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 それは、やはり月のないある夜のことだった。ここ最近、食事さえ届けることもしなくなった文乃の姉が、突然蔵にやってきた。

「文乃、起きなさい! 文乃!」

 もう夜も遅いというのに、文乃の姉は彼女の返事を待つことなく、がたがたと蔵の扉を開け放つ。

「あの、どうなされましたか?」

 懐に天然ゆたんぽである猫を抱いてぐっすりと眠っていた文乃は、寝ぼけ眼のまま身体を起こす。そこに投げつけられたのは、火のついた着物だった。突然の出来事に驚いたものの、熱さを感じる前に火はすぐに消えていく。清月がすごい勢いで飛び出していったから、何かしたのかもしれない。目を瞬かせている文乃に向かって、文乃の姉は泣き叫んだ。

「今すぐ、火を消しなさいよ!」
「あの、着物の火は消えているみたいですが」
「あなたとおばあさまのせいで。お母さまは!」
「お姉さま、お母さまの身に何か?」
「何よ、全部わかっているくせに! 心配する振りをする暇があるのなら、火を消してって言っているじゃない。お母さまが死んじゃう、死んじゃうよお」

 わっと泣き崩れる姉の向こう側は、夜だというのにやけに明るく、焦げくさい臭いが鼻につく。まさかと思い扉に近づくと、母屋は激しい炎に包まれていた。

「これは一体?」
「何よ、しらばっくれて。あなたがやったんでしょうが!」

 困惑する文乃は、先ほど投げつけられた着物をそっと拾い上げる。もともとは、鮮やかな紅色にいくつもの花が描かれた美しい着物。祖母が大切にしていた名匠の一品だ。それが火にくべられたせいで見るも無残に焼き焦げている。焼けずに残った部分も、墨を流し込んだように黒く染まっていた。それは、蔵の中に置かれていた「曰くつき」たちから染み出してきた何かによく似ている。

「お姉さま、おばあさまの形見の着物に触れてはいけなかったのではありませんか? それほどこの着物が欲しかったのですか」
「違うわよ。近づくと具合が悪くなる着物なんて家にあると恐ろしいから、燃やしてしまおうと思ったの。火は悪いものを浄化するというじゃない。それなのに、着物に火をつけた瞬間、母屋に火が突然燃え広がって……」

 どうやら姉には、「曰くつき」から染み出た墨は見えないらしい。それでも本能的に危険を察知し、その結果燃やしてしまおうと思ったのか。その判断の速さと思い切りの良さに驚きつつ、文乃は小さく首を横に振る

「お姉さま、その火事は私の手によるものではありません。『曰くつき』に火を放ったから、火が返ってきてしまったのです」

 清月いわく、「曰くつき」は付喪神になりかけの古道具やら骨董品やらが、負の感情を溜めこんで持て余したあげく堕ちてしまうもの。そしてなりかけとはいえ、神の一端にいるもの。好意と悪意は明確に嗅ぎ分ける。おそらく文乃の祖母の着物は、付喪神になりかけていたのだ。神ならばいっそ手心も加えてくれたかもしれないが、「曰くつき」ともなれば文乃への悪意がまるっと跳ね返ってもおかしくない。そこまで説明したところで、文乃は頬をうたれた。

「それでも、あなたはお母さまの娘なの!」
「お姉さま、私、お母さまと過ごした記憶がほとんどないのです。だから私には、お姉さまの気持ちはわかりません。普通のひとが持つべき、お母さまへの気持ちもわかりません。けれど、大事なひとがいなくなってしまう悲しみは、私も知っています。お姉さまも、頑張ってください。私も頑張ります。もしかしたら、私たちはまだ間に合うかもしれません」
「あなた、何を言って」
「すみません!」

 まだ何やらまくしたてる姉を、文乃は外に突き飛ばす。そして自ら望んで蔵の扉を閉めた。鍵などかけずとも、こちら側とあちら側とがはっきりと分断されたのがなぜだか理解できた。暗闇に猫の目が光る。
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