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(9)べっ甲-3

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「え、なんで? 普段なら、依頼を受けたらみんな消えちゃうんだけれど?」

 私の疑問に、もちろん答えなどない。不思議そうに小首を傾げてくるばかりだ。そんな蓄音機の前で首を傾げるわんちゃんみたいなポーズを取られても困る。可愛いけれど。目の前にはインスタ映えするレトロな石壁の丸山町交番があるが、そこに連れていけばいいのだろうか。

「君、あやかしじゃないの? それなら飼い主さんが心配しているだろうし、とりあえず交番に行……、あ、待って。道路に行ったら危ないから、走るのは公園の中だけにしてええええ」

 交番なんて行きませんよと言わんばかりに、再びダッシュを始める白黒の犬。丸山公園の中にたむろする大量の鳩を羽ばたかせながら逃げ回る。ひいっ、やめて。鳩の勢いが怖すぎるから。これはもしや……。

「ええと、指輪の持ち主に一緒に届けに行きたいの?」

 ぴたりと犬の逃走が止まった。なるほど、この子は一緒にお届け物をしたいらしい。だが、しかしだ。リードなしで繁華街をうろうろする訳にもいかないだろう。丸山公園は、その昔花街があった丸山地区に作られた公園だ。周囲にあるのは、かつての建物を利用した料亭や民家ばかり。もちろん公園の中に売店などはなく、いるのはひと懐っこい地域猫たちだけ。近くのコンビニにもリードは置いているとは思えない。

 普通の犬だった場合事故や迷子が心配だし、あやかしだった場合でも他人から見たらノーリードで人込みを歩く迷惑な飼い主である。そもそも私が抱っこして歩くにしても、小型犬とはいえそれなりの重量がありそうだ。さすがにあてどもなく指輪の持ち主を探しながら歩き回るのは厳しいだろう。それともあやかしともなれば、重さなど皆無なのだろうか。

「せめて君にリードが付いていたらなあ。とりあえずしょうがないから、そこのコンビニで段ボールをもらって君を入れて運べばいい? それで一番近いペットショップまで行って、リードを買ったらぎりぎり許されるかな。頼むから箱から飛び出したりしないでよ」

 コンビニに段ボールをもらいに行くにしても、とりあえずこの犬を捕まえないことには話が進まない。一緒に行くのならこちらに来なさい。そう心の中でつぶやきながら犬を見つめれば、赤い首輪から先ほどまではなかったはずのリードがぬるんと生えていた。怖い。

「いやいやいや、さっきまでリードなかったじゃん。何それ、出し入れ自由ってこと? リードも身体の一部なの? なんなの。やっぱりあやかしなの? ひい、持ちたくない……」

 このリードに対しての信頼性は薄いが、とりあえずないよりマシだと思うことにした。リードはごく普通のリードの感触なのが逆に怖い。写真を取ったら、なんか変なものを握っていたらどうしよう。

「あとは、どこから探すかだよなあ。いきなりやみくもにうろつきたくないし……」

 手がかりがさっぱりわからない飴色の指輪をしげしげと眺める。あやかし坂は時間が止まっているのか、指輪に汚れや傷は見当たらない。変な話、先ほどどこかのお土産物屋さんで買ったと言われたら納得してしまいそうな雰囲気だ。

「ああ、お腹空いた。昼ご飯を食べるために降りてきたから、完全にすきっ腹なんだけどなあ。はあ、とりあえずコンビニで飴でも買うか。この指輪を見ていたら、『純露』を食べたくなってきちゃった」

 祖母の家に行くと必ず置いてあったお菓子を思い出してちょっと懐かしくなった。祖母……というよりも、曾祖母が好きだったのが、『香砂粉(こうさこ)』と『純露』、それから『ツナピコ』だ。

 おそらく他県の皆さまは、『落雁』と読んでいるようなお菓子。それが、『口砂粉』である。厳密には干菓子、落雁、口砂粉で原材料が少々異なるらしい。しかし、子どもにとっては砂糖の塊。大人になった今だからこそ、お茶のお供にできる代物だろう。

 『純露』は、みなさんご存知50年以上愛される王道のキャンディ。祖母の家では、紅茶味ばかりが人気で、べっ甲あめ味は無情にも売れ残っていた。

 ちなみにチョコレートだと思い込んで勢いよく口の中に放り込んだときのあの裏切りの『ツナピコ』の味を私はいまだに忘れてはいない。なぜ焼津の銘菓がこんな曾祖父母、祖父母世代に定着しているのか、昭和のおつまみは謎が多すぎる。

「……この指輪、べっ甲か!」

 なんとなく、誰かに恣意的に連想ゲームをさせられているような気がする。足元の犬は、何も知らない顔でこちらを見つめているばかりなのだけれど。

 べっ甲は、ウミガメの一種であるタイマイの甲羅の加工品だ。ワシントン条約によって、現在はタイマイの商業取引は禁止されている。今ある商品はワシントン条約で禁止される前に確保された原材料の在庫によってやりくりされているらしい。

 今はべっ甲といえば眼鏡を思い起こすひとが多いだろうけれど、かつては憧れの高級アクセサリーとして人気があったという。遊女たちは、べっ甲の簪や櫛を重ね付けして位の高さを示していたのだとか。

 丸山遊女たちは出島の外国人たちの相手をすることもあったと聞く。この指輪は、外国の文化に触れることができた当時の遊女のものなのだろうか。だが、犬はのほほんとした顔で、こちらを見上げてくるばかりだ。

「じゃあ、もしかして君は狆なの?」

 外に出ることのできない遊女たちが猫を飼っていたことは有名だが、座敷犬と言われる犬も飼われていたらしい。大慌てでネットで検索してみると、なるほど目の前の犬とそっくりな鼻ぺちゃの小型犬がたくさん出てきた。

「ここら辺の料亭に行けってこと? 無理だよ。冠婚葬祭だとか接待だとかで使うような店ばっかりだよ。今日の財布の中身、全然入ってないし。こんな適当過ぎる格好で、出入りしたくないって」

 普段使いするようなお店ではないのだ。とりあえず私は、すっかり少なくなってしまったべっ甲のお店に向かうことにしたのだった。
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