3 / 8
(3)
しおりを挟む
離宮に籠りきりの夫をよそに、王妃はひとり執務室で書類仕事をしていた。部屋の中には、羊皮紙に羽ペンで文字をつづる音だけが響いている。そこへ足音高く押しかけてきたのは、エスターの父である宰相だった。
「まあ、宰相閣下。ご機嫌麗しゅう」
書類から目を離すこともなく、エスターは父に声をかけた。彼女自身は、身分の上下にかかわらず、どちらの立場が先に挨拶しても構わないと思っている。しかし、以前に父が訪問したことに気づかずに仕事を続けた結果、父は頭を上げることなく臣下の礼を取り続ける羽目になったのだ。
なぜ自分に知らせなかったのかと側仕えを叱ったが、側仕えはのらりくらりとかわし続けるばかりで話にならない。必然的にどんな状態であっても、エスターは自分から周囲に声をかける癖がついてしまった。
「王妃殿下、わしの機嫌が良いようにお見えですかな」
「ここ最近めっきり冷え込んでいたけれど、頬が色づいているようね。血行が良いことは素晴らしいことだわ」
「血の巡りが良すぎて、むしろ倒れそうですぞ。何ですかな、この人事は。好き勝手に解任など、国母たる王妃がすることではありますまい」
ぶるぶると手を震わせつつ、怒りの表情を露わにする父を前にしてもやはりエスターは無表情を貫いていた。彼が手に握り込んでいるのは、ここ最近の城内で雇っている名簿のようだ。なるほど、王妃による偏った貴族の取り立てと解雇状況はようやく宰相の耳にも届いてしまったようだ。
「あら、これは国を育てるために人員整理は必要なことですもの」
「人員整理ですか。それでは国王陛下のあの放蕩ぶりは、どう説明するおつもりで?」
「何度も言っているでしょう? 私は陛下の母ではないのよ。陛下のなさりようについては、陛下の責任です。どうしてもというのであれば、王太后陛下にお願いするべきでしょう? 王太后陛下はありがたいことにまだご存命なのですから」
「まったくありがたいことでございますな」
先代国王の唯一の妃である王太后は、愛情深い女性だった。何せ貴族間の常識を打ち破り、乳母を雇うことなく、平民のように自ら我が子を育て上げたのだ。その結果、愛情至上主義で現実を理解できぬ愚王が誕生することになったのだけれど。正直なところ、何かあれば製造元に苦情を言ってくれというのがエスターの偽らざる本音であった。
「子どもにとって良き父となれないようであれば、いっそ距離を置いていただいた方がこちらとしても都合が良いのです」
「子どもが父親を求めていたとしても?」
「父親の代わりなどいくらでもおりましてよ。母親が私でなくてもよかったように」
「さすがに言葉が過ぎますぞ」
「母になったのですもの。投げ出すつもりなど、毛頭ありませんわ。ただし私の愛し方と育て方は、王太后陛下とは異なるのです。子を想う母の気持ちはみな同じでしょうけれど、やり方はひとつとして同じものはありません。ひとりとして、同じ子どもがいないのと同じように」
「王妃殿下、後悔しても遅い。考えを改めるならば今のうちです」
「そもそもお飾りの王妃には感情は必要ありません。後悔などするはずがないことは明白です」
「殿下!」
「おやおや、宰相閣下は少々お疲れのご様子。王妃殿下、宰相閣下に休暇を差し上げてはいかがでしょう」
「それは良い考えね。それでは閣下、あなたにはしばらくの間、領地での静養を命じます。そうね、この冬の寒さは身体に堪えるでしょう。春になったら、また城にいらっしゃい」
「エスター!」
臣下としての礼も忘れて、宰相が叫んだ。それを聞こえない振りをして、エスターは書類仕事を再開する。エスターの意をくみ、側仕えが柔らかい物腰ながら有無を言わせぬ勢いで退室を促していた。
「まあ、宰相閣下。ご機嫌麗しゅう」
書類から目を離すこともなく、エスターは父に声をかけた。彼女自身は、身分の上下にかかわらず、どちらの立場が先に挨拶しても構わないと思っている。しかし、以前に父が訪問したことに気づかずに仕事を続けた結果、父は頭を上げることなく臣下の礼を取り続ける羽目になったのだ。
なぜ自分に知らせなかったのかと側仕えを叱ったが、側仕えはのらりくらりとかわし続けるばかりで話にならない。必然的にどんな状態であっても、エスターは自分から周囲に声をかける癖がついてしまった。
「王妃殿下、わしの機嫌が良いようにお見えですかな」
「ここ最近めっきり冷え込んでいたけれど、頬が色づいているようね。血行が良いことは素晴らしいことだわ」
「血の巡りが良すぎて、むしろ倒れそうですぞ。何ですかな、この人事は。好き勝手に解任など、国母たる王妃がすることではありますまい」
ぶるぶると手を震わせつつ、怒りの表情を露わにする父を前にしてもやはりエスターは無表情を貫いていた。彼が手に握り込んでいるのは、ここ最近の城内で雇っている名簿のようだ。なるほど、王妃による偏った貴族の取り立てと解雇状況はようやく宰相の耳にも届いてしまったようだ。
「あら、これは国を育てるために人員整理は必要なことですもの」
「人員整理ですか。それでは国王陛下のあの放蕩ぶりは、どう説明するおつもりで?」
「何度も言っているでしょう? 私は陛下の母ではないのよ。陛下のなさりようについては、陛下の責任です。どうしてもというのであれば、王太后陛下にお願いするべきでしょう? 王太后陛下はありがたいことにまだご存命なのですから」
「まったくありがたいことでございますな」
先代国王の唯一の妃である王太后は、愛情深い女性だった。何せ貴族間の常識を打ち破り、乳母を雇うことなく、平民のように自ら我が子を育て上げたのだ。その結果、愛情至上主義で現実を理解できぬ愚王が誕生することになったのだけれど。正直なところ、何かあれば製造元に苦情を言ってくれというのがエスターの偽らざる本音であった。
「子どもにとって良き父となれないようであれば、いっそ距離を置いていただいた方がこちらとしても都合が良いのです」
「子どもが父親を求めていたとしても?」
「父親の代わりなどいくらでもおりましてよ。母親が私でなくてもよかったように」
「さすがに言葉が過ぎますぞ」
「母になったのですもの。投げ出すつもりなど、毛頭ありませんわ。ただし私の愛し方と育て方は、王太后陛下とは異なるのです。子を想う母の気持ちはみな同じでしょうけれど、やり方はひとつとして同じものはありません。ひとりとして、同じ子どもがいないのと同じように」
「王妃殿下、後悔しても遅い。考えを改めるならば今のうちです」
「そもそもお飾りの王妃には感情は必要ありません。後悔などするはずがないことは明白です」
「殿下!」
「おやおや、宰相閣下は少々お疲れのご様子。王妃殿下、宰相閣下に休暇を差し上げてはいかがでしょう」
「それは良い考えね。それでは閣下、あなたにはしばらくの間、領地での静養を命じます。そうね、この冬の寒さは身体に堪えるでしょう。春になったら、また城にいらっしゃい」
「エスター!」
臣下としての礼も忘れて、宰相が叫んだ。それを聞こえない振りをして、エスターは書類仕事を再開する。エスターの意をくみ、側仕えが柔らかい物腰ながら有無を言わせぬ勢いで退室を促していた。
176
お気に入りに追加
259
あなたにおすすめの小説
未亡人となった側妃は、故郷に戻ることにした
星ふくろう
恋愛
カトリーナは帝国と王国の同盟により、先代国王の側室として王国にやって来た。
帝国皇女は正式な結婚式を挙げる前に夫を失ってしまう。
その後、義理の息子になる第二王子の正妃として命じられたが、王子は彼女を嫌い浮気相手を溺愛する。
数度の恥知らずな婚約破棄を言い渡された時、カトリーナは帝国に戻ろうと決めたのだった。
他の投稿サイトでも掲載しています。
【完結】王太子妃の初恋
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
カテリーナは王太子妃。しかし、政略のための結婚でアレクサンドル王太子からは嫌われている。
王太子が側妃を娶ったため、カテリーナはお役御免とばかりに王宮の外れにある森の中の宮殿に追いやられてしまう。
しかし、カテリーナはちょうど良かったと思っていた。婚約者時代からの激務で目が悪くなっていて、これ以上は公務も社交も難しいと考えていたからだ。
そんなカテリーナが湖畔で一人の男に出会い、恋をするまでとその後。
★ざまぁはありません。
全話予約投稿済。
携帯投稿のため誤字脱字多くて申し訳ありません。
報告ありがとうございます。
子供なんていらないと言ったのは貴男だったのに
砂礫レキ
恋愛
男爵夫人のレティシアは突然夫のアルノーから離縁を言い渡される。
結婚してから十年間経つのに跡継ぎが出来ないことが理由だった。
アルノーは妊娠している愛人と共に妻に離婚を迫る。
そしてレティシアは微笑んで応じた。前後編で終わります。
さよなら私の愛しい人
ペン子
恋愛
由緒正しき大店の一人娘ミラは、結婚して3年となる夫エドモンに毛嫌いされている。二人は親によって決められた政略結婚だったが、ミラは彼を愛してしまったのだ。邪険に扱われる事に慣れてしまったある日、エドモンの口にした一言によって、崩壊寸前の心はいとも簡単に砕け散った。「お前のような役立たずは、死んでしまえ」そしてミラは、自らの最期に向けて動き出していく。
※5月30日無事完結しました。応援ありがとうございます!
※小説家になろう様にも別名義で掲載してます。
三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します
冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」
結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。
私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。
そうして毎回同じように言われてきた。
逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。
だから今回は。
私が死んだあとの世界で
もちもち太郎
恋愛
婚約破棄をされ断罪された公爵令嬢のマリーが死んだ。
初めはみんな喜んでいたが、時が経つにつれマリーの重要さに気づいて後悔する。
だが、もう遅い。なんてったって、私を断罪したのはあなた達なのですから。
けじめをつけさせられた男
杜野秋人
恋愛
「あの女は公爵家の嫁として相応しくありません!よって婚約を破棄し、新たに彼女の妹と婚約を結び直します!」
自信満々で、男は父にそう告げた。
「そうか、分かった」
父はそれだけを息子に告げた。
息子は気付かなかった。
それが取り返しのつかない過ちだったことに⸺。
◆例によって設定作ってないので固有名詞はほぼありません。思いつきでサラッと書きました。
テンプレ婚約破棄の末路なので頭カラッポで読めます。
◆しかしこれ、女性向けなのか?ていうか恋愛ジャンルなのか?
アルファポリスにもヒューマンドラマジャンルが欲しい……(笑)。
あ、久々にランクインした恋愛ランキングは113位止まりのようです。HOTランキング入りならず。残念!
◆読むにあたって覚えることはひとつだけ。
白金貨=約100万円、これだけです。
◆全5話、およそ8000字の短編ですのでお気軽にどうぞ。たくさん読んでもらえると有り難いです。
ていうかいつもほとんど読まれないし感想もほぼもらえないし、反応もらえないのはちょっと悲しいです(T∀T)
◆アルファポリスで先行公開。小説家になろうでも公開します。
◆同一作者の連載中作品
『落第冒険者“薬草殺し”は人の縁で成り上がる』
『熊男爵の押しかけ幼妻〜今日も姫様がグイグイ来る〜』
もよろしくお願いします。特にリンクしませんが同一世界観の物語です。
◆(24/10/22)今更ながら後日談追加しました(爆)。名前だけしか出てこなかった、婚約破棄された側の侯爵家令嬢ヒルデガルトの視点による後日談です。
後日談はひとまず、アルファポリス限定公開とします。
【完結】返してください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと我慢をしてきた。
私が愛されていない事は感じていた。
だけど、信じたくなかった。
いつかは私を見てくれると思っていた。
妹は私から全てを奪って行った。
なにもかも、、、、信じていたあの人まで、、、
母から信じられない事実を告げられ、遂に私は家から追い出された。
もういい。
もう諦めた。
貴方達は私の家族じゃない。
私が相応しくないとしても、大事な物を取り返したい。
だから、、、、
私に全てを、、、
返してください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる