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先ほどまで確かに私は、自宅のリビングにいたはずだ。こんな場所を、私は知らない。ぞわりと鳥肌が立つ。
まさかとは思うが、アロマキャンドルに酔って、気がつかないうちに家の外に出てしまったのか。けれど、現代日本はいくら真夜中でも明かりがある。街灯、電灯、コンビニ、行き交う車のヘッドライト。
少なくとも私が住んでいた場所は、月明かり、星明かりだけが頼りの世界などではないはずなのに。そしてここからは、その星や月さえ見当たらないのだ。
どうして。そう思った瞬間に、ぼうっと明かりが灯った。いつの間にか私は、携帯ではなく灯籠を手にしている。とても上品で、驚くほど手の込んだ花を模したもの。それは、先ほど火を灯したアロマキャンドルにそっくりだった。
「牡丹の花……?」
とりあえず前に進んでみる。歩きにくいなと思って足元を見れば、からんころんと音を響かせる下駄と見慣れぬ美しい着物が目に入った。白地に牡丹と芍薬の花が散らしてある。踏みしめる土の硬さも、正絹の手触りも、夢にしては異常なまでにリアルだ。
「これではまるで牡丹灯籠ね……」
頭をよぎるのは有名な怪談だ。
ふとしたことから知り合った浪人の新三郎と旗本の娘お露。一瞬で恋に落ちたふたりは深い仲になり、お露は夜毎、牡丹灯籠を下げて新三郎の元を訪れる。しかし、日に日に新三郎はやつれていく。実は、お露の正体は亡霊であり、信三郎には美女に見えるその姿も、実際には骸骨の姿をしていたのだ。新三郎は、お露に二度と会わないことを決め部屋中の扉にお札を貼るのだが……。
そこまで思い出して、私はため息をついた。ここが一体どこかはさておくとして、私が牡丹灯籠のお露なのであれば、これから向かう先は新三郎の家に他ならないだろう。一緒に死んでほしいと執着するほどの恋しい相手どころか、離婚を希望している浮気男ではあるが、配役に文句をつけても仕方がない。
適当に歩みを進めれば、なるほど、目的の場所はすぐに見つかった。牡丹灯籠では戸に貼られたお札のせいで家の中に入れなかったはずだが、今回は少しだけ違っている。戸口には、懐かしい家族写真が貼られていたのだ。
結婚前のデート中の写真。
友人に囲まれた結婚式の写真。
子どもたちが生まれた時の写真。
夫の地元の神社で七五三のお参りをした写真。
家族旅行で遊園地に出掛けた時の写真。
子どもたちの入園式や入学式の写真。
幽霊であるお露にお札は剥がせなかった。そして、私にはまだ家族写真を破る覚悟がない。私にとっては憎い夫でも、子どもにとってはまだ優しい父親なのだ。これが、夫の作戦なのだろうか。それとも、ここでためらうことこそが、私の弱さなのだろうか。
写真を剥がそうとして指先が震えた。けれど、写真を剥がしたところでどうするべきなのか。私はこの家で隠れ続ける夫を見つけても、最後通牒しか突きつけられないだろう。このかくれんぼに引き分けはない。その先にあるのは、明確な勝ち負けと終わりだけ。
もう一度写真を見てみたいと思い、灯籠を近づけて私は悲鳴をあげた。先ほどまで確かにあったはずの家族写真は、すっかり消えていた。代わりにそこにあったのは、見知らぬ女とのツーショット写真だ。繰り返し出てくる女もいれば、一度限りの女もいた。一番数が多いのは、百貨店で夫の隣にいたあの若い女だ。
少しだけ残っていたはずの夫への気持ちが、ろうそくに息を吹きかけるように消え失せるのがわかった。家の中にいるのはかつて愛したひとではない。ただのゴミだ。ようやくそこに私は気がついたのだった。
驚いた拍子に手放したのか、地面に落ちた牡丹灯籠が燃え始めた。炎は最初は穏やかに、徐々に激しさを増して家に燃え移る。家は面白いほどよく燃えた。そして飴細工が溶けていくかのように、ぐにゃぐにゃと形を変えていくのだ。
夫やあの女の悲鳴が聞こえることはない。ただ鈴の音が鳴るばかり。しゃらりしゃらり。高く低く、歌うように闇夜に響き渡る。
その音に合わせて私は踊る。着物を着て踊ったことなどないはずなのに、私の手足は小鳥のように軽やかに跳ね上がった。「歌う骸骨」やら「踊る骸骨」やらといった昔話があるように、どうやら骸骨というのはえてして歌も踊りも上手いものらしい。
「ゴミはちゃんと、燃やして処分しなくちゃね」
どれくらい時間が経ったのか。気がつけば、こうこうと燃えていた家は影も形もなくなり、辺りには牡丹の花が積み重なっていた。赤く赤く、鮮やかな大輪の花。そのひとつを戯れに持ち上げ、ふっと息を吹きかけてみる。崩れるはずのない花弁がはらはらとあたりに舞い上がった。
悔しさはない。悲しみも、怒りも。ただ私の中にあるのは、静けさだけ。これでもう二度と苦しまなくていいのだという、そんな安堵に満たされていた。
さようなら、あなた。
大好きなお相手と死ぬまで一緒なら、何より幸せでしょう。もう二度と、あなたたちにお会いすることがありませんように。
まさかとは思うが、アロマキャンドルに酔って、気がつかないうちに家の外に出てしまったのか。けれど、現代日本はいくら真夜中でも明かりがある。街灯、電灯、コンビニ、行き交う車のヘッドライト。
少なくとも私が住んでいた場所は、月明かり、星明かりだけが頼りの世界などではないはずなのに。そしてここからは、その星や月さえ見当たらないのだ。
どうして。そう思った瞬間に、ぼうっと明かりが灯った。いつの間にか私は、携帯ではなく灯籠を手にしている。とても上品で、驚くほど手の込んだ花を模したもの。それは、先ほど火を灯したアロマキャンドルにそっくりだった。
「牡丹の花……?」
とりあえず前に進んでみる。歩きにくいなと思って足元を見れば、からんころんと音を響かせる下駄と見慣れぬ美しい着物が目に入った。白地に牡丹と芍薬の花が散らしてある。踏みしめる土の硬さも、正絹の手触りも、夢にしては異常なまでにリアルだ。
「これではまるで牡丹灯籠ね……」
頭をよぎるのは有名な怪談だ。
ふとしたことから知り合った浪人の新三郎と旗本の娘お露。一瞬で恋に落ちたふたりは深い仲になり、お露は夜毎、牡丹灯籠を下げて新三郎の元を訪れる。しかし、日に日に新三郎はやつれていく。実は、お露の正体は亡霊であり、信三郎には美女に見えるその姿も、実際には骸骨の姿をしていたのだ。新三郎は、お露に二度と会わないことを決め部屋中の扉にお札を貼るのだが……。
そこまで思い出して、私はため息をついた。ここが一体どこかはさておくとして、私が牡丹灯籠のお露なのであれば、これから向かう先は新三郎の家に他ならないだろう。一緒に死んでほしいと執着するほどの恋しい相手どころか、離婚を希望している浮気男ではあるが、配役に文句をつけても仕方がない。
適当に歩みを進めれば、なるほど、目的の場所はすぐに見つかった。牡丹灯籠では戸に貼られたお札のせいで家の中に入れなかったはずだが、今回は少しだけ違っている。戸口には、懐かしい家族写真が貼られていたのだ。
結婚前のデート中の写真。
友人に囲まれた結婚式の写真。
子どもたちが生まれた時の写真。
夫の地元の神社で七五三のお参りをした写真。
家族旅行で遊園地に出掛けた時の写真。
子どもたちの入園式や入学式の写真。
幽霊であるお露にお札は剥がせなかった。そして、私にはまだ家族写真を破る覚悟がない。私にとっては憎い夫でも、子どもにとってはまだ優しい父親なのだ。これが、夫の作戦なのだろうか。それとも、ここでためらうことこそが、私の弱さなのだろうか。
写真を剥がそうとして指先が震えた。けれど、写真を剥がしたところでどうするべきなのか。私はこの家で隠れ続ける夫を見つけても、最後通牒しか突きつけられないだろう。このかくれんぼに引き分けはない。その先にあるのは、明確な勝ち負けと終わりだけ。
もう一度写真を見てみたいと思い、灯籠を近づけて私は悲鳴をあげた。先ほどまで確かにあったはずの家族写真は、すっかり消えていた。代わりにそこにあったのは、見知らぬ女とのツーショット写真だ。繰り返し出てくる女もいれば、一度限りの女もいた。一番数が多いのは、百貨店で夫の隣にいたあの若い女だ。
少しだけ残っていたはずの夫への気持ちが、ろうそくに息を吹きかけるように消え失せるのがわかった。家の中にいるのはかつて愛したひとではない。ただのゴミだ。ようやくそこに私は気がついたのだった。
驚いた拍子に手放したのか、地面に落ちた牡丹灯籠が燃え始めた。炎は最初は穏やかに、徐々に激しさを増して家に燃え移る。家は面白いほどよく燃えた。そして飴細工が溶けていくかのように、ぐにゃぐにゃと形を変えていくのだ。
夫やあの女の悲鳴が聞こえることはない。ただ鈴の音が鳴るばかり。しゃらりしゃらり。高く低く、歌うように闇夜に響き渡る。
その音に合わせて私は踊る。着物を着て踊ったことなどないはずなのに、私の手足は小鳥のように軽やかに跳ね上がった。「歌う骸骨」やら「踊る骸骨」やらといった昔話があるように、どうやら骸骨というのはえてして歌も踊りも上手いものらしい。
「ゴミはちゃんと、燃やして処分しなくちゃね」
どれくらい時間が経ったのか。気がつけば、こうこうと燃えていた家は影も形もなくなり、辺りには牡丹の花が積み重なっていた。赤く赤く、鮮やかな大輪の花。そのひとつを戯れに持ち上げ、ふっと息を吹きかけてみる。崩れるはずのない花弁がはらはらとあたりに舞い上がった。
悔しさはない。悲しみも、怒りも。ただ私の中にあるのは、静けさだけ。これでもう二度と苦しまなくていいのだという、そんな安堵に満たされていた。
さようなら、あなた。
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