24 / 29
(23)桃珊瑚-3
しおりを挟む
花月の竜の間には坂本龍馬の刀傷と呼ばれる床柱の刀傷があるけれど、花月の庭にも同じように有名なエピソードがある。酔った岩崎弥太郎がここの池に落ちたことを、自分の日記に書き残しているのだ。とりあえず幕末の志士たちは、みんな飲みすぎだと思う。
池の中では、庭を訪れた野鳥が悠々と過ごしている。小さな橋を渡りながら、ゆっくりと辺りを見回した。今見てもこれだけ広いのだから、迷子になった子どもの頃にどこまで行っても出られないと感じてしまったのも仕方がないのかもしれない。
「どうです。この辺りを歩いた記憶はありますか?」
「もうびっくりするくらい、記憶にないですね。変な話、祖母や兄のお祝いでここに来たこともあるはずなのに、まったく記憶に残っていないです」
「ある意味、常に新鮮な気持ちで散策できてお得かもしれませんね」
「あははは、そうかもしれませんね。あ、鳥居だ」
ついつい早口で返事を返してしまうのは、お兄さんに手を握られているからだ。ヒールでは歩きにくいこともあり、つい差し出された手をとってしまったのだけれど、ふと我に返って顔が熱くなってしまっている。イケメン、やはり侮りがたし。
広いお庭の中には鳥居があり、その奥には真っ赤なお社が祀られていた。その鮮やかな色を見たとき、はっと頭をよぎるものがあった。そうだ私はあの日、人込みの中で庭見世にすっかり飽きてしまって、ひとりでお庭のあちこちを探検していたのだ。
『ねこちゃん、まって!』
庭見世では入れる場所は限られているけれど、小さい子どもであればすり抜けられるところはたくさんある。子どもの視点は低い。貫禄たっぷりのかぎしっぽの猫を追いかけて、私はひとりでこの鳥居をくぐったのだ。そして、あるはずのない長い坂道で迷子になったのだ。
「清香さん、どうしましたか?」
「え、いや、何でもないです。……って、あれ、名前?」
いきなりお兄さんに下の名前で呼ばれて、ただでさえ上がっていた体温が急激に上昇した。
「え、なんで、デートだからですか? きゅ、急に呼ばれたらそんな、緊張しちゃうっていうか」
「急に? そんなことはないですよ。だって、清香さんは、清香さんでしょう?」
清香という名前は珍しくもない、ごく普通の名前だと思う。昔からある読み方だし、難読漢字でもない。ところが、学校でも就職してからもみんな私のことを「きよか」と呼んだ。
別に名前を間違えられたからと言って、腹なんて立たない。母の旧姓も読み間違えられることが多いので、もう誰かわかればそれでいいとこだわりなく暮らしている。なんだったら家族以外で私のことを「さやか」と呼ぶひとはいないくらいだ。
「せっかくだから、さやかさんも僕の名前を呼んでくださいよ」
「せっかくって、まったくもう……」
「だっていつまでも、他人行儀じゃ寂しいじゃないですか」
「でも私、下の名前なんて……」
「清香さん、ちゃんと僕の名前も呼んでください。約束、したでしょう?」
繋がれたてのひらが熱い。そしてそれと同じくらい、耳たぶでゆれる桃珊瑚が熱を帯びている。
私の名前は伝票に載っているからお兄さんが把握していることはおかしくない。でも、お兄さんが名乗らない限り、私はお兄さんの下の名前なんて知るはずもないのだ。それなのに。
「朔夜さん?」
「はい。ほら足元に気を付けて。鳥居をくぐりますよ」
するりと口から名前が出てきた。え、なんで、私、お兄さんの名前を知っているんだろう?
驚く私を尻目に、お兄さん……朔夜さんは私の手を引くようにどんどん前に進んでいく。まだ正午前だというのに、鳥居の向こう側はあの日と同じくすっかり夜になっていた。
池の中では、庭を訪れた野鳥が悠々と過ごしている。小さな橋を渡りながら、ゆっくりと辺りを見回した。今見てもこれだけ広いのだから、迷子になった子どもの頃にどこまで行っても出られないと感じてしまったのも仕方がないのかもしれない。
「どうです。この辺りを歩いた記憶はありますか?」
「もうびっくりするくらい、記憶にないですね。変な話、祖母や兄のお祝いでここに来たこともあるはずなのに、まったく記憶に残っていないです」
「ある意味、常に新鮮な気持ちで散策できてお得かもしれませんね」
「あははは、そうかもしれませんね。あ、鳥居だ」
ついつい早口で返事を返してしまうのは、お兄さんに手を握られているからだ。ヒールでは歩きにくいこともあり、つい差し出された手をとってしまったのだけれど、ふと我に返って顔が熱くなってしまっている。イケメン、やはり侮りがたし。
広いお庭の中には鳥居があり、その奥には真っ赤なお社が祀られていた。その鮮やかな色を見たとき、はっと頭をよぎるものがあった。そうだ私はあの日、人込みの中で庭見世にすっかり飽きてしまって、ひとりでお庭のあちこちを探検していたのだ。
『ねこちゃん、まって!』
庭見世では入れる場所は限られているけれど、小さい子どもであればすり抜けられるところはたくさんある。子どもの視点は低い。貫禄たっぷりのかぎしっぽの猫を追いかけて、私はひとりでこの鳥居をくぐったのだ。そして、あるはずのない長い坂道で迷子になったのだ。
「清香さん、どうしましたか?」
「え、いや、何でもないです。……って、あれ、名前?」
いきなりお兄さんに下の名前で呼ばれて、ただでさえ上がっていた体温が急激に上昇した。
「え、なんで、デートだからですか? きゅ、急に呼ばれたらそんな、緊張しちゃうっていうか」
「急に? そんなことはないですよ。だって、清香さんは、清香さんでしょう?」
清香という名前は珍しくもない、ごく普通の名前だと思う。昔からある読み方だし、難読漢字でもない。ところが、学校でも就職してからもみんな私のことを「きよか」と呼んだ。
別に名前を間違えられたからと言って、腹なんて立たない。母の旧姓も読み間違えられることが多いので、もう誰かわかればそれでいいとこだわりなく暮らしている。なんだったら家族以外で私のことを「さやか」と呼ぶひとはいないくらいだ。
「せっかくだから、さやかさんも僕の名前を呼んでくださいよ」
「せっかくって、まったくもう……」
「だっていつまでも、他人行儀じゃ寂しいじゃないですか」
「でも私、下の名前なんて……」
「清香さん、ちゃんと僕の名前も呼んでください。約束、したでしょう?」
繋がれたてのひらが熱い。そしてそれと同じくらい、耳たぶでゆれる桃珊瑚が熱を帯びている。
私の名前は伝票に載っているからお兄さんが把握していることはおかしくない。でも、お兄さんが名乗らない限り、私はお兄さんの下の名前なんて知るはずもないのだ。それなのに。
「朔夜さん?」
「はい。ほら足元に気を付けて。鳥居をくぐりますよ」
するりと口から名前が出てきた。え、なんで、私、お兄さんの名前を知っているんだろう?
驚く私を尻目に、お兄さん……朔夜さんは私の手を引くようにどんどん前に進んでいく。まだ正午前だというのに、鳥居の向こう側はあの日と同じくすっかり夜になっていた。
0
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説
【台本置き場】珠姫が紡(つむ)ぐ物語
珠姫
キャラ文芸
セリフ初心者の、珠姫が書いた声劇台本ばっかり載せております。
裏劇で使用する際は、報告などは要りません。
一人称・語尾改変は大丈夫です。
少しであればアドリブ改変なども大丈夫ですが、世界観が崩れるような大まかなセリフ改変は、しないで下さい。
著作権(ちょさくけん)フリーですが、自作しました!!などの扱いは厳禁(げんきん)です!!!
あくまで珠姫が書いたものを、配信や個人的にセリフ練習などで使ってほしい為です。
配信でご使用される場合は、もしよろしければ【Twitter@tamahime_1124】に、ご一報ください。
ライブ履歴など音源が残る場合なども同様です。
覗きに行かせて頂きたいと思っております。
特に規約(きやく)はあるようで無いものですが、例えば舞台など…劇の公演(有料)で使いたい場合や、配信での高額の収益(配信者にリアルマネー5000円くらいのバック)が出た場合は、少しご相談いただけますと幸いです。
無断での商用利用(しょうようりよう)は固くお断りいたします。
何卒よろしくお願い申し上げます!!
YESか農家
ノイア異音
キャラ文芸
中学1年生の東 伊奈子(あずま いなこ)は、お年玉を全て農機具に投資する変わり者だった。
彼女は多くは語らないが、農作業をするときは饒舌にそして熱く自分の思想を語る。そんな彼女に巻き込まれた僕らの物語。
今日から俺は魔法少女!?
天野ナギサ
キャラ文芸
いつか変身して町のヒーローになりたい松城京馬。
しかし、現実は甘くない。変身も怪物も現れず中学2年生になった。
そんなある日、怪物と妖精が現れ変身することに!
だが、姿は魔法少女!?
どうする京馬!!
※カクヨム、Nola、なろうにも投稿しております。
超絶! 悶絶! 料理バトル!
相田 彩太
キャラ文芸
これは廃部を賭けて大会に挑む高校生たちの物語。
挑むは★超絶! 悶絶! 料理バトル!★
そのルールは単純にて深淵。
対戦者は互いに「料理」「食材」「テーマ」の3つからひとつずつ選び、お題を決める。
そして、その2つのお題を満たす料理を作って勝負するのだ!
例えば「料理:パスタ」と「食材:トマト」。
まともな勝負だ。
例えば「料理:Tボーンステーキ」と「食材:イカ」。
骨をどうすればいいんだ……
例えば「料理:満漢全席」と「テーマ:おふくろの味」
どんな特級厨師だよ母。
知力と体力と料理力を駆使して競う、エンターテイメント料理ショー!
特売大好き貧乏学生と食品大会社令嬢、小料理屋の看板娘が今、ここに挑む!
敵はひとクセもふたクセもある奇怪な料理人(キャラクター)たち。
この対戦相手を前に彼らは勝ち抜ける事が出来るのか!?
料理バトルものです。
現代風に言えば『食〇のソーマ』のような作品です。
実態は古い『一本包丁満〇郎』かもしれません。
まだまだレベル的には足りませんが……
エロ系ではないですが、それを連想させる表現があるのでR15です。
パロディ成分多めです。
本作は小説家になろうにも投稿しています。
フリー声劇台本〜モーリスハウスシリーズ〜
摩訶子
キャラ文芸
声劇アプリ「ボイコネ」で公開していた台本の中から、寄宿学校のとある学生寮『モーリスハウス』を舞台にした作品群をこちらにまとめます。
どなたでも自由にご使用OKですが、初めに「シナリオのご使用について」を必ずお読みくださいm(*_ _)m
護堂先生と神様のごはん あやかし子狐と三日月オムライス
栗槙ひので
キャラ文芸
中学校教師の護堂夏也は、独り身で亡くなった叔父の古屋敷に住む事になり、食いしん坊の神様と、ちょっと大人びた座敷童子の少年と一緒に山間の田舎町で暮らしている。
神様や妖怪達と暮らす奇妙な日常にも慣れつつあった夏也だが、ある日雑木林の藪の中から呻き声がする事に気が付く。心配して近寄ってみると、小さな子どもが倒れていた。その子には狐の耳と尻尾が生えていて……。
保護した子狐を狙って次々現れるあやかし達。霊感のある警察官やオカルト好きの生徒、はた迷惑な英語教師に近所のお稲荷さんまで、人間も神様もクセ者ばかり。夏也の毎日はやっぱり落ち着かない。
護堂先生と神様のごはんシリーズ
長編3作目
百合系サキュバス達に一目惚れされた
釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。
文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。
そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」「ノベルバ」「ノベルピア」にも掲載しております。
『古城物語』〜『猫たちの時間』4〜
segakiyui
キャラ文芸
『猫たちの時間』シリーズ4。厄介事吸引器、滝志郎。彼を『遊び相手』として雇っているのは朝倉財閥を率いる美少年、朝倉周一郎。今度は周一郎の婚約者に会いにドイツへ向かう二人だが、もちろん何もないわけがなく。待ち構えていたのは人の心が造り出した迷路の罠だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる