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「こんにちは。気分はどうですか。一応、比較的安全性の高い薬品を使ったのですが」
フィンリーが目を覚ました時、そばにいたのは子爵家の現当主だった。細面の青年が、穏やかな口調で問いかけてくる。部屋には窓がないせいで、自分が眠ってしまってからどれくらい経ったのか判断できなかった。
(ふざけるなよ)
死ぬほど頭が痛い。以前に酔っ払った団員に無理矢理酒を飲まされたことがあるが、その翌日の二日酔いを超える気持ち悪さだ。
吐かずに済んでいるのは、彼女がきちんとベッドに寝かされているおかげだろう。この後のことを考えれば、ベッドの上にいることは決して幸せなことではないはずだが。
「……どう、して?」
フィンリーの問いに、青年は顔をほころばせた。
「『幸運の女神には前髪しかない』と言うでしょう?」
(何を言ってるんだ? 女神さまに前髪しかないってハゲか?)
フィンリーの戸惑いには気がつかないまま、青年の語りは続く。
「あの日、叔父の屋敷で一目惚れした君が、まさか僕の元に戻ってきてくれるなんて」
(叔父?)
孤児だった自分を引き取り、そのまま襲おうとした変態お稚児趣味の貴族は、目の前の青年の親戚だったらしい。これは、一網打尽にできる良い機会かもしれない。フィンリーが、この状態から逃げ出すことが叶えばの話だが。
「あの日、僕にできることは門の鍵を開けておくことだけだった。走り去る君の背中に僕は誓ったんです。君を必ず手に入れると」
(勝手に誓うな。巻き込むな)
もちろん、フィンリーの声が青年に届くことはない。
「ところが、腹立たしいことに、僕と君との間にお邪魔虫が入り込もうとしていたことに気がつきましてね。君にカモミールの花を渡す彼の姿のなんと不愉快だったことか。ですから僕も、少々強引にお招きすることにしたんです」
部屋に置いてあった水差しのカモミールティーは薬入りだった。これは、後からローガンに叱られるのが確定したなとフィンリーはめまいがする。本来であれば、誰が準備したかわからないものには、手をつけないようにしなければならないのだから。
「叔父の屋敷を逃げ出した後、君がどんな暮らしをしていたのか。話を聞かせてください。きっと大変だったことでしょう。大丈夫、たとえどんな仕事をしていたのだとしても、僕は受け入れますよ。あの男と僕は違いますから。これからは、不自由などさせません。どうぞ安心してくださいね」
「……さい」
「え?」
「うるさいって言ってるんだよ」
「な、何を……」
「ひとの気持ちを勝手に決めるなよ。俺たちはあんたらの人形遊びのおもちゃじゃねえんだよ」
騎士団とは言っても、平民の叩き上げ部隊にずっといるのだ。お上品な言葉からはかけ離れた言葉が、息をするように口から紡がれる。怒りは力になるのだと、実感した。
「お前に、俺たちの何がわかる!」
騎士団の訓練はきつい。仕事は多い。事件の対応をしても、感謝されるわけではない。罵倒されることだってある。それでもフィンリーは、この仕事が好きだった。この仕事に関わるひとたちが好きだった。何より、自分の相棒を馬鹿にされるのは我慢ならなかった。
「じゃじゃ馬な君も可愛いですが、これから従順になっていく君を想像するとさらに楽しくなりますね」
男がどこか嗜虐的な笑みを浮かべた。
(こいつっ!)
唇を噛みながら、フィンリーはスカートの中にそっと手を滑らせる。そこに隠していたナイフを手に取ろうとして、青ざめた。
(ない? どうして?)
「物騒でしたのでね、こちらで預からせてもらいましたよ」
ローガンに「武器が丸見えだ」と叱られたあの時か。それとももっと前に気づかれていたのか。浅はかな自分が悔しくて、目の前がにじむ。その姿を好ましげに眺めていた青年が、ベッドの上に上がり込んだ。
「さて、もう少しおしゃべりを楽しみたかったのですが。彼がこちらに来る前に既成事実を作ってしまいましょうね。いや、どうせなら最中を見せつけてあげたほうが面白いかな」
「この下衆が!」
目の前に男の唇が迫ってくる。フィンリーに武器はない。多少体は動くようになってきたとはいえ、この体勢ではまず勝てない。この場でできることはただひとつ。
深く息を吸い込み、口をしっかりを閉じる。そのまま目をつぶり唇が触れ合う直前……勢いよく頭突きをした。
部隊に所属する屈強な男たちが、我が子からの不意打ちの頭突きで鼻血を出している姿をフィンリーは何度も見てきた。特に赤子は強い。相手の油断をつけば、勝機は必ずある。
さすがに、追い詰められたフィンリーが至近距離で全力の頭突きを繰り出してくるとは、男も思いつかなかったらしい。渾身の一撃は美しくきまった。
「フィンリー!」
直後に部屋の扉が開き、ローガンは涙目でのたうち回るフィンリーを目の当たりにする。そしてその横で悶絶する男の姿も。
「貴様、私のフィンリーに!」
そのまま胸ぐらを掴まれ、殴りつけられた子爵家当主。彼はフィンリーの頭突きに引き続き、ローガンの一撃もまた無防備に受け止めた。
鼻血を出し気絶し、地面に倒れこむ。それでもなお念入りに蹴り飛ばされる姿はいっそ爽快なほどだ。
「遅くなってすまない。フィンリー、怪我はないか?」
「ちょっと危なかったけど、頭突きしたから平気。むしろ、捕まっちゃってごめん」
「お前が無事で本当に良かった」
ぎゅっと抱きしめられて、フィンリーは焦る。いくら仲間の危機だったとはいえ、無事を確かめ合うときに抱擁はあまり行わないような気がした。
(男として振る舞うなら、どう返せばいい?)
混乱したフィンリーが何かを言うより早く、ローガンが低いうめき声をあげた。
「お前は大事な仲間だ。信頼できる相棒だ。でもそれ以上に、私はひとりの人間としてお前を愛している。お前に何かあったら、生きていけない」
「お、俺さ、お、お、男……」
「私が相手では不満か?」
首を振り、否定する。嬉しさと混乱がないまぜになったフィンリーに、ローガンがささやいた。
「お前が女だと最初から知っていた。お前が男として人生をやり直したいというのなら言うつもりはなかったが。どうも迷いがあるように見えたから、悪いがそこにつけこむことにした」
「女が相棒で嫌じゃないの?」
「信頼と性別に、何か関係があるのか?」
まっすぐなローガンの眼差しは、熱を帯びているように見えて頭がくらくらする。
「今すぐ返事をくれなんて言わない。向こうに戻ったら、まずはお茶を飲んで。それから落ち着いて考えてくれ、フィンリー」
ローガンの言葉に、フィンリーは首をかしげる。その言葉は、確かに親友がよく口にしていたものに似ていて……。そこでローガンが困ったように苦笑した。
「私は部隊に配属された当初から気がついていたのに、まったくお前ときたら」
「そんな。だって、あの子はもっと小さくて、可愛くて。こんなに偉そうじゃなかったし……」
「今まで私がどれだけ我慢してきたと思う? 無防備なお前を前に、手持ち無沙汰を誤魔化すために煙草を吸うしかなかった私の気持ちがわかるか?」
真っ赤になったフィンリーの頭を、ローガンがぐしゃぐしゃとなでた。
「だがな、これだけは反省しろ。自分で汲んできた水以外は飲むなって教えただろう」
「悪かったって。ローガンが俺のために用意しておいてくれたんだって思ってさ。だから、ついつい飲んじゃったんだ」
「……お前は、私のことを信用し過ぎだ」
そっぽを向くローガンの横顔は朱に染まっている。けれど、フィンリーはただただ怒られなくて良かったとほっとするばかりであった。
フィンリーが目を覚ました時、そばにいたのは子爵家の現当主だった。細面の青年が、穏やかな口調で問いかけてくる。部屋には窓がないせいで、自分が眠ってしまってからどれくらい経ったのか判断できなかった。
(ふざけるなよ)
死ぬほど頭が痛い。以前に酔っ払った団員に無理矢理酒を飲まされたことがあるが、その翌日の二日酔いを超える気持ち悪さだ。
吐かずに済んでいるのは、彼女がきちんとベッドに寝かされているおかげだろう。この後のことを考えれば、ベッドの上にいることは決して幸せなことではないはずだが。
「……どう、して?」
フィンリーの問いに、青年は顔をほころばせた。
「『幸運の女神には前髪しかない』と言うでしょう?」
(何を言ってるんだ? 女神さまに前髪しかないってハゲか?)
フィンリーの戸惑いには気がつかないまま、青年の語りは続く。
「あの日、叔父の屋敷で一目惚れした君が、まさか僕の元に戻ってきてくれるなんて」
(叔父?)
孤児だった自分を引き取り、そのまま襲おうとした変態お稚児趣味の貴族は、目の前の青年の親戚だったらしい。これは、一網打尽にできる良い機会かもしれない。フィンリーが、この状態から逃げ出すことが叶えばの話だが。
「あの日、僕にできることは門の鍵を開けておくことだけだった。走り去る君の背中に僕は誓ったんです。君を必ず手に入れると」
(勝手に誓うな。巻き込むな)
もちろん、フィンリーの声が青年に届くことはない。
「ところが、腹立たしいことに、僕と君との間にお邪魔虫が入り込もうとしていたことに気がつきましてね。君にカモミールの花を渡す彼の姿のなんと不愉快だったことか。ですから僕も、少々強引にお招きすることにしたんです」
部屋に置いてあった水差しのカモミールティーは薬入りだった。これは、後からローガンに叱られるのが確定したなとフィンリーはめまいがする。本来であれば、誰が準備したかわからないものには、手をつけないようにしなければならないのだから。
「叔父の屋敷を逃げ出した後、君がどんな暮らしをしていたのか。話を聞かせてください。きっと大変だったことでしょう。大丈夫、たとえどんな仕事をしていたのだとしても、僕は受け入れますよ。あの男と僕は違いますから。これからは、不自由などさせません。どうぞ安心してくださいね」
「……さい」
「え?」
「うるさいって言ってるんだよ」
「な、何を……」
「ひとの気持ちを勝手に決めるなよ。俺たちはあんたらの人形遊びのおもちゃじゃねえんだよ」
騎士団とは言っても、平民の叩き上げ部隊にずっといるのだ。お上品な言葉からはかけ離れた言葉が、息をするように口から紡がれる。怒りは力になるのだと、実感した。
「お前に、俺たちの何がわかる!」
騎士団の訓練はきつい。仕事は多い。事件の対応をしても、感謝されるわけではない。罵倒されることだってある。それでもフィンリーは、この仕事が好きだった。この仕事に関わるひとたちが好きだった。何より、自分の相棒を馬鹿にされるのは我慢ならなかった。
「じゃじゃ馬な君も可愛いですが、これから従順になっていく君を想像するとさらに楽しくなりますね」
男がどこか嗜虐的な笑みを浮かべた。
(こいつっ!)
唇を噛みながら、フィンリーはスカートの中にそっと手を滑らせる。そこに隠していたナイフを手に取ろうとして、青ざめた。
(ない? どうして?)
「物騒でしたのでね、こちらで預からせてもらいましたよ」
ローガンに「武器が丸見えだ」と叱られたあの時か。それとももっと前に気づかれていたのか。浅はかな自分が悔しくて、目の前がにじむ。その姿を好ましげに眺めていた青年が、ベッドの上に上がり込んだ。
「さて、もう少しおしゃべりを楽しみたかったのですが。彼がこちらに来る前に既成事実を作ってしまいましょうね。いや、どうせなら最中を見せつけてあげたほうが面白いかな」
「この下衆が!」
目の前に男の唇が迫ってくる。フィンリーに武器はない。多少体は動くようになってきたとはいえ、この体勢ではまず勝てない。この場でできることはただひとつ。
深く息を吸い込み、口をしっかりを閉じる。そのまま目をつぶり唇が触れ合う直前……勢いよく頭突きをした。
部隊に所属する屈強な男たちが、我が子からの不意打ちの頭突きで鼻血を出している姿をフィンリーは何度も見てきた。特に赤子は強い。相手の油断をつけば、勝機は必ずある。
さすがに、追い詰められたフィンリーが至近距離で全力の頭突きを繰り出してくるとは、男も思いつかなかったらしい。渾身の一撃は美しくきまった。
「フィンリー!」
直後に部屋の扉が開き、ローガンは涙目でのたうち回るフィンリーを目の当たりにする。そしてその横で悶絶する男の姿も。
「貴様、私のフィンリーに!」
そのまま胸ぐらを掴まれ、殴りつけられた子爵家当主。彼はフィンリーの頭突きに引き続き、ローガンの一撃もまた無防備に受け止めた。
鼻血を出し気絶し、地面に倒れこむ。それでもなお念入りに蹴り飛ばされる姿はいっそ爽快なほどだ。
「遅くなってすまない。フィンリー、怪我はないか?」
「ちょっと危なかったけど、頭突きしたから平気。むしろ、捕まっちゃってごめん」
「お前が無事で本当に良かった」
ぎゅっと抱きしめられて、フィンリーは焦る。いくら仲間の危機だったとはいえ、無事を確かめ合うときに抱擁はあまり行わないような気がした。
(男として振る舞うなら、どう返せばいい?)
混乱したフィンリーが何かを言うより早く、ローガンが低いうめき声をあげた。
「お前は大事な仲間だ。信頼できる相棒だ。でもそれ以上に、私はひとりの人間としてお前を愛している。お前に何かあったら、生きていけない」
「お、俺さ、お、お、男……」
「私が相手では不満か?」
首を振り、否定する。嬉しさと混乱がないまぜになったフィンリーに、ローガンがささやいた。
「お前が女だと最初から知っていた。お前が男として人生をやり直したいというのなら言うつもりはなかったが。どうも迷いがあるように見えたから、悪いがそこにつけこむことにした」
「女が相棒で嫌じゃないの?」
「信頼と性別に、何か関係があるのか?」
まっすぐなローガンの眼差しは、熱を帯びているように見えて頭がくらくらする。
「今すぐ返事をくれなんて言わない。向こうに戻ったら、まずはお茶を飲んで。それから落ち着いて考えてくれ、フィンリー」
ローガンの言葉に、フィンリーは首をかしげる。その言葉は、確かに親友がよく口にしていたものに似ていて……。そこでローガンが困ったように苦笑した。
「私は部隊に配属された当初から気がついていたのに、まったくお前ときたら」
「そんな。だって、あの子はもっと小さくて、可愛くて。こんなに偉そうじゃなかったし……」
「今まで私がどれだけ我慢してきたと思う? 無防備なお前を前に、手持ち無沙汰を誤魔化すために煙草を吸うしかなかった私の気持ちがわかるか?」
真っ赤になったフィンリーの頭を、ローガンがぐしゃぐしゃとなでた。
「だがな、これだけは反省しろ。自分で汲んできた水以外は飲むなって教えただろう」
「悪かったって。ローガンが俺のために用意しておいてくれたんだって思ってさ。だから、ついつい飲んじゃったんだ」
「……お前は、私のことを信用し過ぎだ」
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