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27 Ωの覚悟2

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 たったいま、僕のうなじに噛みつこうとしていたルジャン殿下が苦悶の表情を浮かべている。その顔が少し遠のき、そのまま後ずさるように離れていった。
 ルジャン殿下の斜め後ろにはノアール殿下が立っていた。殿下はいつもと変わらない表情を浮かべているが、ルジャン殿下を見る眼差しは見たことがないほど鋭いものだ。

「遅くなってすまない、ランシュ」

 視線をルジャン殿下に向けたまま、ノアール殿下がそう口にした。

(え……?)

 もしかしなくても、いま僕の名前を呼んだ……? 肉体的にも精神的にもおかしくなっていた僕は、一瞬空耳かと思った。しかし「ランシュ、大丈夫か」という殿下の声に、「……初めて名前を呼ばれたぞ」と間抜けな感想を抱いてしまった。
 突っ立ったまま呆けていると、足音もなく殿下が近づいてきた。ルジャン殿下に視線を向けたまま伸びてきた手に、ぐいっと抱き寄せられる。

(……あぁ、ノアール殿下だ)

 なぜか、そう思った。目で見てわかっているのに、触れた熱にようやく実感、いや安堵した。
 そう感じた途端に体がカタカタと震え出した。閉じ込めようとしていたいろんな感情や感覚が一度に吹き出したように、頭も気持ちもぐちゃぐちゃになる。ホッとしているのにあちこちから恐怖がわき上がってきて、震える体を止めることができない。

「もう大丈夫だ。…………いや、やはり遅かったな。すまない」

 殿下のクンと鼻を鳴らしている音がすぐ近くから聞こえた。

(……頭のあたりを、嗅がれてる……?)

 どうやら頭のてっぺんに鼻を近づけているらしい。そのまま再びクンと匂いを嗅がれた。

(抱き寄せられた状態で、頭に顔まで寄せられているなんて、まるで……)

 まるで、物語に描かれている恋人のようじゃないか。
 そう思った途端、体にぶわっと熱が広がった。心臓はかつてないほどバクバク動き、体からじわりと何かがにじみ出す。“恋人”なんて思ってしまった自分が恥ずかしいのに、殿下に嗅がれることが気持ちよくて段々と思考がぼんやりしてくる。

(もっと……もっと、僕の――を、嗅いでほしい……)

 なぜか、そんなことを思った。奇妙な欲求に頭がおかしくなったのかもしれない。そう思ったのは一瞬で、すぐに頭がふわふわとして何も考えられなくなる。

「……発情が始まったか」

 ノアール殿下の言葉は聞こえているのに、言っている内容は理解できなかった。それよりも、もっと僕を嗅いでほしいという欲求ばかりが強くなる。

「間に合ってよかった。ランシュのこともだが……おまえのことも、そう思っている」
「ノアール、殿下」

 やけに苦しそうな声が気になって、そちらに視線を向けた。少し離れたところに黒髪の誰かがいる。耳のあたりが光って見えるのは装飾品か何かだろうか。体を少し屈めている姿勢は、やけに苦しそうだ。
 ……それに、少し嫌な匂いがする。甘ったるくて喉が焼けるような……。そうだ、蜂蜜を煮詰めたような香りだ。花の蜜が好きな姫君たちにはたまらないのだろうが、僕には濃厚すぎて不快な甘さだった。

「おまえがわたしを敵視していることは知っている」
「……知っていて、無視していたということ、ですか」
「違う。……いや、そうだな。疑問を抱いているのにどうにかしようとしなかった。見て見ぬふりをしていたといったほうが正しいかもしれない」
「それは……それは、わたしが取るに足らぬ存在だからですか」

 やけに苦しそうな声だ。どうしてあの人はそんなに苦しそうな……悔しそうな声を出すんだろう。
 そんな人のことなど、放っておけばいいのに。殿下には誰かと話すことより、もっと僕を嗅いでいてほしい。ようやく僕にも――が出せるようになったのだから、もっと僕を見てほしかった。

「そうじゃない。わたしは……いや、何を言っても言い訳にしかならないか」
「あなたに見下されていたことなど、いまさらです」
「見下したことなど一度もない。ただ、必要以上に関心を持たないようにしていただけだ」
「関心を持たない……それは、見下しているのと同じことです」
「そう受け取られても仕方ない状況だったことは認めよう。疑問を抱きながら解決策を見出すこともしないのに、血筋やαについては一人前に気を回す。王太子として最悪な状況だとわかっていたのにな」

 ノアール殿下の声が、いつもより気弱に聞こえた。どうしたのだろうか。見上げようとしたけれど、肩をギュッと抱かれて額を殿下の肩に押しつけることになってしまった。

(……あぁ、今日はカメオ・アビレだ)

 視界の端に映った見事な彫刻と宝石の輝きに、そんなことを思った。何かしようとしていたはずなのに、目に入ったものに意識が向いて何をしようとしていたのかわからなくなる。ただぼうっとカメオを見ていると、濃厚なミルクの香りがぶわっと鼻に入ってきた。そのせいで、ますます頭がぼうっとしてくる。

「おまえたちが何を画策してきたかは知っている。もちろん後宮を襲わせたことも、王家に連なる血筋の者たちとよからぬことを企てていることもだ」
「……それなら、さっさと処分すればいい」
「処分はしない」
「何を……何と甘いことを……その甘さが命取りだと、いつもヴィオレッティに言われているでしょう」
「これ以上、王族の血を引くαの数を減らすことはできない。それはおまえもわかっているだろう」
「……αの数が減れば国の未来に関わる、ということですか」
「王太子として、αが減ることは看過できない」

 殿下に触れている額から、じわりと熱が流れ込んでくる。これは……そうだ、前に一度感じたことがある体の芯を溶かすような熱風のような熱だ。

「それに、優秀なαを減らすこともできない」
「……はは、何をいまさら。わたしが出来損ないのαだということは、あなたも知っているはず」
「そう思っているのは見る目のない者たちだけだ。いや、そういった意味では能力がないαとも言えるか」

 あぁ、体の芯がじわじわと熱くなってきた。それに、僕の中からも何かがどんどんあふれていく。そう……これは……待ち望んでいたもの。早く……早く、僕の香り・・・・に気づいて……。

「おまえは優秀だ。優秀なαであるおまえを手放すのは惜しい」
「……何をいまさら……弟たちにさえ見下されているというのに」
「本当にそうか? それならなぜ弟たちは城に上がれないままだ? なぜおまえだけが父親とともに陛下に謁見できる?」
「……いまさら、そんなこと、」
「努力できることは才能の一つだ。いかにαであっても怠ればただの人と変わりない。つまり、努力し続けているおまえは優秀な王族αということだ」

 ノアール殿下の力強く静かな声が耳に心地よく響く。声を聞き、香りを嗅ぐだけで頭の芯が溶けるような気がする。
 ……気がつけば話し声が聞こえなくなっていた。やっと終わったんだろうか。そばに感じていた胸焼けするような蜂蜜の香りが消えたということは、もう誰にも邪魔されないということに違いない。
 僕は殿下に抱きつき、思い切り濃いミルクの香りを嗅いだ。

「あぁ……とても、いい香りがする……」
「ランシュからも甘くてよい香りがしている」
「ふふ……僕は、いい香りがしますか?」
「もちろんだ。何よりも、誰よりもよい香りだと思う」
「ふふ、ははは」

 なんだろう、とても気持ちがいい。よい香りだと言われたのが楽しくてうれしくて、心が弾んでくる。いまなら僕の身長よりはるかに大きなキャンバスの絵も、すぐさま描き終えることができそうだ。
 そんなふうに浮かれていたら、体がゆらゆら揺れていることに気がついた。おかしいな、足が床に触れていない。さっきまで踏んでいた絨毯の感触はどこに行ってしまったんだろう。

「……あれ……?」

 背中に柔らかなものが当たった。目を開けると、すぐ目の前にノアール殿下の美しい顔がある。

「殿下……?」
「発情が始まった。わかるか?」
「あー……なん、となく」

 そういえばそうだった。そうか、それでさっきから気持ちが高揚しているのか。それに濃くて甘いミルクの香りをずっと感じている。
 すぅ、と胸いっぱいに香りを嗅いだ。大好きな甘い香りに頭が痺れ、同時にお腹の奥がジンと疼いた。尻のあたりがじわりと濡れているような気もする。

「念のために確認するが、発情の相手をしてもいいな?」

 殿下の黒い目がやけにギラギラして見える。声もやたらと熱っぽい。

(そうか、また殿下と発情を共にできるんだ)

 そう思ったら、体の芯にボッと火が灯るような熱を感じた。それがどんどん膨れ上がり、体の外にぶわっと飛び散る。そんなおかしな現象が起こるはずないのに、なぜか僕にはそう感じられた。

(……いや、おかしくはない。だって、いまの僕からは……)

 間違いなくノアール殿下を誘う香りが出ているはず。どうしてそう思ったのかわからないが、確信を持ってそう断言できる。

「僕の……香りが、わかります、か……?」
「もちろん。わたしが大好きなミルクセーキのような甘い香りがする」
「よかった……」

 ノアール殿下は、ちゃんと僕の香りをわかってくれている。それに僕の香りが好きだとも言ってくれた。もちろん僕も濃いミルクの香りが好きだし、ずっと嗅いでいたいと思っている。
 だって、この濃いミルクの香りは殿下の香りだ。殿下の香りならずっと嗅いでいたい。いつまでも嗅いでいたいし、この香りにいつまでも包まれていたい。

(だから、僕と発情を共にしてほしい)

 Ωの僕と発情を共にして、たくさん香りを嗅がせてほしい。そうして僕の香りもたくさん嗅いでほしい。たくさん嗅いで、殿下についてしまうくらい嗅いで……そうして、僕を殿下だけの香りにしてほしい。

「僕は、殿下に相手を、してほしいです。殿下以外は、嫌です」

 ようやく言えた。ほかにも伝えたいことはたくさんあるが、これが一番言いたいことだった。
 Ωの僕は、ノアール殿下と発情を共にして……そうして、噛んでほしいと思っている。それは諦めでも望みでもなく、僕のΩとしての覚悟だった。
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