだったせいで、あっけないほど簡単に女は男に組み敷かれた。

 床に倒れ伏したまま、女は男を見上げてみる。闇に紛れるように動きやすく、人目につきにくいということで男が選んだその装束は、東国で言うところの侠客きょうかくが身につけるものなのだろう。確かに男によく似合ってはいたが、そもそも西国にいる中で頑なに東国の風俗にこだわる理由がよくわからなかった。人目を避けたいのなら、衛兵の格好にでも扮すればよいものを。口に出さぬまま、女はそう判じる。

 むせ返るような白粉おしろいの香りを身にまとった男が、ぎらぎらとした眼差しで自分を睨みつけていた。何がそんなに気に食わないというのか。女は床に押し倒されたまま、ぼんやりと男を見つめていた。部屋の扉ではなく、窓から飛び込んでくるような男の方が失礼なのではないか。間者と間違われて始末されても仕方ない振る舞いをしている男の方が、この場を支配していることに女は酷く苛ついていた。色街に出入りしているのが、仕事ゆえとは重々承知している。けれど、男はべっとりと襟元に紅い紅をつけている。やはり自分とは異なる、柔らかな肢体を抱いてきたのだろうか。

 叶わぬ恋を憂いて、願掛けをしていたのを見られたとは思わない。願掛けをするのは女子どもくらいだ。何か聞かれたなら、ただ仕事の合間に空を見上げただけだと一言言えば良いだけである。ただ男の様子を見る限り、敵に追われていたのかもしれない。自由気ままな男ではあるが、常日頃より窓から出入りするわけではない。

 無防備に窓の側でぼんやりしていた女に腹を立てたのかもしれないが、この状況は不敬である。不可抗力とはいえ、無礼な振る舞いをしているのは男の方なのだ。ただ一言、早く退けと言えば良いだけである。けれど、女の口から出たのは自分でも思いもよらぬ言葉だった。もしも、この身が女であったならどうであったかと。気づけば、そんな世迷言を口にしていた。

 男は何かを言おうとして、声にならない声を上げた。それはそうだろう、問いかけた自分だってわかっている。自分の仕える主人に、そんなことを聞かれてなんと答えれば良いというのか。女にだって、正答はわからない。手を伸ばせば頬にだって触れられるほどそばにいるのに、何と男の心の遠いことか。

 おまえが好きだと、そのたった数語の単語が言えたなら。煙草を吸わないはずの男に、独特の甘い香りが染み付いている。女の脳裏に、煙管きせるを持つしなやかな手と、紅い爪紅をつけた指先がよぎる。たっぷりと紅をさした官能的な唇も。あの店の女は、男にもらったのだと玉虫色に輝く紅を自分に見せてくれた。自分には縁遠い、女としての彩りとよそおい。

 西国の姫として男に出会っていたならば、何かが変わったであろうか。結局は身分の差に阻まれて、何も言えなかったかもしれぬ。けれどつい少女趣味の物語のように、男ならばこの手を取ってともに逃げてくれるのではないかとそう甘い期待をしてしまうのだ。女は一度ゆっくりと瞼を閉じた。熱いものが込み上げてきそうだったからだ。国王としての自分ではなく、ただ一人の女として男に出会えていたならば男は自分の名を呼んでくれただろうか。

 先ほどの自分の問いかけに、男は喉から絞り出すような声で答える。陛下が陛下である限り、変わらずにお仕え致しまする。それは気が遠くなるほど嬉しい言葉で、けれど女の望んだ言葉ではないのだ。もう一度男を見上げていれば、ぎらぎらと燃えたぎっていた男の眼差しが弱まり、柔らかな光を帯びていた。まるで自分を愛おしんでいるかのような、優しい微笑み。けれど男の心と女の心はすれ違う。金色の男の瞳に映る自分を眺めてみれば、それはひどく寂しそうな顔をしていた。女は唇を噛み締めて、溢れそうになる涙を必死でこらえていた。



 率直に言って、男は嫉妬していた。

 娼館からの帰り道、男は自分が追われていることに気づいていた。そもそも男が西国の中で、しょっちゅう独特の東国の衣装を身につけているのは、その存在を一際目立たせるためでもある。あえて引きつけておきたいからこそ、こんな格好で街を歩く。男とて、西国の服くらい手持ちにあるのだ。とはいえ、残りの理由としてはやはり慣れた格好の方が着やすいからなのであるが。男にとって西国の正装は、いずれも仮装になりそうな気がして気が引けたのだ。

 東国街の中では表立って動けなかったのであろう。ざわざわと後ろを追う気配が膨れ上がっていく。一体自分一人相手に、どれだけ人手を割くつもりか。後ろに三人、前に二人まで数え、男は高く跳ぶ。剣を交えることなくかわされた男たちが怒号をあげた。

 夜更けだというのに何と騒々しい。少しだけ顔をしかめ、男は淡々と前に進む。東国街は一種の治外法権だ。自分があそこを出るのを、敵方の皆様は辛抱強く待っていたに違いない。けれど男には、ここで事を荒立てるつもりは毛頭なかった。証拠は未だに不十分、何より信頼できる味方が少なすぎる。若く有能な国王だが、人脈が足りないのが現状だ。

 男は体重を感じさせない動きで夜霧に紛れて走る。ある時は階段を滑り降り、ある時は楼閣の間を飛び越えた。ひらりと身をかわし、何人かが溝川どぶがわに落ちるのを見て男はほくそ笑む。哀れにも男の後を追って楼閣を飛び越えようとして落下したらしい。しばらくひどい臭いを漂わせることになるだろうが、命拾いしたことに彼らは気づいていないだろう。

 体術に優れた男ではあるが、逃げに徹することが面倒に思える時もある。一撃で仕留められるなら相手を殺すこともやぶさかではないのだ。暗い夜道をただひたはしる。そうやって相手方をきながら、王城まで帰り着いた時に男は見つけたのだ。淡い月の光を受けた、天女のような主人の見返り姿を。

 執務室の出窓から、ぼんやりと夜空を見上げている女は大層美しかった。この世のものとは思えないほど儚げで、危うい魅力。ただ美しいで済ませられれば良かったのに、どうして気づいてしまったのか。女が出窓の縁に腰掛けて、右の肩越しに月を見ていることに。

 今日は笑った猫の目のように細い三日月だ。振り返るその右の肩越しに、三日月を見るのは西国で誰もが知る片恋を叶えるための願掛けだ。そんな子どもだましのまじないに頼りたくなるような、それほどまでに好いた男がいるというのか。一瞬嫉妬で目がくらんで、思わず目測を誤ったのだ。こっそり近くの部屋に忍び込もうと思っていたはずが、そのまま女がいる部屋に飛び込んでしまう程度には動揺していた。

 偶然にも組み敷いた女の身体は、ひどく柔らかくてなまめかしい。なぜ自分の主人はこんなにも甘い香りがするのだろう。脳髄が痺れるほどの飢えを感じて、男は思わず喉を鳴らした。色街の女の乳房を見ても全く気にならないというのに、愛しい主人の細く白いおとがいを見ただけで、目眩めまいがするほどの欲を感じるのだ。
 
 ああ、いっそ己の理性が焼き切れてしまえばいいものを。 男はそう思いながら、また同時に千切れそうな理性を抑え込むのだ。この掌の中の宝玉を決して傷つけてはならぬと。女に傷一つ付けてはならぬのだ、己のまもるこの宝玉は決して自分のものではないのだから。

 何を考えているのだろうか、女は何も言わずにじっと自分を見つめている。不敬だとはねのけることもせずに、なぜ無言でいるのだろうか。男が疑問を口にする前に、組み敷かれたまま女が不意に尋ねた。もしも、この身が女であったならどうであったかと。男はうなった。三年だ。国王の側に使えて、もう三年になる。その間、ずっと気持ちを押し殺し、ただ女のために仕えてきた。影になり日向になり、ひたすらに働いたのはただ主人の笑顔が見たかったからだ。忠義以上のものがそこにはあるのだと悟られてはならなかった。

 伝わってほしい、伝わって欲しくない、相反するその想いにいつも自分の心は千々に乱れているというのに、女は涼しい顔で自分に問うてみせるのだ。男は絞り出すように声を上げた。陛下が陛下である限り、変わらずにお仕え致しまする。そう答えてみれば、主人はひどくつまらなそうな顔をしていた。瞳が潤んだように見えたのは気のせいか。

 貴女を愛していると、ただその言葉を紡げたなら。声にできない言葉を、また今日も男は飲み込むのだ。例えば、女が国王ではなく西国の姫であったなら、武勲を立てて求婚する道があっただろうか。いやこれほどの美姫ともなれば、東国人の自分に出る幕はなかったかもしれぬ。それこそ東国を統べる者の正室としての縁談でもなければ、一蹴されたであろう。女の手を取って共に逃げられたなら、どれだけ幸せだろうか。それは甘い夢だ。男の手を王が手に取ることなどきっとないのだから。

 男は自嘲する。己にできることは、ただ女の盾になることだけ。それ以上のことなど、望むべくもないのだ。そのままゆっくりと目の前の女に優しく微笑みかけた。ただの女として出会っていたなら、その名を呼ぶことも可能であっただろうか。恐れ多くも口にすることなど考えられぬ、愛しい主人あるじの御名。心のままに、さらいたいと答えれば王は何と答えただろう。腕の中の王が求めた答えは、男にはわからなかった。

 無言のまま見つめ合う二人を、頼りない三日月が照らしている。
 国王がその地位を追放されたのは、新年の訪れも間近のある冬の日のことだった。
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