お飾り王妃の愛と献身

石河 翠

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 離宮に籠りきりの夫をよそに、王妃はひとり執務室で書類仕事をしていた。部屋の中には、羊皮紙に羽ペンで文字をつづる音だけが響いている。そこへ足音高く押しかけてきたのは、エスターの父である宰相だった。

「まあ、宰相閣下。ご機嫌麗しゅう」

 書類から目を離すこともなく、エスターは父に声をかけた。彼女自身は、身分の上下にかかわらず、どちらの立場が先に挨拶しても構わないと思っている。しかし、以前に父が訪問したことに気づかずに仕事を続けた結果、父は頭を上げることなく臣下の礼を取り続ける羽目になったのだ。

 なぜ自分に知らせなかったのかと側仕えを叱ったが、側仕えはのらりくらりとかわし続けるばかりで話にならない。必然的にどんな状態であっても、エスターは自分から周囲に声をかける癖がついてしまった。

「王妃殿下、わしの機嫌が良いようにお見えですかな」
「ここ最近めっきり冷え込んでいたけれど、頬が色づいているようね。血行が良いことは素晴らしいことだわ」
「血の巡りが良すぎて、むしろ倒れそうですぞ。何ですかな、この人事は。好き勝手に解任など、国母たる王妃がすることではありますまい」

 ぶるぶると手を震わせつつ、怒りの表情を露わにする父を前にしてもやはりエスターは無表情を貫いていた。彼が手に握り込んでいるのは、ここ最近の城内で雇っている名簿のようだ。なるほど、王妃による偏った貴族の取り立てと解雇状況はようやく宰相の耳にも届いてしまったようだ。

「あら、これは国を育てるために人員整理は必要なことですもの」
「人員整理ですか。それでは国王陛下のあの放蕩ぶりは、どう説明するおつもりで?」
「何度も言っているでしょう? 私は陛下の母ではないのよ。陛下のなさりようについては、陛下の責任です。どうしてもというのであれば、王太后陛下にお願いするべきでしょう? 王太后陛下はありがたいことにまだご存命なのですから」
「まったくありがたいことでございますな」

 先代国王の唯一の妃である王太后は、愛情深い女性だった。何せ貴族間の常識を打ち破り、乳母を雇うことなく、平民のように自ら我が子を育て上げたのだ。その結果、愛情至上主義で現実を理解できぬ愚王が誕生することになったのだけれど。正直なところ、何かあれば製造元に苦情を言ってくれというのがエスターの偽らざる本音であった。

「子どもにとって良き父となれないようであれば、いっそ距離を置いていただいた方がこちらとしても都合が良いのです」
「子どもが父親を求めていたとしても?」
「父親の代わりなどいくらでもおりましてよ。母親が私でなくてもよかったように」
「さすがに言葉が過ぎますぞ」
「母になったのですもの。投げ出すつもりなど、毛頭ありませんわ。ただし私の愛し方と育て方は、王太后陛下とは異なるのです。子を想う母の気持ちはみな同じでしょうけれど、やり方はひとつとして同じものはありません。ひとりとして、同じ子どもがいないのと同じように」
「王妃殿下、後悔しても遅い。考えを改めるならば今のうちです」
「そもそもお飾りの王妃には感情は必要ありません。後悔などするはずがないことは明白です」
「殿下!」
「おやおや、宰相閣下は少々お疲れのご様子。王妃殿下、宰相閣下に休暇を差し上げてはいかがでしょう」
「それは良い考えね。それでは閣下、あなたにはしばらくの間、領地での静養を命じます。そうね、この冬の寒さは身体に堪えるでしょう。春になったら、また城にいらっしゃい」
「エスター!」

 臣下としての礼も忘れて、宰相が叫んだ。それを聞こえない振りをして、エスターは書類仕事を再開する。エスターの意をくみ、側仕えが柔らかい物腰ながら有無を言わせぬ勢いで退室を促していた。
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